時代が変わってもなお仇を追い続けた男の結末~柘榴坂の仇討ち | Cecilia's Diary

Cecilia's Diary

「聖セシリア」は、音楽の守護聖人。これにならって、音楽をはじめとする芸術や
伝統文化などを楽しみつつ、毎日を生き生きと過ごしている様子をつづります。
ライフワークとしてコーチングも勉強中。

浅田次郎さんの短編集「五郎治殿後始末」の中のひとつを映画化した
「柘榴坂の仇討」を観てきました。

歴史上でも有名な「桜田門外の変」で井伊直弼が暗殺された際、
警護のために近習を務めていた下級武士の志村金吾が、
主君の仇打ちのため、明治の時代になっても暗殺の下手人を探し歩き、
一方で井伊直弼を討ったのち、死ぬこともできず身を隠してひっそりと生きる
直吉こと佐橋十兵衛。この2人が暗殺時に刀をまじえてから13年後に再び
顔を合わせるまでが描かれたストーリーです。

井伊直弼というと、攘夷をうたう武士たちをことごとくつぶそうと
強引な手段をとったいじわるで悪い人、というイメージがありますが、
攘夷だ開国だと世の中が揺れているなか、早くから開国を進めることが
日本のためになると先見の明を持っていた聡明な方だったようです。

政治的にはとても非情な人物に思えますが、実はとても風流なものをめでる、
心やさしい方だったよう。
(映画の中で、井伊直弼は若いころは「ちゃかぽん」と呼ばれていた
というセリフがあります。「ちゃ」→茶、「か」→花、「ぽん」→鼓の音
で、茶の湯は華道、鼓などに興じていた人のようです)
この映画がきっかけで井伊直弼という人物に対する印象が、
ちょっと変わってきそうです。

映画の中では、冒頭で志村金吾が井伊直弼の近習として仕えるようになるシーンのあと、
すぐに桜田門外の変が起こるので、そのあとはひたすら暗殺の下手人を探し歩く金吾と
息をひそめるようにして車引きをする直吉の姿が描かれていきます。

一方は仇討を遂げることだけを考え、もう一方は死にきれずにただ毎日を生きている。
明治という新しい時代に変わっても、この二人は「さむらい魂」といえば
きこえはいいですが、依然として桜田門外の変のときから時間がとまったまま。

執念を燃やす金吾に友人が手を貸したことから、直吉の存在が明らかになり、
金吾は井伊直弼暗殺から13年後にやっと再会を果たします。

ここからラストにかけての二人の相対する男の緊迫した雰囲気が伝わってきます。

折しも彼らが再会した日に、明治政府から仇討禁止令が出ます。
禁止令が出ようが、自分の使命を果たすことこそ大事と考えていた金吾ですが、
直吉と対面して話をしていくうちに、気持ちが変化していきます。

二人が再会してからの緊迫感からお互いに刀をまじえて戦い、
この世で生き続けることを選択するまでのシーンが圧巻です。

武士にとって、不名誉なまま生き続けることは生き恥をさらすことであり、
金吾は桜田門外の変のあと、責任をとって切腹をすることも許されない…。
また、同じ死ぬのでも切腹と討ち首ではまったくその意味が異なる…
など、今の日本では理解しがたい武士道(?)的な考えですが、
それでも人としての誇りを全うする彼らの生き方には、学ぶものがある気がしました。