原題:The Unbearable Lightness of Being
ジャンル:家族/友情
製作国:アメリカ
監督:フィリップ・カウフマン
愛するポイント:俳優、演出、テーマの"セクシーさ"に魅せられる

自分はある映画作品についての記事を書くときによく"紹介"という言葉を使いますが、「存在の耐えられない軽さ」のような作品について書くときは我ながら「ちっとも紹介なんかじゃないな」と思います。
実際この「愛する映画たち」テーマの記事は「なぜその映画を愛しているのか」という理由を述べた感想文に過ぎず、紹介などとはおこがましい、というのが本音です。
本作についていえば、観た当時ソ連による東欧諸国への圧力についても"プラハの春"についてもよく理解しておらず、いまだに原作者のミラン・クンデラの著作を読んだこともなければ映画を観るまでは名前すら聞いたことすらなく、映画も一度観たきりという状況なので、監督や出演者の名前はともかく、作品内容の紹介などできるわけもありません。
それでも愛を感じるほどに強く印象に残っているのは事実。
ではどういうところが印象に残ったのかと言えば、それはこの作品がまとっている"セクシーさ"でした(今どきこういうことを言うと「小泉進次郎かっ!」と突っ込まれそうですが)。
ではどういうところがセクシーなのか、具体的なシーンやストーリーに触れずに説明するのは難しそうですが、ちょっと試みてみます。
まずは主要キャスト三人がみなセクシー。
その一人が個人的な好みではセクシーさでウィリアム・ハートと一二を争うダニエル・デイ=ルイス、二人の女性は「蜘蛛女」で強烈なセクシーさを見せたレナ・オリンと「トリコロール/青の愛」「イングリッシュ・ペイシェント」等で人気のジュリエット・ビノシュとくればセクシーさは半端ありません(個人の感想です)。
次にカメラの目線がセクシー。
これはデイ=ルイスの役どころであるプレイボーイの目線による部分が大きいですが、サスペンスフルなシーンも含めてフィリップ・カウフマン監督の演出は過度にエロっぽくなることなく、セクシーであり続けているように思います。
もうひとつはテーマから感じるセクシーさ。
本作はチェコスロヴァキアへのソ連軍侵攻を招くことになった"プラハの春"を背景にしているため常に身近に死を感じさせますが、そういう困難な状況下にあって生き抜こうとする行為と愛し合うこと、さらにその延長線上にあるセックスが同一線上に描かれます。
一般に生きるということには目標を達成するとか、趣味を楽しむとか、まあいろんな要素があると思いますが、(ソ連の)圧政下で自由を制限された生活においては、愛すること(そしてその帰結としてのセックス)こそが生きることであり、誕生と死のあわいを自分らしく愛し愛されて生きようとする姿がセクシーだと感じられたのです。
そのセクシーさを初見から40年近くたとうとする今でも味わえるのか、再見するのが楽しみな作品でもあります。