ナイアガラ大学[編集]
ナイアガラ大学では後にユタ-ジャズのヘッドコーチとなるフランク-レイデン指導のもとでプレイ。公式試合に参加できる大学2年生の1967-68シーズンから先発に抜擢され、出場した24試合のうち23試合でチームハイの得点をあげ、全米得点ランキングではルイジアナ州立大学のピート-マラビッチに次ぐ第2位の平均38.2得点を記録した。翌1968-69シーズンはライバル校の多くがマーフィーに対し厳しいマークを敷いたため、得点アベレージは下がったもののそれでも平均32.4得点をあげ、シラキュース大学戦では68得点を記録している。1969-70シーズンは平均29.4得点をあげた。大学3年間の成績は77試合の出場で通算2,548得点、平均33.1得点。全てのシーズンでオールアメリカンに選ばれている。
ヒューストン-ロケッツ[編集]
カレッジバスケ界での目覚しい活躍にも関わらず、マーフィーはその小柄な体格が原因でNBAスカウト陣からはあまり高い評価を得られず、エントリーした1970年のNBAドラフトではサンディエゴ-ロケッツから2巡目18位という指名順位だった(175cmのマーフィーは1970年当時リーグで最も小さい選手だった)。しかしマーフィーはルーキーシーズンからその評価を覆す活躍を見せ、チームの主力選手の一人としてプレイし、やはり同じ年に全体2位指名でロケッツに入団し、後にマーフィーと共にロケッツを支えることになるルディ-トムジャノビッチの成績を遥かに上回る平均15.8得点4.0アシストの成績を残し、チームも前年の27勝を大幅に上回る40勝をあげた。マーフィーはオールルーキー1stチームに選出されている。NBAでのキャリアを順調にスタートさせたマーフィーは、翌1971-72シーズンには平均18.2得点4.8アシストまで成績を伸ばすが、本拠地をサンディエゴからヒューストンに移転したロケッツは伸び悩みのシーズンが続き、このシーズン終了後にはエースだったエルヴィン-ヘイズはチームを去り、以後ロケッツはトムジャノビッチとマーフィー、そして彼らより1年遅れて入団したマイク-ニューリンを中心としたチームとなった。1973-74シーズンには初の平均20得点超えとなる20.4得点、リーグ2位となる平均7.4アシストをあげ、1974-75シーズンにはロケッツが1967年に誕生して以来初の勝率5割以上となる41勝41敗の成績を残し、マーフィーらにとっては初のプレーオフに進出している。1976-77シーズンにはモーゼス-マローンとジョン-ルーカスが加入。チームはマーフィーの得点力をより活かすためにルーカスを先発に抜擢し、マーフィーをシューティングガードにコンバートした。マローンという後に偉大なセンターとなる新戦力を得たロケッツは当時の球団記録となる49勝をあげ、初の地区優勝を果たしている。翌1977-78シーズンはトムジャノビッチ、ニューリンらが相次いで故障に見舞われたため、彼らの穴を埋めるべく奮闘したマーフィーはキャリアハイとなる平均25.6得点をあげたが、チームは28勝54敗と大きく負け越した。翌1978-79シーズンにはリック-バリーが加入し、チーム成績は47勝まで持ち直し、オールスターにも初出場を果たしたマーフィーは平均20得点以上を稼ぎ出すスコアラーとして活躍し続けたが、トムジャノビッチ、ニューリンらには徐々に成績の後退が見られ、チームも1979-80シーズン、1980-81シーズンと続けて成績を落としていった。