映画の楽しさ2300通り

映画の楽しさ2300通り

ある映画好きからすべての映画好きへの恋文
Love Letters to all the Movie Lovers From a Movie Lover


韓国映画の記事が続いたので「韓流とわたくし」というタイトルで文章を書き始めたら、書きたいこと、盛り込みたいタイトルが多すぎて収拾がつかなくなりいったん断念。ちょっと切り口を変えて再トライすることにしました。

自分は韓国映画がかなり好き、と思う一方、韓国映画なら何でも観たい、ということでもありません。
それは「面白くない映画もあるから」ということではなく、これまでの経験上どの作品も重くのしかかってくるように感じるからです。

韓国ドラマや映画を観始めたころに、原語のセリフを少しはわかるようになろうと観ていたNHK韓国語講座で一時期講師を務めていた小倉喜蔵という韓国研究者(哲学者)が、「(한、ハン)」という概念を念入りに紹介していました。
日本版Wikipediaは、恨を「朝鮮文化においての思考様式の一つで、感情的なしこりや、痛恨、悲哀、無常観をさす朝鮮語の概念」としたうえで、その定義や歴史、評価などについて書いていますが、議論の残る部分もあり自分の手に負えそうにもないので、ここでは詳しく論じません。
なので恨と呼んでいいかどうかわかりませんが、確かに韓国映画の登場人物たちの多くは、自分の責に帰することのできない過去の、すなわち自らの力で現在解決することのできない問題、傷を抱えています。

その傷と言うのは例えば、親に捨てられた、親が殺された・自殺した、親が犯罪者だった、極端に貧乏だった、生まれつきあるいは事故のため障害がある社会的な制約から好きな相手と結ばれない「スキャンダル」ー写真ーなど)などなど実生活でも割とよく聞くものから、親に売られた先が暗殺者養成機関だった、孤児として育った養護院が子供たちの臓器を販売していたなどというエキセントリックなもの、また恋人を殺された、所属していた組織に裏切られた、自分のせいで愛する人を死なせてしまった、過酷な任務ゆえに精神を病んでしまったなど、長じてからとはいえやはり自身の力だけでは避けようがなかったものまであります。


多くの場合は家庭の崩壊や貧困が背景にあるのですが、両班(貴族)や財閥に生まれれば生まれたで別の傷、能力至上主義の親の愛情を得られないとか、兄弟姉妹の間に確執があるとか、自分の好きな(しかも得意な)道に進めない、とかいう場合もあります。
ご覧になった韓国映画の主人公たちを思い起こしてみればなるほど、と思われるでしょう。

そうした傷(便宜的に恨、ということにします)を抱えた主人公たちが、現時点の困難を解決しようとしながら間接的に恨を解こうとする姿に応援したいという気持ちがいや増さるのですが、厄介なのは悪役・敵役たちもまた恨を抱えているということ(「タイフーン」2005など)。なので気持ちの中では、単に法のこちら側にいる主人公を応援すればよい、というわけにはいかないのです。
で、それが困るかというと逆に面白い。幅の広い見方を示してくれるし、登場人物の心理や思考に深く入り込めるので、感情移入もしやすく印象も強くなります
それだけに、観終わったあとにぐったりしてしまうことも、しばらくの間その映画のことばかり頭に(心に?)浮かんでしまうということもしばしばです。観る前に体調と相談する必要がある、ともいえるでしょう。

そんな韓国映画だからこそ、大好きでありながらいざ観ようとすると二の足を踏むこともあります。これは絶対よいだろう、泣いちゃうかもな、と思って観られない作品(例えば大好きソン・イェジンの「私の頭の中の消しゴム」)もあるくらいです。
軽めの恋愛映画だろうと油断して観るのも危険なので、録画してもなかなか観る勇気が出ない(「母なる証明」とか)ものや、録画すらためらってしまう作品(「ブラザーフッド」とか)も多いのですが、最新のハリウッド映画をあまり観なくなってきた今も、韓国映画は横目で追いかけながら観続けていきたいと思っています。

 

 

※写真は「スキャンダル」のペ・ヨンジュンとチョン・ドヨン。

 

ブロトピ:2024/09/21