君を殺してよかった 3 廻里灯人という物語 参 | 墜落症候群

墜落症候群

墜ちていくというのは、とても怖くて暗いことのはずなのに、どこか愉しい。

---赤いスーツの女---

 警察署内に入ってからも追い立てられるように進まされた灯人は、その取調室に辿り着くまでの道順をいまいち記憶出来ていない。
 それにしても、まるで落丁した本のような乱雑さだ。いや抜け落ちているだけならまだいいが、これでは全く別の文脈と繋げられてしまった意味不明な物語のようだ。
 宇宙人のフィクスが地球滅亡の為の計画を正に達成したと思ったところで、今度は自分自身が警察に殺人犯として逮捕される事になるとは。あまりにも展開に脈絡がなさ過ぎるのではないだろうか。
「お前がやったんだろう!!」
 何をだよ。いきり立って小さなデスクを叩く目の前の刑事を、思わず睨み付けてしまった。小柄で髪が薄く、いかにも傲慢そうな表情を貼り付けた警官だ。それにしても返す返すも理不尽極まる状況だ。
「お、お前がやったって事はなあ――分かってるんだよ。方法は分からないけれど、お前が殺したんだろう?」
「殺害方法も分からないのに重要参考人を通り越して容疑者として検挙したのか? それは問題なんじゃない?」
「うるさい、うるさいうるさいうるさい!!」
 何だかお話にならない。これだったらフィクスの方が余程理性的だった気がしてきてしまう。地球滅亡を目論む宇宙人を今更持ち上げても致し方ない事だけれど。
「お前がやったに決まってる! お前はまず家にいた奥さんを人質に、勤務中の夫を呼び出したんだ。そして、二人をバラッバラのバラバラに解体、かいた、カイタイして……ちょっと齧ったりでもしたか? 頭が狂っているんだろうからな、お前は。そして、更に細かく切り刻んだ。ミキサーでも使ったのか? 人肉用のミキサーって何処に売ってるんだ? 俺も買いに行こうかな……まあ、分かるよ分かる。お前の気持ちが俺には分かるよ。生きていりゃあ、そりゃあなあ!! 切り刻んでぶっ殺したくなるような人間が一人や二人出て来たっておかしくないよなぁ!? 俺だっていないとは言わないさ……いや、俺だって一人や二人は殺して来たさ。社会のゴミをゴミ箱にポイ、だよッ! 警察だからな。それが警察だからさ……」
「頭がおかしいのか?」
「頭がおかしいのはお前だよ? お前はその夫婦ペーストを満遍なく余す所なく、リビングの壁に塗りたくったんだよな? 楽しいよな? 案外さ。そういうシンプルな作業って。俺もこういう仕事をやっているから分かるよ。この制服を見ていれば分かるだろ? 俺、ペンキ塗りをしているんだよ。そんな俺の目から見ても、お前の仕事振りには感動しちゃったよ。そして、更にお前は夫婦の小さな娘を――」
「…………僕の、僕の妹がどうしたって?」
「誰がお前の妹だなんて言った? いや別にお前の妹でもいいんだ。特別にお前の妹って事にしておいてやるよ。お前の妹は、白い蛇に、細い紐に、包帯に、電源コードに、」
「だから、僕の妹がどうなったかって聞いてんだよ!!」
 自分が何を聞いているのか、灯人にも良く分からない。この意味不明な刑事の話の何処に信憑性がある? 何で今の事件を自分の家で起こった物だと――鳴希と繋げているのだろう。
 余りにも苛立って、俯いて両腕で机を叩く。
 顔を上げてみると、目の前にいるのは刑事ではなかった。丸眼鏡を掛けた、温度のない冷静さを感じさせる医師だった。
 いつの間にか小さなデスクも消えていた。
 そこは病室で医師と灯人は黒い丸椅子に座り向かい合っていた。
「……それではこれで診察は終了です。お疲れ様でした」
「ありがとうございました」
 灯人はその流れに呑まれたまま、頭を下げて病室を出た。
 何処までも無限に続くかにも見える廊下を歩く。
「僕は一体、どうしちゃったんだろう。頭がおかしくなったんだろうか……何がどうなってるんだ。鳴希は――何処に行ってしまったんだろう……」
 灯人は体内で沢山の泡を膨らませたように、弾け飛んでしまった鳴希の姿を思い出す。
「あんな鳴希は……」
 あんな鳴希は、偽者だ。あんなのは本当の死じゃない。きっと、きっとそうだ……。
 誰ともすれ違う事のない薄暗い廊下を進むと、ただ一人壁に身体をもたれ掛からせて腕を組んでいる人間と出食わした。
 それは赤いスーツの女だった。
赤いスーツの女は、いきなり灯人に話し掛けてきた。この唐突さ。やはり、灯人は彼が容疑者扱いされて始まったこの展開が苦手だ。フィクスの方が話は通じた、とまた思ってしまう。フィクスは外見からして人外だったけれど、今回は相手が人間に見える分だけその不躾さで更に気分を害される事になる。
「自分の信じている物が信じられなくなったり、信じていた筈の世界が前提から崩されたり、これまで信じていた事の方が信じられなくなったりしたら……つまり換言して自分の頭を疑ってしまったら、そんな時にはどうすればいいか知ってるかな?」
「何を言ってるんですか?」
「私の名前を聞いてくれるか?」
「……はい?」
「私の名前は熾宮飛花って言うんだ。聞き覚えあるかい?」
「いや。顔も名前も知らない」
 そう言いながらも目の前の女性が『熾宮飛花』と名乗った事に、何故か違和感を覚える。
 赤いスーツ、赤いネクタイ、赤い瞳、赤く染め上げた長いウェーブヘア、全てが真っ赤のコスプレじみた荒唐無稽な容姿。
 そんな格好と、『熾宮飛花』という名前がうまく結び付かないのだ。
 しかし、それはおかしい筈だった。
 だって自分で言ったばかりだ。顔も名前も知らない、と。
 違和感を抱くという事は、以前に本来の熾宮飛花なる誰かと面識があって、だからこそ今の姿に抵抗を覚える、という流れになる筈だ。
 自分ではない自分が、過去に『熾宮飛花』と会っていたとでも言うのだろうか? だから既視感にも似た違和感を覚えるとでも? 灯人は自分のその発想に失笑した。
「僕に何か用があるの?」
「君はこの現実離れした世界に納得しているか?」
「してないに決まってるだろ! 何か知ってるの?」
「自分の投げる問い掛けに、いつでも答えがあるとは思わない方がいいよ」
 赤いスーツの女は気取ったように言った。灯人は苛立ちを募らせる。
「なあ? 僕も相当頭がおかしくなってるらしいからさ、ちょっと意味不明な例えをするけれどね。この世界を一種の物語になぞらえるとしたらって話をしてみようか。宇宙人の人類滅亡計画の発動を目の当たりにしたと思ったら、今度は僕自身が警察に捕まるだなんて落丁もいいところのクソ展開だよね。でも物語って考えるならさ、僕が会う人間は全員登場人物の筈だろ? 登場人物は物語における役割をきちんと果たさなければならない。フィクスは立派に宇宙人役をやってたよ。貴方はどうなんだ? 熾宮さん」
「まずその思い上がりを正さなければいけないようだね。この世界が物語。それは別に悪くない観点だ。しかしだとして、その物語の主人公は本当に君なのかい? この世界を観測しているのは君なのか? そこは冷静にもう一度考え直した方がいいんじゃないか?」
「この世界を見ているのは、僕じゃない?」
「経験しているのは君である、と言ってもいいかも知れないがね。一人称と三人称の差異って考えた事あるか?」
「神の視点って事……? 僕が認識している物語を見下ろしている第三者の存在?」
「ちょっと話し過ぎたかな。私は充分に君の情報を与えたと思うよ」
「……ちょっと待て、」
「ああ、もう一つ、君に訊きたい事があるんだった」
 相手を甚振るのが楽しくて仕方ないというように、赤いスーツの女は邪悪に笑んで言った。

「大好きな妹さんが、目の前で何度も死ぬのって、どんな気持ち?」

|||惨劇が明けてから|||

 私は灯人よりも一足先に警察を後にしていた。
 本来、私は第一発見者だから、灯人より聴取が長くなってもおかしくない。でも灯人は今回の事件の被害者の家族で……。取り調べをしている刑事の人に掴み掛かり暴行した、と聞かされた時には驚いたけれど、彼がそのくらい正気を失っても仕方ない事件だった。
 灯人は一晩勾留して落ち着かせてから、様子次第では病院の精神科に入院する事になるかもしれないとの事だった。
 私もそうする他にないのではないかと思う。今の灯人に日常生活を送らせるのは、酷く困難なように思えた。
 おかしくなってしまった灯人程ではないけれど、勿論私もあの事件にはトラウマにも成り得るような衝撃を受けていた。一度カウンセラーを受診した方がいいのかもしれないけれど、余計な事まで喋ってしまいそうで心理的に抵抗が強かった。
 刑事さんによると、あの事件は複数犯による犯行だったのだという。――確かに複数犯による犯行だ。ある意味で。
 あの事件の後、警察署内で一度だけ灯人と顔を合わせた。
 灯人は私の顔を見た時だけ、一時だけの日常を取り戻したかのように私の名前を呼んで、
「僕はあの赤色が怖いんだ。でもそれ以上に――あの白が怖い」
 事件現場の情景を共有した私には、彼が何を言いたいのかはすぐに分かった。
 こうして独りになってから、小さく呟いてみる。
「灯人。私もあの赤色が怖い。そしてそれよりもあの白が怖いよ」
 灯人とまるで同じに聞こえるその言葉は、しかし全く違う意味を伴って響いて、そしてすぐに消えた。

---ただ死にたい---

 ――こうして宇宙人フィクスの策謀によって、人類は滅亡したのだった。

(完)

「……悪夢だ」
 灯人が目を開けつつ起き上がると、世界は勿論滅亡していなかった。
 そこはいつも通りの灯人の自室で、ベッドの端には鳴希が腰を掛けていた。
 鳴希は灯人の唇に軽く口づけをしてから、くすくすと笑った。
「そんなにイヤな夢だったの?」
「世界が滅亡しちゃったよ」
「そりゃ確かに悪夢だね」
「久し振りにこんな勢いのある夢見た……何か衝撃的過ぎて、逆に目覚めが良いわ」
「ふうん。夢を見る事を現実逃避というけれど、お兄ちゃんにとって、その夢よりは現実の方がマシだったって訳か。お兄ちゃんは夢から逃げて、今現実にいるんだね」
「現実に逃げるって、何か仕事に逃げるみたいだよね。僕はそんなに真面目じゃないけど」
「でも仕事に逃げるって、それはそれで家庭から逃げてる感じでクズっぽいよね。お兄ちゃん」
「僕が夢から現実から仕事からそして家庭から逃げても、それでも鳴希からは逃げたりなんかしないさ」
「格好良いけれどそれって――つまり私に逃げてるって事だよね?」
「…………」
 あれ、と灯人は戸惑う。僕はどうして言葉を返すのに躊躇しているのだろう、と。
 そういえば先程の夢で、一番辛くて哀しかったのは世界が滅亡した事ではなくて、鳴希が弾けて死んでしまった事の筈なのに、それをどうして鳴希には言えなかったんだろうか。当人に『夢の中で死んだよ』なんて伝えるのは、普通に気分を害させる。だから伝えなかったのだろうか? 灯人には自分の中に何か他の理由が隠されているような気がしたが、上手く言語化出来なかった。
 スマホの画面を表示させる。今日は十月十七日の水曜日だ。

 いつも通り、サラダを咀嚼する可愛い妹を鑑賞してから登校した。
 教室に入ると一人のクラスメートが目に飛び込んでくる。それは彼女が灯人の友人という事もあるだろうが、その容姿があまりにも異質だからだろう。毎日見ている筈なのに、毎日話している筈なのに、それでも未だに慣れない。
 ――熾宮飛花。
 全身を覆うかのような長い黒髪を持つ女子高生。波打つその髪の総量は見ているだけで呪われそうな気分になってくる。前髪は目を隠すどころか鼻の頭にすら達しそうだ。後ろ髪は立っている状態でも足元に届きそうなくらい。椅子に座っている状態ではそれなりの分量が床を這い、埃を巻き込んでしまっている。禍々しいとさえ言える外見を持ったこの友人は、これ以上ない口が達者で、ある事ない事、空想や思考をひたすらに灯人に垂れ流してくる。恐らく頭の回転も速いのだろう。飛花に話してみれば、昨晩の夢から覚めてから灯人の感じている違和感も解消されるかもしれない。飛花なら灯人に出来ない言語化を、上手く出来るかもしれないのだ。
 灯人の席は飛花の後ろだ。灯人は自分の席に近付きながら声を掛ける。
「おはよう」
「……おはよう」
「なあ飛花。話があるんだけ、」
「ちょっと待って」
 びっ、と飛花は右手を『ストップ!!』という形でこっちに伸ばして来る。ワカメのような髪のカーテンから手を突き出すその様は、特撮に出て来るような怪人に見えなくもない。
「ねぇねぇ普段ロクに自分の話をしないで、私の話を聞いてばっかの灯人が朝一番でいきなり『話したい事がある』だなんてさ、完全に解きほぐしづらい面倒くさい話でしょ。しかも絶対妹ちゃん絡み」
「ああ、当たりだけど」
「その話がホームルームまでに終わると思う? もうそんなに時間もないのに。せめて昼休みにしたら?」
「……うーん、いや。確かによく考えたら、昼休みでも足らないくらいかもしれない。という訳で飛花、君の今日の放課後の時間を僕にくれ」
「あーあ。ホントにアンタは妹ちゃんの事になると遠慮がなくなるんだからさぁ」
「当然でしょ」
 飛花には呆れられてしまったらしい。あるいは放課後の時間を強引に寄越せとか言ったから、意趣返しでもされたのか。それから飛花と休み時間に話す事もなく、というか話しても軽く無視されて、放課後までの時間が過ぎてしまった。
「それじゃ飛花、もう僕の話を聞く準備は整ったと考えていいんだな?」
「放課後になった途端にぐいぐい来るねぇ……」
 飛花は溜め息を吐く。そうやって呼気を強調されると黒髪は暗い海にも見えて、飛花はそこから口だけを出して息をしているようだった。
「それじゃあ始めるよ。僕がある夢を見たのがそもそもの事の始まりだ。それは例によって鳴希の出て来る夢だった」
「大体知ってた」
「だけれど、それはとても幸せな夢とは言えなかった。……最終的には全てが死に至る夢だった」
 そうして灯人は、鳴希が魔法少女になる夢について話した。
「――ふうん」
「僕はどうしてかこの話を、鳴希にする事が出来なかった。この夢を見てから、どうも違和感が拭えない」
「なるほどね。えっとさ、まずそもそも論なんだけど」
「なんだ?」
「どうしてそんな夢を見たんだと思う?」
「……いや、分からないから分析を頼んだ訳で」
「自分を客観視してみなよ。妹を溺愛している筈の兄がだよ? 妹が魔法少女になって死んじゃってさ、それが原因で世界が滅ぶ夢なんて見るのって、どこか歪んでて、気持ち悪いと思わない?」
「そ、それは――そうかもしれないけど」
 飛花にあまりにも直接的に突っ込んで来たので、灯人はどきっとした。
「夢分析を始める前に、ちょっと別の切り口の話をしてみよっか」
「ああ」
「灯人は希死念慮って知ってる?」
「なんだそれ、知らない」
「自殺願望なら分かるよね」
「分かる」
「自殺願望には他人にも説明出来る明確な理由があるでしょ? 学校で虐められて辛いとか、借金で首が回らなくなったとか、あまりにも妹狂いである自分の生きる価値のなさに絶望して死ぬとか」
「おい最後の」
「希死念慮っていうのはもっと漠然とした言葉なの。他人に明確に説明する事が出来ない。特に社会的な理由がある訳じゃない。でも、ただ死にたいと思ってしまう。何の理由もなく、自分は死んだ方が良いんじゃないかと思ってしまう。それが希死念慮」
「へえ。それが僕の話とどう関わって来るのかは分からないけれど、でもそんなの人間なら誰でも考える事じゃないの? ってちょっと思うかな」
「そうね。希死念慮を抱かない人間はいないと思う。それどころか、結構人間心理に根深く根付いている気さえする。死なない人間っていないしね。人間は擬似的な死を求めているのかもしれない、とすら思う」
「どういう事だ?」
「死に至る過程って、大抵の人間にはストレスだよね。誰だって戦争に参加したいだなんて思わないし、自分や家族が難病に掛かって欲しいだなんて思わないし、殺し殺される展開に巻き込まれるなんてイヤだよね?」
「そりゃそうでしょ」
「じゃあ何で人って誰かが殺されるのが前提のミステリや、世界を滅ぼす悪が登場するRPGや、余命数ヶ月の家族が登場する小説、そういったストレス塗れの物語を好んで見るんだと思う?」
「それは……」
 灯人としては考えた事もなかったので、上手く言葉が見つからない。
「別に物語に留まらないけれどね。よくニュースでオタク界隈の悪影響の批判を見たりしたけれど、でも、それを言うならニュースが垂れ流す凶悪犯とか悲惨な災害とかを見る事での悪影響ってないの? それを見る事で対策が出来るとか、あるいは犯人が逮捕される事を見せる事によって、『悪い事なんて出来ないなぁ』って思わせるっていう建前があるのかもしれないけれど、逮捕を怖れない人間がいるから模倣犯が現れるんじゃないの?」
「それは正論だろうな。情報の拡散は犯罪を留める事をしない。同じ犯罪を犯す予備軍を作る効果の方が強いだろう。結局、ただ単に有名人のスキャンダルとか、犯罪者が酷い目に遭ったとか、自分の暗い日々の鬱憤を晴らしたいだけなんだよな……つまりは心地良くないエンターテイメントなんだよ。僕はそれが『希死念慮』にまで繋がるかは良く分からないけれど、でもそうだな。人間は確かに暗くてストレス性の強い物に、何らかの娯楽を感じたりするものらしい」
「私はその暗い方向性の欲望って、結局死と結び付いていると思うけれどね。死なない人間っていないんだし、人間はその終わりを死と結び付けられている。生きている以上逃れられない死、そして尚且つ宗教観や世界観と繋がり得るくらいに、人によって解釈の違う異界。睡眠欲・食欲・性欲の三大欲求とは別のベクトルで、人としては最も根源的な欲求なのよ。死への欲求っていうのはね。だからこそ、全ての人間は死ぬの」
「ははっ」
 余りにもな暴論に、灯人は飛花のその言葉を冗談のように扱って、軽く笑った。
「アポトーシスが人間の細胞に設定されているのは、人間が死への欲求を持っているからだって言うのか?」
「さあ、そういう事なんじゃないの?」
 飛花はとぼけたように両掌を上にして掲げてみせた。
「それでさ、結局、その希死念慮と僕の夢がどう関係があるって言うんだ? 飛花」
「自分が死ぬと死んじゃうから、人はあくまで擬似的に物語や他人事の中に死を追い求めるのが現代人。だから貴方は現実では死ぬと困る妹ちゃんの死を、夢の中で見たのよ。欲望の追求として」
「何を、言って……」
 そんな事を僕が追い求める訳がない、と反論する事も出来ないまま、飛花は言葉を改める。
「ま、そんな訳ないでしょうけれどね。妹狂いの貴方が、妹の死を欲望するなんて、そんなの気持ち悪いのもいいところだし、もっと簡単な結論があるでしょう? いい加減に認めればいいのに、それなのに貴方は認めない」
 言わせてはいけない気がした。しかし、全ての力が抜けてしまったように、灯人には何も言えなかった。

「――もう妹ちゃんは死んじゃってるじゃない」

---人吊り男爵---

「今日も人が吊られるぞ!」
「人吊り男爵だ! あの連続殺人鬼が、また殺りやがった!!」
 通学路で灯人は、今や日常茶飯事となったそんな一般人Aと一般人Bみたいなモブの人々の会話を聞いた。
 空を見上げてみる。
 そこに吊られている死体は確かに一つ増えているのだろうけれど、しかし灯人は十を越えるその死体達が、では昨日には何体あったのかと問われても答えられない。そもそもそれを数えた所で、何の意味もないからだ。
 今現在、この街には『人吊り男爵』と呼ばれる連続殺人鬼が存在している。
 連続殺人鬼。その響きだけでどうもこの日本の空気感にはそぐわない気がしてしまう。
 日本に馴染みがあるのは通り魔とか辻切りとか? あるいは街で突発的に十数人を刃物でザクリとやる切り裂き魔とか?
 連続殺人鬼が成立するには、彼が殺人を繰り返すに至るまで捕まらずに潜伏している必要がある。それに加えて、明らかに同一人物の犯行であるというアピールも必須だ。模倣犯とは隔絶した殺しのクオリティ、あるいは犯人像の突飛さが必要とされるだろう。その意味で言えば、人吊り男爵は連続殺人鬼として及第点だろう。彼の犯行を真似られる人間はいない。
 それにしても『殺人鬼』というフレーズは、ジャック・ザ・リッパーみたいに、闇夜に隠れ潜んで都市伝説化するみたいなニュアンスを伴うと思うのだけれど、人吊り男爵にはそういった慎ましさみたいな物は皆無だった。
 彼の殺しは闇夜に人知れず行われる物ではない。いや、実際の殺人の現場はまだ特定されていないらしいのだけれど、少なくとも殺した死体の披露の方法は十分に劇場型犯罪の性質を帯びていると言えた。
 人吊り男爵の登場からもう数日。十月十八日(木)の今日の時点で、人吊り男爵の存在を知らない人間はもう日本には存在しないと言っていいだろう。それくらいに人吊り男爵の知名度は上がっていて、今や彼の事を取り上げないメディアはない。
 長々と本筋から脱線した思考を続けてしまった。人吊り男爵の殺人の披露の方法そのものに話を戻そう。
 それはとてもシンプルな物だった。訳が分からない程のシンプルさで、目の前の光景が何かの冗談ではないかと疑ってしまう程だ。
 空のどれほどか分からない高みから、何本ものロープが垂れ下がっている。
 垂れ下がっている、というのは普通に考えればロープを括り付けた先が存在する筈だ。しかし、このロープの始点は決して視認出来ない。非科学的に聞こえても、それが事実だった。地上から見れば雲の向こうくらいには始点があるように見える。しかし、ロープを見る視点の高度を上げれば上げる程、始点もまた高度を増したように見え、宇宙の果てくらいまで遠のいてしまう。永遠に始点に辿り着けない。だから、そういう現象として受け止めるしかないのだ。
 大体、見たままで考えたとしても、空からロープが何本も垂れ下がっているという状況自体、シュールそのものでしかない。荒唐無稽だし、どこかにトリックがある事をどうしても疑ってしまう。しかしながら、目に入るのはロープだけではない。だからこそ笑って済ませる訳にもいかない。ロープの先端には鋭い鉤爪状のフックが付いていて、それが死体の顎に引っ掛けられているのだ。ロープ一本につき、一体の死体が吊り下げられている。何本も並ぶロープ、鉤爪、死体の取り合わせは、どこか魚市場を連想させた。
 死体には顎から口内へ、そして頬から突き出る鉤爪の刺し傷以外に外傷は存在しない。その為、どこかで殺してから吊り下げているのではなく、吊り下げる事自体が殺害方法なのだと考える向きも存在する。ロープはこれまで試されたいかなる方法でも切断が出来なかった。また同様にどのような方法を用いても鉤爪を死体から外す事は出来なかった。ロープと死体は風でも揺らがず、何らかの特殊で異様な接着剤によって世界そのものに固定されてしまったようだ。
 世間の学者が、警察が、軍関係者が、ありとあらゆる知名人が、そして有象無象たる民衆たちが、この人吊り男爵による殺人、ロープと鉤爪、それと死体について考察を巡らせたが、真実に到達している者は極めて限定されている。
 何故そんな風に上から目線で灯人が考え得るかというと、彼はその数少ない真実を知り得る者であるからだった。
 結論から言ってしまえば。
 人吊り男爵は超能力者である。
 ――そう。廻里灯人と同様に。

 通学路、重い荷物を引きずるようにして進んだ灯人は、ようやく久遠坂高校に辿り着いた。
 教室に入り、バッグの中身を取り出す。その中身というのは、息を殺して死体のようにじっとしていた(けして死んではいない)灯人の妹の鳴希だった。ふわっとした黒髪ロングと純真な瞳、灯人よりいつもいつまでも小さな背。庇護欲を掻き立てるその小動物然とした印象は、バッグからの登場を少しも意外に思わせなかった。むしろバッグから出て来るとしたら、鳴希のような女の子以外にあり得ないだろう。その登場の仕方は、妹にはとても似合っていると灯人には思える。
 しかし、通学に時間を掛けたせいだろう。灯人が鳴希をバッグから取り出してクラスが騒然とした丁度そのタイミングで担任の村上が来てしまった。
「おい廻里、学校に関係のない人間を持って来るな!」
「何を言っているんです? 人吊り男爵が出没している状況下で、僕が妹の鳴希を一人にしておくなんてそちらの方があり得ないでしょう。村上先生も教員なんですから、もうちょっと常識を弁えて物を喋って頂けますかね?」
 村上の喚き散らす怒号を背に、
「あ、ちなみに当然これからのホームルームと授業もボイコットしますので」
 その言葉と同時に教室の扉を閉めた。
 灯人は今日、授業を受けにこの高校に来た訳ではないのだ。別の目的があるのだった。
 鳴希を伴って灯人が向かった先は、歴史地理の準備室だ。部屋の鍵は何者かに破壊されそのままになっているので、灯人はノックせずに室内に入った。埃っぽいその準備室には地球儀が置いてあるという特徴はある物の、ほぼ社会科系教師の為の物置きと化している。しかも生徒による放課後の掃除当番の範囲外なので、年末の業者が入る大掃除以外ではほとんど掃除される機会がないのだった。そんな埃っぽくて不衛生な室内には、廻里兄妹が来る前に既に二人の校内関係者が在室していた。
 一人は灯人の親友であり、クラスメートでもある熾宮飛花。ワカメのようなモジャモジャの短髪に冗談みたいな赤いメッシュが入っており、常に何かに怒っているようなそんなキツい目つきをしている女生徒。
 一人は灯人達が今している活動の顧問とも呼ぶべき教師の織衣恵(おりい・めぐみ)。全体的に身体が細く、教師としてのフォーマルな服装だと幽霊のように存在感が薄い(校外ではロリータを着ている)。
 飛花は高校一年生としては標準から見て少し低いくらいなのだろうが、織衣教諭が竹みたいに細長いので、並ばれると凸凹コンビのように見える。
 飛花の方の素性は今更問うまでもないにしても、活動の発端となった織衣教諭は何の担当教師なのかすら定かではない。ただ、他の教師陣に見咎められる事もなく普通に高校にいるという謎の人であった。
 そして灯人達が授業そっちのけで、今励んでいる活動とは――
「今回の『怪人』はなかなか尻尾を掴ませないわね。お陰で無駄に犠牲者が出てしまったよ。まあ所詮『怪人』は『怪人』。どうせ私達に排除される定めだけれどね」
 飛花が『怪人』と呼ぶ、人に危害を加える対象を倒す事だ。
「そう! 『怪人』は私達ヒーロー部によって、倒されるのが必然!!」
 ちなみに、灯人は『怪人』だのヒーロー部だのといった呼称が恥ずかしいので、自分達の事も敵の事も現実離れした能力の持ち主という事で『超能力者』と総じて呼んでいる。悪の超能力者を、正義の超能力者が倒す――倒すといえば聞こえはいいが、実際は殺している訳で、にも関わらず自分達を一方的に正義扱いしている時点で灯人だって飛花と本質的には何ら変わりがないのかもしれないが。
「そうです。貴方達の活躍も何もかも全てが運命で決まっているのです。何も案じる事はありませんよ……」
 祈るように指を組み合わせる恵は、ひっそりと笑みながらそう言った。何だか不穏だ。
「それじゃあ、まずは現状分析をしましょうか」
「ああ」
「はい」
 参謀担当である飛花に、灯人と鳴希が返事をする。
「今回の怪人が厄介な理由は? はい、灯人答えて」
「犯行現場が特定出来ない点だ。何処で殺されても最終的には空に吊るされた状態で発見されるからな。つまり現場に痕跡が残らないんだ。その為これまでの現場の傾向から、次の犯行を予測するという事が難しい。直接犯行に及ぶその瞬間を押さえるしかない訳だが、これまでの夜回りで成果はなしだ」
「その対策は? 鳴希ちゃん言ってみて」
「難しいと思います……単純に見回る範囲を広くする為には手分けするしかないと思いますが、私達で純粋な戦闘員ってお兄ちゃんしかいないですから」
「その通りね。結果導き出される結論は、つまらないけれど現状維持って事になっちゃうかしら……織衣先生、コメントはありますか?」
「心配はいりませんよ」
 珍しく、普段の靄が掛かったような曖昧な口調ではない、恵の断言だった。
「今夜、貴方達は首吊り男爵との初戦闘を迎えるでしょう」
「それって織衣先生のヒーローとしての勘、ってヤツかしら?」
「その通りです」
 灯人に言わせれば、それはヒーローの勘というあやふやな物ではなくて、織衣教諭の超能力という事になるのだが。
「貴方達は巡り合うのです。それは決まっている事です――運命としてね」
 密やかに織衣教諭は微笑んだ。彼女の能力は、運命が見える事。端的に言えば未来視なのだが、その細かい仕組みについては灯人も説明を受けていないし、受けたとしても理解出来るかは定かではなかった。灯人の能力は逆にかなりシンプルな物なのだけれど。
「だから今、貴方達が心配するべきはどうすれば相手に会えるかではなくて、どうやって相手を倒すかという事です」
「ふうん。まあ織衣先生が言うんなら、今日の夜に人吊り男爵に遭遇する事は間違いないんでしょうけれどね。もうちょっと早く言って欲しいものだわ。昨日までの夜回りがまるで無駄足だったみたいじゃない」
「とは言いましても、私も未来全てを見通せる訳ではないものですから……」
 織衣教諭の言によると未来視出来るのは運命が大きく変わるような、そのポイントのみであるらしい。だから逆に言うと今日の戦闘はかなり重要視するべき、という事にもなるだろう。
「それにしても人吊り男爵の能力って、そこまで危険視するべき物かしら? 印象だけで言うと灯人の能力は凄く相性が良いような気がするんだけれどね」
「だけど僕の能力があのロープに有効か、現時点では判断が付かないからな。あれだけ高所にあると流石に触れに行く訳にもいかないし」
 これまで口を噤んでいた鳴希が、小さくも芯のある口調で呟く。
「……大丈夫だよ。私が絶対に、お兄ちゃんを守るからね」
「そうね。そこは信頼してるよ、鳴希ちゃん」
 話し合いが一区切りついた所で、織衣教諭がボソリと呟く。その言葉は他の三人の耳には届かない。
「全てが上手くいくと、良かったんですけれどね」
 既に結果を語っているようなその言葉は、酷く謎めいていて、そして意味深だった。

 そうして、夜の巡回の時間が訪れた。
 話し合い自体は少なくとも二時限目終了時までには終わっていたのだが、そこから授業に出る気にもならず放課後までサボり。そこから日が暮れるまで一眠りをした後に動き出したので、高校からの出発となる。
 織衣教諭に校門を不正に開けて貰い、夜の街へと四人で繰り出す。
 人通りの多い繁華街から人の気配すらない裏通りまで、一、二時間掛けて歩き通したものの、人吊り男爵は一向に姿を見せない。
 昨日までと何ら変わりのないその展開に織衣教諭の予言を疑いそうになった時、閑静な住宅街の一角にとうとう敵は姿を現した。 
 街灯の下にまるで幽鬼のように立ち尽くす、二メートルを超す長身の男。全身を黒いフード付きコートで覆った彼を見た瞬間、超能力者特有の勘が働く。異様な磁場のような物。人間なら誰でも気付く男の異質さを、四人はより明確に実感として受け止める。そしてそれは相手の方も変わらないだろう。
 その瞬間に戦闘が開始した。
「――行くぞ」
「うん。お兄ちゃん」
 灯人への応答と共に、鳴希は超能力を行使した。ゲームで言えば超強力なバフに当たる能力だ。鳴希の心強い支援を受けた灯人はそのまま吊り男爵に向かって疾走しようとする。しかし、それを強引に押し留める悲鳴のような声が響いた。
「灯人ッ。アイツの能力、想定を越えてる!! 絶対にロープに触れちゃ駄目よ!!」
 勢いを削がれながらも灯人は疑問を覚える。鳴希のバフを受けた状態でも、絶対に躱さないといけない程に強力というのはどういう事だ? と。
 鳴希の能力は『即時記録/即時再開』(オートセーブ・オートロード)。戦闘開始時の対象の身体状態を記録し、何らかのダメージを受けた瞬間にその記録状態を再現する能力だ。死亡以外の全ての傷を瞬時に回復する。
 そして、飛花の能力は『試行分析』(アナライズ)だ。相手能力者の姿を視認した時に使える。脳内で相手の超能力を再現し、そのパターンと性能を読み切る事が出来る。
 合わせて考えるに、人吊り男爵の能力は触れた瞬間に即死効果があるという事か?!
 だとすれば、その超能力の行使から三人を庇う事さえ――
 人吊り男爵の周囲に合計六本のロープが出現した。それは人吊り男爵の身長を少しばかり越えたくらいの高さの、何もない空間から垂れ下がっている。
 六本のロープは灯人を絡め取るような動きで迫る。灯人は敵の至近距離でしか発動出来ない能力の持ち主――つまりはインファイターとしてのフットワークを発揮し、体勢を崩しながらも辛うじて人吊り男爵への接近を成し遂げた。
『即時記録/即時再開』の変則的な発動によって、一瞬で体勢を立て直す。
 人吊り男爵のコートへと手を伸ばす。が、しかし、それを予期していたように相手は目眩ましのようにコートを脱ぎ捨て、灯人に向かって投げ捨てていた。
「――ッ」
 灯人は舌打ちをしつつも、ローブに素早く三回触れた。ローブが焼失し、視界が晴れる。
 灯人の能力は『焼滅三度』(スリーアウト・ファイア)で、三回触れる事で対象を焼滅させる。人間であれば一度触れればステーキで言うミディアム程度には焼き焦がし、二度触れれば完全に炭化させる。そして、三度触れる事で灰にして消し飛ばす事が出来る。過程を省略した発火能力といった所だが、触れなければいけないのでどうしても接近しないといけない上、触れるというのはどうしても相手に警戒を促す。それでも相手に一度でも触れれば全身に大火傷を負わせる為、ほぼ行動不能に追い込めるのだが、今回はその機会を逸した。
 どうにも分が悪いようだ。振り返ってみると躱したロープは既に消え去っていた。
 灯人は身を翻すと、一気に逃走を開始した。
「体勢を立て直すぞ!!」
 他三人を伴って、とにかく人吊り男爵との距離を離す。どうやら追って来るつもりはないようで、街灯の照らす下から一歩も動く気配はない。不気味に立ち尽くしているままだった。

「厄介な事態になったわね……」
 無人の路地の行き止まりまで走り、息を整える。これで人吊り男爵に追跡を掛けられたらそれで終わってしまうだろうが、そもそもヤツにはこちらに対する興味という物が何一つないようだった。自分にまで行き着いた超能力者を排除する素振りすら見せないだなんて、逆にヤツはどういった基準で獲物を選んでいるのだろう?
「ヤツの能力はあの宙から吊り下げられるロープに触れた瞬間に自動発動するわ。灯人も気付いて上手く避けてたみたいだけれど、ロープに触れたら、もうどんな方法でもそれを中断する方法はない。即死よ。鉤爪が身体に入り込んで、その瞬間に一切の身動きが取れなくなる。そして、そのまま鉤爪は喉まで身体を這って、対象の身体を吊り下げる。それで終わりよ。最初の当て身を当てられたら、もうムービー始まっちゃって最後まで見るしかない格闘ゲームの一撃必殺技みたいな物かしら」
「しかもそこまで強力な即死技の割には、首吊り男にとっての条件が温過ぎるよね。ロープは複数生み出す事も出来るみたいだし」
「ロープは灯人が躱してから数秒で消えてたわ。だから一本のロープにつき、対象として指定出来るのは一人だけとかそこは何らかの縛りがあるのかもしれないけど……」
「どっちにしろ、こっちの攻撃要員は僕一人しかいない。しかもこっちの攻撃は厳密に言えば、即時発動ですらない。超近距離まで接近しなければ行使すら出来ない」
「私の能力も回復の役に立たないよね……ごめんね、お兄ちゃん」
「鳴希ちゃんのせいじゃないわ。でも端的に言って、総じた相性が悪過ぎる」
 それが結論という事になりそうだった。
 相手に三度触れるだけで何の痕跡も残さずに消し飛ばす事の出来る灯人。灯人を戦闘開始時の状態にいつでも何度でも回復をする事の出来る鳴希。相手を見ただけでそれから実際に行使される能力を把握出来る飛花。
 三人だけで戦闘に関して言えばこれ以上ないくらいのパーティだ。それに加えて直接戦闘には加わらないが、ランダムではある物の重要な契機を正確に予想する事の出来る織衣教諭もいる。
 バランス良く能力の揃った隙のない四人パーティの筈だった。
 事実、これまで少なくない数の悪の超能力者を屠ってきた。
 それだけに今回の敗走には衝撃が大きかった。
 人吊り男爵への対策をそれ以上話し合う事も出来ず、今夜は解散する事になった。
 人吊り男爵のアジトを特定出来てもいなかったが、代わりにこちらの情報もそれ程露見はしていない筈だ。
 楽観的と言えば楽観的にも程がある思考停止が、メンバーの頭を支配していた。

 そして、その代償はこれ以上ないくらい分かりやすい形で現れた。
 ――翌日。熾宮飛花が空に吊られて、所在なさげに宙に浮いていた。

 物言う事も敵わぬ親友の骸を見た灯人がまず考えたのは、どのようにして人吊り男爵は飛花をその能力の餌食にしたのか、という事だった。
 例えば、昨晩の逃走時にも死角からロープが追っていて、それによって飛花の自宅が突き止められたとか。
 あるいは、ロープの対象に指定するのは一度見た相手ならどこにいても可能だったのか?
 疲労からベッドに横になり寝息を立てる飛花――その部屋の中空に音もなく出現したロープ。それが彼女を吊るす為にするすると接近していき……。
 身震いをした。
 そこまでは鳴希にも迫る危機に冷静に思考を続けていた灯人だったが、そこで初めて人吊り男爵の能力に悍ましさを覚え、永遠に喪われてしまった飛花という存在に哀しみと混乱が込み上げて来た。
 今朝はバッグに入れて持ち運ぶ余裕もなく、普通に鳴希を伴って通学した灯人は、高校に着くなり織衣教諭を探し当てて詰め寄る。
「今朝、飛花が吊るされているのを見ました」
「ああ、私も見ましたよ。だからどうしたんですか?」
 織衣教諭のその口調は、いかにも冷めたような興味のなさげな物だった。灯人は織衣教諭のその態度に目を疑った。
「飛花が吊るされていたんですよ?!」
「だから見たと言ったではないですか」
「貴方は……織衣先生は昨晩の人吊り男爵との遭遇を予知したんですよね」
「ええ、その運命を見ました」
「もしかして、飛花が吊るされる事まで予期していたのではないですか?」
「そうだと言ったら何だと言うのです? ねえ、廻里君――君ももう高校生なんですから、そんな子供じみた事を言わないで下さいよ。昨日、君達は喜々としてヒーロー部でしたっけ? その怪人を倒すという活動に赴いたではないですか。それは殺し合いですよ? 相手を一方的に殺すだけでこちらは誰も殺される事がないなんて、そんな甘い考えを本気で信じていたとでも言うんですか?」
「…………」
 甘い考えと言われて、灯人に否定は出来なかった。昨日の展開から言ってもそれは重々承知している。奢りが決定的な隙を生み、だからこそ飛花は殺された。それはその通りだ。
「一つだけ気になるのは、何故そんなに先生が冷静で客観的なのかという事です。飛花が殺されて何も思わないんですか?!」
「私からも一つ聞きたいのですが。貴方達と出会ってから、私が味方だと明言した事が果たしてあったでしょうか? 全ては運命の通りに巡り行くだけなのですよ」
「――――」
「激昂しても別に構いませんが。貴方に今、私は殺せませんよ」
 フッとこれまで見せた事のないような嫌な笑みを見せる織衣教諭。彼女はそのまま灯人達に背を向けると、悠然とした態度で去って行ってしまった。
 鳴希の声だけが響く。
「……ねえお兄ちゃん、どうしよう? これから、どうすればいい??」
 それは灯人が今一番聞きたい事であったけれど、鳴希にそれを言う事だけは出来なかった。

 鳴希に弱音を吐けない灯人は、それ故に打開策を誰かと話し合うという展開を見込めない。
 色々な実行不可能な策ばかりが頭を空転し、そんな時こそ頼れた参謀担当の飛花の有難さを今更のように実感する。
 何一つ有効策を打てないままに、灯人は夜を迎えた。
 一つだけ妥当に思えた『街を離れる』という逃亡策も、何故か気が進まずに実行は出来なかった。その理由は彼自身にも分からない。
 歴史地理準備室で夜までやり過ごした灯人と鳴希は、しかし当然街へと巡回をする気になれる筈もなく。必然的に高校の校庭で人吊り男爵の襲撃を迎え撃つ運びになった。
 そんな惰性のような姿勢の時点で、もう勝負は決まっていたと言っても全く過言ではないだろう。
 散歩のような気軽さで校門を乗り越え、校庭に侵入した人吊り男爵。中央地点で立ち止まった彼は、静止していなければ能力を発動する事が出来ないのか、腕を組んで棒立ちの姿勢を保つ。
 そこまで迫られてはいつまでも隠れている訳にもいかない。
 灯人と鳴希も校庭に降りた。
 それを視認した人吊り男爵は腕を解くと、気怠そうに右腕を上げた。
 吊った状態にした人間は、何処か亜空間にでも保管しておけるとでもいうのか。
 吊り下げられたのは、廻里月霞(めぐり・げっか)と廻里薙臣(めぐり・なぎおみ)。つまり、廻里兄妹の両親だった。
 それを見た瞬間にようやく灯人は自分の心が分かった。
 この街を離れられなかったのは、何の超能力もなく無防備なままに取り残される両親が――家族が心配だった、というそれだけの心情であった事を。
 全てが手遅れだったが。
 そして、両親の死体を目にした時に分かる。
 まるで、既視感のようにして、次の展開が分かる。
 灯人が晒した致命的な隙を人吊り男爵が見逃す筈もなく、
「おにい、ちゃ――」
 助けを呼ぶ暇もなく、鳴希は吊るされている。
 そうなんだよなぁ、と灯人は思う。今、目に見えている全てが他人事のようだった。
 両親が死んでしまったら、鳴希の死はもう既に回避不可能って事なんだよ。何故ならそれは灯人にとって、セットのような物だったから。
 全てを客観視し、俯瞰する感覚。
 これが『運命』ってヤツなのかね。
 そんな風に灯人は織衣教諭の見ている世界を分かったような気分になりつつ、そのまま為す術もなく宙に揺られるだけの死体になった。

「ええ。全ては運命で決まっている通りです」
 久遠坂高校屋上の更に上部、時計台真上の遥か高みから全てを俯瞰する織衣恵。
「人吊り男爵を倒し得るのは、『無帰斬撃』――能力により存在する異物、つまりはロープそのものを強制的に斬り捨てキャンセル出来る男のみ。人吊り男爵は男に倒され、男は更なる強敵を追い求め、やがてこの街における次なる殺人鬼、人裂き公爵が誕生する。その人裂き公爵もやがて誰かに倒されるのでしょう。廻里兄妹、そして熾宮飛花。彼ら三人の存在は、ただの当て馬でしかない……」
 彼女はうんざりしたように溜息を吐いた。
「運命は変わらない。生まれつきの能力で大体の勝敗は決まっているし、誰もそれに抗えない。そして観測者の有無も、運命の流れには何ら影響を及ぼさない――別にその事に何かを感じたりする事はないと思ってはいましたが、それにしたって少しばかりでも行動を共にした誰かが、何者かにとっては単なる意味のない消費物でしかないのを見るのは、何度見たって気分が悪い」
 織衣恵は嘲笑する。世界を、運命を、殺人鬼を。
 そして何より、自分を嘲笑って。
 運命を決して左右しないただの観測者は、気紛れみたいに時計台の上から身を放り投げた。
 その死も勿論、強固な運命の流れには、一つの波紋だって引き起こす事はない。
 全ては決められた事だから。