わたし達は、

そんなに不幸なのか?


そんなに困っているのか?


そんなにダメなのか?






ふと、

目が覚めるような気持ちに

時々なります






先日、

中学二年生、

野球少年の息子の試合を観ていました





学年の部員数が9人を割っていて

一年生の力を借りなければ

試合もできない。


どちらかといえば

細身で小柄揃い、

他のチームに比べれば

声も小さめ



その日は

2試合、ダブルヘッダー。



1試合目は

ボロ負け。





ある瞬間を境に

完全に相手チームに

勝利の女神は微笑みまくった




こちらは


エラー続きの

ヒットなし





だって


練習時間が短すぎる。

試合の前日も練習なし。

最近はバッティング練習なし。




と、




ダメな空気に押されて


このような結果になった理由を

永遠に述べられる。



2試合目も

勝ってはいるけど、



ハラハラドキドキの展開




点差があるはずなのに、



少しの気の緩みで

相手チームのムードになる




ファインプレーは

いつも、むこうだ。


負けていたって

そのプレーで

盛り上がる。




いつも

いつも



こちらではない




むこうのほうが


よくみえる。






バッターボックスに立つ

息子の活躍に期待しては



一喜一憂







けれど。





あれ?待てよ?





我が子の活躍に一点集中して

この試合の勝利を熱く願うばかりに



大事なことを忘れている。



息子にとって

大好きな野球が、今、できている



野球ができて

嬉しい、楽しい


そんな気持ちでやれたら

最高だろうなーーーと


思った。



そして、何より

息子の試合を観るのが


わたしは好きなんだ。



好きというベースがあって


ハラハラドキドキも含んだ

体験を、

応援を楽しんだらいいね。








平和という

大きなベース



私たちの年代は

平和で当たり前の時代に生きている



はじめからある


だから

そのありがたみを感じにくい




平和だから

野球ができる



好きな事が

できる




コロナがあって


改めて、実感できる

当たり前への感謝




試合ができる喜び





でも。


また


簡単に


ダメな理由が

じゃんじゃん湧いてくる




そんな風に思ってしまう。





平和時代に生まれた私たちは




もっと、もっとよくなれ



こんなんでは幸せではない



歯を食いしばれ



もっと上を目指せ




そんなパワーの

親の世代に育てられている




だから

本当は

もうじゅうぶん幸せなのに




ちょっと違う

古い価値観の方を信じてしまって




今、ある幸せを

満喫できないでいる





本当にそんなにダメなのか?



自分たちは

不幸なのか?



もっと幸せにならなくてはいけないのか?





わたし達は、もう充分

幸せなんじゃないのか?






その感謝の上で




良くなるように

気が向かうことは

きっと楽しいし、


工夫したり、

声かけあったり



暖かい空気に

包まれてると思う。




本当は

もう

じゅうぶんしあわせ。