君を殺してよかった 4 廻里灯人という物語 肆 | 墜落症候群

墜落症候群

墜ちていくというのは、とても怖くて暗いことのはずなのに、どこか愉しい。

|||僕には出来ない|||

 人間には誰にでも歴史っていう物がある。それは僕だって同じ事だ。
 人生の時間の積み重ねは人間に厚みを作り、そして、生きていれば大事な思い出だって出来る。
 今、実感しているのは、死にたくなるくらいに辛い時には、思い出を引っ張り出してどうにかこうにかやり過ごすしかないって事だ。
 頭の中にリフレインするのは妹との日々。
 その中でも、何歳の頃かも忘れてしまった幼い日の記憶が鮮明に脳裏に蘇る。
 思い出そのものというよりは、その時に自分が妹に抱いた想いが、呪いのように揺らめく。

 そこは公園だった。僕らの暮らしている街は、それほど移動する事なく山や森に行き当たるくらいの田舎で、その公園というのも森の中の小さな広場と言った方がいいくらいの趣きだった。
 広場の周囲の木々の間を走り回ったり、太い幹の影に身体を隠してから、いないいないばぁ、みたいに影から姿を現してお互いを再発見したり。くすくす笑い合うような無為の時間の中に僕と妹はいた。
 そんな時間を過ごして、唐突と言えば唐突に、妹が転んだのだ。
 膝を擦り剥いて泣きじゃくる妹をあやして、何とか立ち上がらせる。
 痛みがなかなか引かないらしい妹をおんぶして、ゆっくりと家へと向かう。
「ずっとこうしていたい」
 と甘える妹に、僕自身もその重さと身体の感触に心地良さを感じて。
 そんな依存するような気持ちの惹かれ合いに。

 ――僕は妹をずっと自分のモノにしておきたいなぁ、と思った。

 このまま家に帰ったら檻に監禁して首輪付けて永遠に飼っていたいなぁ。妹もそれを受け入れてくれるんじゃないかなぁ。
 しかし、そんな病んだ発想を僕はきっと実行出来ないだろうとも思った。
 現実的にそれが可能かどうかというのは、この場合特に問題ではない。
 それはそもそも妄想の類だったのだから。
 でもきっと全ての条件が満たされていて、親の邪魔も入らなくて、僕以外誰も妹の事を知らなくて、妹自身がそれを許してくれたとしても。
 結局僕はそれを実行出来ないだろうと思った。
 僕は自分の欲望のままに、相手を踏み躙る事が、きっと出来ない。
 本当はしたくても、実際には出来ない。
 行動には移せない。
 そういう自分だと分かっていた。

 だけど、今になって思う。
 回想を終えた僕は目を開けて、病室の壁を目に移す。
 妹を監禁して閉じ込めて、全てを僕が与えて、全てを僕が奪ったとしたら。
 きっと妹は、今でもすぐ傍にいてくれたんじゃないか、と。
 そんな荒唐無稽な事を思う。
 相手を殺してでも自分の物にしたいというようなエゴを押し通せない僕だから、だからきっと妹は永遠に損なわれてしまったのだ、と。
 そんな狂ったような思考で遊んだ。
 そして、僕はどれだけ狂った事を考えようと、どこかで心に一線を引いている。
 行動には移せない。現実には動けない。
 相手を害してまで、自分の物にしようとは思えない。
 そんな中途半端な人間に過ぎないのだろう。
 それが僕の本質だった。

---コピーペースト---

 黒縁眼鏡を掛けた地味な女の顔。そんな自分の顔を鏡に映しながらも、私の思考は甥の事で一杯だった。
 端的に言って心配なのだ。
 私は……、熾宮飛花は叔母として甥の廻里灯人が心配だ。
 そんな当たり前の前提を確認するように繰り返してしまうのは、実際の本心はそれとは少しズレているからなのだろうか?
 両親を無差別猟奇殺人犯に殺されるという理不尽な展開、物語のような経歴を持つ彼の事が心配だ。勿論姪の鳴希ちゃんだって心配だけれど、別に私は『学生時代に親を亡くしたから』という理由だけで灯人くんの事が心配という訳ではない。経済的な援助は約束しているし、もうしばらくして兄妹の気持ちが落ち着いたら、私の家に引き取る用意もある。生活に関しても今の計画が全て上手くいくとは限らないけれど、問題はそんな所にはない。
 それでは灯人くんの何が心配なのかと言えば、彼の心が心配だという事になる。
 両親の死からいびつに歪み、あるべき道から極端に外れてしまったかのような、彼の行く末が心配なのだ。
 これが私の考え違いであってくれたらいいのだけれど、灯人くんは両親の唐突な喪失そのものを嘆き哀しみ、それで精神的に落ちてしまっているのではないようなのだ。両親の死にショックを受けているのだとすれば、それは普通の子の範疇だ。灯人くんはどこか違う。
 灯人くんは両親の死を悲しんでいないように見える。それどころか、どちらかと言えば両親を殺害した猟奇殺人犯の方の異様な影響力をその身に受けているような気がしてならないのだ。
 その結果、灯人くんがどのような方向に引っ張られどんな事になってしまうのか……それが気になる。気が付いた時には致命的なまでに手遅れになってしまっていそうで。しかもそのタイミングは案外遠くないような気がして――そんなこれからの展開が何一つ読めない灯人くんの事ばかり考えている。
 ……もしかしたら灯人くん自身よりも、灯人くんの事を考えているかもしれないくらいに。

 その日は長閑な日和だった。十月も半ばを越えて今日は十月十九日になるが、最近の風が冷たい日々と比較すると今日の日射しはやたらと優しく感じられる。平穏を絵に描いたような街並みは、きっとおかしな事なんて起こる筈はないと私に思わせた。
 いやより正確に言うのなら、私にそういった僅かばかりの見せかけの希望を持つように促した。
 だがしかし、廻里家のドアノブを握った瞬間、私はその希望がただの錯覚に過ぎない事に気付いた。
 ドアノブを握る右手から悪寒が走る。精神的な理由で体調を崩し、学校に行く前にお腹が痛くなる内気な子供みたいに、私は素直に言えば『帰りたい』と思ってしまった。
 ドアノブが極冷であったかのように、一度ドアノブを離し自らの右手を見詰める私は、その大袈裟な自分の身振りと周囲の牧歌的な日射しにバカバカしいようなギャップを感じながらも、ここが一つの分水嶺だと思った。
 きっと、この扉を開けたら、何かが終わる。
 ただの民家の玄関が、人外魔境の入り口のように見えてしまった。
 荒唐無稽なその発想を笑うようにして、無理矢理に気力を振り絞ってから、扉を開ける。後で自分の異様なリアクションを、黒歴史のように呆れる事が出来たらいいな、と思った。
 結論から言ってそのイヤな予感は少しも杞憂とはならなかった。
 まず廊下の見え方からして歪んでいる。あり得ない奥行きがあり、何処までも続きそうな闇と通じている。
 廻里家の廊下は玄関から入った正面に階段が見える筈だが、現状ではどれくらい進んだら階段が見えるのかすら分からない。
 その代わり、罠に誘き寄せるように玄関脇にある居間への入り口から日射しが差していた。
 背後でバタンと耳障りな音が鳴り響き、誰もいない筈なのに誰かが叩き付けたように玄関の扉が閉まった。
 思わず私が振り向くと、玄関の扉のノブが黒い蛇になり、サムターンを咥えるとカチリと鍵を掛けた。蛇は上に這いずり上がり、扉の開閉を制限するドアガードを倒す。そしてそのまま黒い鎖となってドアガードに絡みついた。回すべきノブは鎖になってしまってもう存在しない。
 ――私を帰す気はないって事かな。
 まるで悪夢のような情景に自分なりの解釈を与えてから、うんざりと溜め息を吐く。
 いつまでも沓脱ぎに突っ立っている訳にもいかず、靴を脱いで居間へと向かう。
 もう私は扉を開けてしまったのだから、もう後戻りは出来ない。
 居間へと繋がる引き戸を開けると、その空間はまるで廃工場を連想させる荒廃ぶりと広さを誇っていた。
 天井からは何本もの巨大な釣り針のようなフックが降り、その一つ一つに何らかの肉が吊り下げられている。現実だというのに、それらの肉にはモザイク処理がされていた。
 私はその肉を見た瞬間に浮かんだ最悪の想像が、決して実現しない事を望んだ。
「……やあ、叔母さん。ほんの一日か二日会わなかっただけなのに、僕は随分と貴方に会うのが久し振りな気がするよ」
 モザイク肉ばかりが気になっていた私は、不意に横から声を掛けられた。
 そこには普段と何ら変わりのない姿の灯人くんがいた。しかし、彼はこの非現実的な光景にどうしてだかよく馴染んでいるように見えた。この世界に既にどっぷり浸かってしまっているかのように。
「鳴希ちゃんは何処に行ったの?」
「最初の質問がそれかよ。ふぅん、やっぱり叔母さんは僕達の――いや。僕の、かな? 僕の事を良く見ているね。でも質問するって事は薄々気付いているんでしょ?」
 灯人くんはぴっと上を指差した。
「鳴希ならあそこにいくらでもぶら下がっているじゃないか」
 魚みたいに開きにされたようにしか見えないあの肉と骨の塊は、やっぱり……。いや、とそこで私は我に返る。
「いくらでも、ってどういう事?」
 モザイク肉は複数ある。指折り数えるのが怖くもあるが、確実に十は越えている。
「まるで肉屋の冷凍庫みたいにあんなにぶらぶらと肉がぶら下がってちゃ、確かに僕が連続殺人鬼にでもなって、無差別に人を吊るしまくっているみたいにも思えるのかな。でも違うよ。あの死体は皆、鳴希なんだ」
「理屈が通じない世界っていうのは玄関を開けてからもう分かってるわ。でも一体何がどうなってるの?」
「それじゃあ話そうか。もうちょっとでいい感じに大鍋の煮込みも終わりそうだし。叔母さんには僕の料理をぜひふるまってあげたいからね。僕の両親はご存知の通り、連続殺人鬼に解体(バラ)された。そしてその事は僕にある気付きをもたらした」
「気付き?」
「そう、気付いたんだよ。別に両親の理不尽な喪失そのものが僕を変えた訳じゃない。だけれど、身近な存在がこんなに簡単に消えてしまうって事に僕は驚愕したんだよね。こんなにあっさりしたものかとね。世界は時に唐突で理不尽なんだ。そしてその気紛れな暴威が、いつ妹に振るわれるか分からない」
「……だ、だから殺した? それって、何で、」
 私には灯人くんの思考の帰結が上手く掴めない。
「うん。だって妹もどこかの強姦魔とかに陵辱されて殺されるかもしれないんだよ? 人間の生命って一個しかないじゃない。そんな事で妹の生命が失われたら、僕はすっごく勿体ないって気分になるよ」
「勿体ないって言い方は、ちょっと尋常じゃない感じがするけれど……」
「でもさ、別にもう理由なんてどうでもいいでしょ? 結果的に僕は鳴希を殺した。むしろ叔母さんが現象的に理解できないのは鳴希が『いっぱい』ぶら下がっていることについてなんじゃないの?」
「それは……そうね」
「けれど僕もこれを説明することは出来ない。僕は鳴希の死体を余すところなく使い切った筈だったんだ。髪の毛から爪の先まで調理完了って感じにしてさ。でも、使い切ったら冷蔵庫の中に同じ鳴希の死体があったんだよ。それを契機にしたかのように、鳴希は分裂を始めた。そして、僕の家は膨張し始めた」
「どうしてそうなったと思う?」
「どうしてそうなったかはどうでもいい。っていうかさ、叔母さん。何でそんなに落ち着いているの?」
「どうしてだと思う?」
「……分からないよ。それよりそろそろ大鍋の煮込みが丁度良い感じだと思うんだ」
「ふうん、そう」
 私は食卓の席に座って、灯人くんを待つことにした。
 そして、灯人くんは一枚のスープ皿を持ってきた。それは具材の入っていない黄金色のスープだった。私はスプーンでそれを掬い、一口飲んだ。
「――鳴希ちゃんの味がするね」
 ……そして、それより何より灯人くんの深い愛情の味がするね。
 私はにっこりと笑うと、皿を床に落とした。床にスープがぶちまけられ、皿の破片が散った。
「な、何をするんだ?! ああ、せっかくの鳴希のスープが……」
「いっぱいあるんだったら、別にいいでしょ?」
「何でこんなことをするの?」
「灯人くんは私が何をしたいかが分かる?」
「分からない……」
「灯人くんにとって鳴希ちゃんは大事だったんだね。じゃあ、私にとって鳴希ちゃんは大事だと思う?」
「分かんないよ」
「奇しくも灯人くんが言っていた通りだね。誰かが死んじゃって、そのことによって明確になることもあるんだ」
 私にとって灯人くんは大事だった。しかし、さっきスープを飲んでも分かったように、死してなお、彼は妹の鳴希ちゃんに執着している。
 しかしだとしても、死者とはコミュニケーションを取れない以上、これからは百パーセント鳴希ちゃんは灯人くんにとって過去の人になる――過去の妹になる。

 だから。だから私は。

「叔母さん、何で笑ってるの?」
「どうしてだと思う?」

 楽しいからに決まっているじゃない。灯人くんはバカよね。
 鳴希ちゃんが死んで、食べられて、分裂して、吊り下げられて、全てが終わってしまったように思えるけれど。
 本当はここから始まるんだよ?

 ――ホント、灯人くんは何も分かってないね。

---不在妹病(ふざいまいびょう)---

 染め上げられた純白さが、むしろ不穏を感じさせる診察室。
 精神科医と向き合う灯人は一冊の大学ノートを開いている。
 そこには『今日は妹と寝た』だとか、『妹はなかなか咥えてくれない』だとかそんなことが書かれている。
 灯人は一度それを精神科医に見せてから、またそれを返された。
「――いい傾向ですね」
「そうなんですか? 僕、妹と性的な関係まで持っちゃって、なんだか爛れていますけれど」
「でも、それは文字の上だけのことなんでしょう?」
「よくそれが分かりましたね。確かにそうです。ノートで見ると過激に見えますけれど、僕は実際は妹のことをほとんど思い出せないんです。どんな姿かもよく覚えていない。このノートの内容も実際に経験したことなのかどうなのか……経験していたとしても、ノートに文字の形で置き換えたら、それで満足して忘れちゃったのかも」
「私にも今回のこの記述が、どのような経緯で書かれたか、正確に推測することはできません。しかし、一般的にも妹に性欲を向けるという行為は、不在妹病が寛解に向かっている印と言われているんですよ」
「そうだったんですね……」
「ええまあ、異論もあるでしょうけれど、妄想の中で性欲を向ける相手なんて、結構移ろいやすいものでしょう? インターネットで探しちゃったり、性的な本を買い求めてみたり、現実にいる相手を汚しちゃったりとか、まあその時々によって色々あるでしょうけれどね。現実のパートナー以外で妄想をするのは不誠実だ、という潔癖な意見も存在しないとは言いませんが、それは人間に『貴方は生涯一つの料理しか食べてはいけません』と言うのと同じです。生涯一人だけを妄想上の性欲の対象にするのは不可能です。それは移ろいゆくもの――そして、絶対的ではないものです。つまり自身の中の確固たる妹像を創造し、現実とまるで変わらない形で認識する――自分の妹を唯一無二として認識する、不在妹病の本質とは真逆です」
「つまり僕は鳴希に性欲を抱くことで、鳴希への執着を逆に失っていると言える――という訳ですね先生」
「そういうことですね、灯人君」

 やれやれ、と灯人は頭を掻きながら、その病院を後にした。
 今、日本では不在妹病というイマジナリーフレンドのエグいヤツみたいな病気が蔓延している。
 イマジナリーフレンドというのは、幼少期に孤独を味わった子が、実際には存在しない架空の友人を頭の中に作り出してしまうという症例だが、不在妹病は誰でも罹る。
 日本人なら誰だって、老若男女問わずして、妹という存在を欲しているというのは常識であるから、別にその年齢や性別を乗り越えた病気であることには特に疑問を差し挟む余地はない。
 しかしその不在妹病で生み出される、現実と何一つ変わらない、喋ることもできれば触ることもできる(と錯覚させる)妹は、ただでさえ少子高齢である日本に更なる致命的な打撃を与えかねなかった。
 例えば、二十代後半の女性でも結婚相手を探すより自分だけの妹を愛でている方が幸せだし、十代後半の男子でも同年代の女子よりも自分だけの妹の方が可愛く見えて仕方ないだろう。四十代男性なら娘のような外見でありながらかつ妹という存在に心を奪われてならず、三十代女性ならまるで双子のように妹との結びつきをかけがえのないものと感じてしまうだろう。これでその自分だけの妹と子供でも作ることができればまだいいのだろうが、しかしその妹は所詮妄想の類である。性行為や妊娠は可能だし、出産まで事が運ぶケースも稀にあるらしいが、その妹との子供を他人が一切認識できないのならば意味がない。政府は不在妹病を特例の指定難病として、全国の精神科医において無料で診察できるように取り計らった。
 それでも順調に日本を更なる少子へと追い込んでいるこの病気は、一部では白眼視の元となっており、今では『あら、その年でまだ結婚してないの?』とでも言うように、『貴方まだ不在妹病なんかで遊んでいるの?』と罹患者が責められることも日常茶飯事のように起きているらしい。
 灯人も鳴希という名前の彼だけの妹に、かなりぞっこんはまり込んでいた。しかし彼には幼い頃から将来を約束した相手、熾宮飛花がいた。年末に訪れる彼女の十六歳の誕生日には婚約することも決まっているし、今現在も二人きりで同棲している。そんな彼女がいるからこそ、彼は早くこの病から立ち直りたいと考えてきた。今日の医師の診察時の話では、完全に病から逃れるのもそう遠いことではなさそうだ。

 灯人が家に帰ると、美少女妻(予定)の飛花が出迎えてくれた。
 ぱっちりと大きい目、深い藍色の瞳。流れるような背中まで届く黒髪を、下の方から三箇所、拳大の固結びで結ぶという奇抜なヘアスタイルをしている。間違いなく美人と言える容姿。まあ幼少期から婚約するなんて、美少女じゃなくちゃあり得ないけど。
「ただいま」
「おかえり……それで診察はどうだったの?」
「間髪入れずに聞くね」
「それはそうでしょう。二人の間で最も大事なことだもの」
「ふぅん、不在妹病のことが一番大事? 僕と飛花が愛し合っているとかさ、そっちの方が大事なんじゃないの? ねぇそろそろ中に入れてくれない?」
 飛花は通せんぼするように両手を玄関の枠にかけている。通してくれない。
「……ええと、僕の不在妹病はほとんど治りかけてるよ。お医者さんも、もうほぼ寛解だってさ」
「でもそれって嘘よね?」
「え? 何が?」
「だって不在妹病って、究極的に言っちゃうと本人しかその病状を把握できないじゃない。貴方が医師と私に『見えません』って言えばそれで治ったことになっちゃうじゃない」
「そんな嘘は言ってないよ。それに不在妹病の治癒については政府が本気になって税金を投入したから、今ではかなり研究が進んでて、飛花が言ったみたいに患者が嘘を言うだけでは医者を騙せたりしない。僕だっていくつかのテストを受けて、そして段階的に治癒している様を医師に確認してもらってるんだから」
「別にそういう細かいことはどうだっていいの。最も重要なのは、私が貴方を信じてないってこと」
「飛花は信じてない相手と結婚しようって言うの?」
「ええ、もちろんそうよ?」
 ここで飛花は僕が帰って来てから初めて、にっこりとした笑顔を浮かべてみせた。

 それこそ表面的に見れば、飛花の『アンタのことなんて信じてあげないんだからねっ!』と言わんばかりの態度は婚約者に対してはどうかと思われるものだろう。
 しかしこれには理由がある。
 というか、灯人がその原因を作ってしまったのだ。
 不在妹病の発症の原因は実のところまだ特定されていないのだが、その高い依存性から、心の拠り所がない人間が――居場所のない人間が発症するという偏見がある。
 そして、灯人が不在妹病に発症したのは、飛花と初めて結婚の約束をした、その翌日だったのだ。
 その時二人は同じ保育園に通っていたので、それこそそれは口約束に過ぎなかったのだけれど、今高校生になって同棲する現状を鑑みても、その時点でかなり本気度は高かったと言える。
 だというのに、そんな二人の初めての約束の翌日に、灯人には鳴希という幻覚が現れた。
 居場所がない、誰にも頼る人がいない、寂しい人こそが生み出すとされている不在妹病を発症させてしまったのだ。
 その時の飛花がどれだけショックを受けたのかは灯人にも測り切ることができない。ただ、子供心に相当にショックだったのだろう。自分と家族になろうと言った相手が、翌日には自分より親しい家族を頭の中に創ってしまったのだから。灯人だって自覚している。それは手酷い裏切りだ。
 しかし飛花はそれで灯人のことを遠ざけたりはしなかった。それどころかより灯人に執着するようになった。
 灯人の裏切りによる心の傷が、飛花を頑なにさせていた。
『自分以外に大事な相手を作る灯人なんて大嫌いだから、だからこそいついかなる時も一緒にいなくちゃね』
 そんな歪んだ彼女の精神状態が、灯人は結局のところ嫌いではない。
 だから、今も一緒にいるのだろう。
 そして、飛花との共依存のような関係性の中で、今となっては鳴希という幻覚は必要なくなってきている。
 それが灯人の不在妹病が寛解に向かっていることの理由だろう。

 どれだけ手酷い発言をした後でも飛花が心を込めた料理を作ってくれるのは変わらない。そして、彼女は毎日灯人と一緒に寝たがる。
 同棲を始める際に一応ベッドは二つ用意したし、部屋も別々だったのだけれど、飛花が毎晩求めている内に今は一緒に寝ることの方が当たり前になってしまった。
 ベッドランプだけ付けて、先に布団を被ってベッドに横になっている飛花。
 その隣のスペースに、灯人も身を滑り込ませる。
 飛花はあちら側を向いていたので、丁度背中合わせのようになった。どうやらまだ機嫌を直してくれてはいないようだ。
 暗がりの中、飛花の部屋の中をぼーっと眺める。
 すると、そこに誰かがいるのに気が付いた。
 その小柄な少女は、何も服を着ずにただ黙りこくって灯人の方を見つめていた。
 何か言いたいのだろうか。何も言いたくないのかもしれない。
 自分の存在が喪失しようとしているのに、特にそれを恨むでもなく、ただ純粋に灯人のことを見つめている鳴希。
 灯人はその儚げなその姿を見ても、何の感情も湧き上がってこなかった。
 ノートによるとこの数日間の間で、性的な意味で手を出したりしてしまったらしいのだけれど、今その裸体を見ていても何も思わなかった。
 そうしている内に、鳴希の顔が酷くあやふやというか、薄ぼんやりしてよく見えない状態になってきた。
 それと同時に灯人の頭からも、鳴希がどんな顔をしていたかという記憶が薄れていった。
 裸体の輪郭線がグニャグニャと解けて、まるでスライムみたいに、鳴希という姿を取っていたはずの何かは崩れていった。その過程を見て初めて、灯人には触ることもできた鳴希が、ただの自分の幻想に過ぎなかったということを実感として受け止めることができた。
「……もう終わり、なんだな……」
 それを耳聡く聞きつけたらしい飛花が鋭く反応する。
「え? 何が終わりなの?」
「起きてたの……?」
 心配しなくても別に僕と君との同棲生活が終わりとかじゃないし、と灯人はツッコミを入れるように思って、溜め息を吐いた。

 翌朝、食卓を囲む二人の会話。
「ねぇ、鳴希ちゃんってまだ見えるの? そこにいる?」
「うん?」
「昨日治りかけって言っていたじゃない」
「ああ、不在妹病の話か。それで鳴希って誰だっけ?」
「いや、だから不在妹病で見えるあなたの妹の話で……」
「何を言っているの? 飛花」
 そして、灯人は自分がどれほど異常なことを言っているか自覚していない、ただいつも通りの平静な表情で、
「それはお前のことでしょ。僕の妹は――僕だけに見える僕の妹は、昔も君だけだよ?」
 彼にはきっと寄り掛かる対象が必要で、それさえ居てくれるのならば、それが誰であっても構わなかったのだろう。もう顔も忘れてしまった誰かと、幼い頃から過ごしてきた婚約者を混同してもそれに気付かず、そんな自分に疑問さえも抱かないのだった。
「ええ。あなたがそう言うのなら、私は妹で構わない。私は貴方の婚約者かつ妹の――熾宮飛花って事でいい」
 彼女は笑顔で頷いて、そんな彼の事を受け入れた。彼が自分を受け入れてくれるのなら、どんな呼び方でも構わない。そのようにして、今ここに閉じた関係性の輪は、捻れたままに完成した。

---放課後のヤンデレ妹---

 灯人は考える。
 はっと気が付いたら自分が屋上にいた、というシチュエーションに陥った時の、正しい反応とは何だろう。
 自分が重大な精神的な疲労を抱えていて、気が付かない内に飛び降り自殺の魅力に取り憑かれていたことを疑うべきだろうか。
 周囲を見渡してみる。
 やはり紛うことなき屋上だった。
 灯人が在籍する公立久遠坂高等学校には屋上がある。しかし秋の寒風吹き荒ぶ中に好き好んで屋上に出る生徒はいない。そもそも鍵は掛けられていないものの、彼の高校には屋上に出て駄弁るといった文化は存在しないようだった。実際灯人もこうして屋上に出るのは初めてだ。
 ぎし、と落下防止用の緑の金網に手を絡め、軽く体重を掛ける。見晴らしがいい。灯人の街の全景が見渡せるといって過言ではないかもしれない。
 寒いくらいの風が吹くが、それすらも心地良く感じられた。
 屋上も悪くない。
 そんな風に落ち着いてしまってから、灯人は今が仮に授業中だったらかなりヤバいのではないか、と急に焦り始めた。これまで高校に来てまでサボるなんて不良のような高度の真似をしたことはない。サボる時は普通に休む。
 日射しの具合から夕方に近いとは思うのだが、秋はそもそも日が暮れるのが早い。灯人には太陽の位置だけで時間を特定するような技術はない。素直に諦めてスマホで確認すると、きちんと放課後の時間帯だった。ついでに日付は十月二十一日だった。というか日曜日だった。
 灯人は何が楽しくて、日曜日の夕方に高校の屋上なんぞに来てしまったのだろうか。それほどまでに灯人の無意識を支配する飛び降り自殺願望が強かったというのだろうか? ナンセンスだな……と灯人は息を吐いた。
 そもそも休日って校門が閉まっているはずじゃなかっただろうか? どうやって自分がここまで来たのか、灯人自身が一番知りたかった。
 そしてその時、屋上の扉が開いた。
「――お兄ちゃんは勝利することについて、どう思うかな?」
 出てきたのは丁度小学生くらいの、ツインテールの女の子だった。ベージュのスカートに、白いウサギのキャラクターがプリントされたピンクのトレーナーを着ている。なんかダサい。
「勝利すること? 勿論勝てば誰だって嬉しいんじゃないかな。でもその裏側ではどうしたって負けた人がいる。どっちかっていうと、僕は負けた方が可哀想と思ってしまうタイプかもね。で、それはそうと君は誰?」
「何を言っているの? お兄ちゃんは自分の妹を忘れちゃうの? どれだけポンコツお兄ちゃんなの?」
「君みたいなダサいトレーナーを着た妹、僕は知らないなぁ……」
「これダサい?! えええ……そっか。そうだね。私、ちょっとこういうセンスには疎いところがあるから」
「質問を繰り返すけれど、君は一体誰?」
「私は熾宮飛花だよ。それにしてもお兄ちゃん、昨日は私のこと妹って呼んでくれたのに酷いよね」
「僕は君を妹扱いした覚えなんてないけど……」
 しかし、今日も突然屋上で気が付いた灯人なのだ。自分の記憶に自信が持てるとは言えない。誤魔化すように言葉を継ぐ。
「いきなり勝つことについて聞いてきたけどさ、それじゃあ君は勝つことについてどう考えているの?」
「勝ちは全てなのよ」
「そう?」 
「例えばある宝物があるとするでしょ? だったらそれを手に入れるのが勝ちってことになる。それを見つける為に冒険したって、最終的にそれを他人に奪われちゃその過程は無意味になる。勝つ為にはすべての手段が正当化されるの。例え罪を犯しても、勝てればそれでいいの」
「それは極論じゃない?」
「極論じゃないよ。それに私は別に架空の話をしているんじゃない。私の決意と結果について話してるの」
「それって……」
「ねぇお兄ちゃんはグダグダ言ってないで、黙って従っていればいいんだよ! ホントさあ――ぶっ殺すよ?!」
 それは確かに、相手への口止めとしては最上級の行為だっただろう。
 突然激昂した少女に、灯人は突き飛ばされた。
 灯人は大きく体勢を崩し、屋上の落下防止用のフェンスに倒れ込んだ。フェンスはその用途の割に容易く灯人の体重にたわみ、そして彼はフェンスを突き破った。
「――え?」
「…………」
 呆気に取られたまま落下していく灯人は、屋上から暗く淀んだ瞳で飛花が見下ろしているのを見た。
 そして地面に落下――着水した。
 着水??
 ドボンと黒い水の中に叩き込まれ、呼吸ができない灯人。
 その苦しさは灯人に思い起こさせる。
 最悪の状況が目の前に展開していたあの時。
 赤に塗り潰された空間の中に垂れ下がる白い糸に叩きのめされていたあの時。
 まるで水が纏わりつくように、自分の身体が重く感じられたのを。
 ここは底だ、とあの時の灯人は思った。
 どん底にまで辿り着いたら後は上るだけだとか人は言うけれど、しかしその時の灯人にはその道筋がどうしても見えなかった。
 今、灯人はどこにいるのだろう?
 あそこからちゃんと登れたのだろうか?
 それとも――

 ――この暗くて重い水が、きっとその答えなのだろう。