エニグマは謎を意味する | 墜落症候群

墜落症候群

墜ちていくというのは、とても怖くて暗いことのはずなのに、どこか愉しい。

エニグマは謎を意味する

「なぁ、君は『エニグマ』って知ってる? ――ああ、いきなり話しかけちゃってごめんよ。
 こっちも切羽詰まっていてさ。それになんか、君にはなんか、話かけやすいオーラを感じたっていうか……あ、ちなみにナンパとかではないから。
 そうだった、そうだった、エニグマの話だよな。
 エニグマっていうのは、街中を闊歩する、ある全裸の女性のことなんだ」

「エニグマ――いや、俺はさ、それまでそんな存在のことなんて、まるで聞いたことなんてなかったんだよ。
 だから、俺がその存在のことを知ったのは、第一種接近遭遇みたいな感じだった。
 つまり、いきなり目撃しちまったんだよな……。
 あの経験のことは、ちょっと忘れようと思っても忘れられないし、どう語っていいかすらわからないよ。
 都心のターミナル駅――あまりぼかしても仕方ないから、駅名を言っちゃうけれど、新宿駅だよ。
 あれは、俺が乗り換えのために新宿駅で下りた時のことだ。
 俺は、ホームから階段で、乗り換え口が並んだ通路に降りたんだ。
 そして、山手線から中央線快速に乗り換えようとしたらさ……いたんだよな。
 普通に歩いていたんだよ。
 全裸の女性が。
 いや、目を疑ったよね。
 目の錯覚か、あまりにも欲求不満で幻覚でも見ているのかと思ったけれど、その存在はあまりにも具体的にくっきりとした輪郭を持っていた。
 ちゃんと現実にいる存在だったんだよ。
 次に疑ったのは、何らかの撮影――いかがわしいビデオの撮影かなんかだと思った。
 でも新宿駅だぜ? 前代未聞だよな、とか思っていたんだけれどさ、おかしいんだ。
 周囲を見回しても、まったく他の役者もスタッフも監督もカメラマンもいないんだよ。
 大体、撮影とかってさ、もっとセットとかを用意したりするもんじゃない? 舞台として場所を整えるもんじゃないかな。
 具体的に言えば、エキストラの役者を除いてさ、人払いはするもんじゃないのか?
 でも、新宿駅の構内は、ホントにいつも通りだったよ。
 いつも通りに人が大勢行き交っていて、いつも通りに広告が沢山貼られていて。
 そしてさ――ハハ、俺以外にさ、なあ、信じられるか?
 誰もその女性に目を向けている人はいなかったんだよ。
 目の前を、衣類を何一つとして身に着けていない――そうだな、そういえば靴なんかも履いていなかったな――女性が歩いているのにだよ?
 誰もそれをおかしいと思っていない。
 誰もその異常事態を把握していない。
 その女性はまるで、風景の一部として扱われているみたいだった。
 それこそ、モニュメントみたいな感じだよな。
 例えば、全裸の石膏像が置いてあったりしたってさ、別に人は普通に行き交うだろう?
 後はさっき、新宿駅には宣伝のポスターみたいなのが、多く掲示されているみたいな話をしただろ?
 そこに例えばさ、グラビアポスターみたいなのが、水着の女性の姿が映ってたって、まあ、皆そこまで気にはしないよな。
 彼女は、そういう創作物みたいな扱いを受けているような印象だったよ。
 それくらいの、気の払われなさっぷりだった。
 でもさぁ……何回見ても、確実にいるんだよなぁ。
 新宿駅の構内における、歩行者のスピードを考えたら、その女性の姿は視界からすぐに消えたっておかしくない。
 でも、その女性はまるで存在を誇示するかのように、ゆっくり歩いていたんだ。
 まったく、優雅とすら言えるくらいだったぜ――そんな格好をしているっていうのに。
 新宿駅構内で、森林浴をしているくらいのゆったりとしたペースで、歩いているのが全裸の彼女だ。
 それから俺はどうしたと思う?
 俺は別に倫理観が厳しい人間というワケではない。
 道徳心に優れているかも疑わしいな。
 歩行者である場合、信号無視くらいの軽犯罪なら、意識せずにやっちゃうくらいの人間ではある。
 だけどさぁ――それは流石に看過できなかったぜ!
 意味がわからないっていうのもあったけれどな。
 全裸で自由に女性が闊歩するようになったら、流石に現代日本の倫理も道徳も終わりだろうよ!
 いや、具体的に何が終わりなのかって言われると、うまく答える自信はないけどさ、とにかく俺はこのままじゃヤバいと思って、警察に電話しようと思った。
 その事態の窓口として、勿論警察が適切かはわからないぜ――でもまぁ、警察に躊躇なく電話しても、問題のない事態であろうとは感じた。
 俺の感覚では、交通事故より酷い。
 俺はさ――そういう時に電話が出来る人間だっていうのは、通報出来る人間だっていうのは、実感として自分で知ってたんだ。
 一回、交通事故を目撃したことがあって――救急車を呼んだことがあるんだ。
 でも、こんな前置きをしてなんなんだけれど、俺は、電話……出来なかった。
 なんでだろうな?
 自分でも不思議なんだ。
 例えば、その女性が幻覚なのかもしれないと思ったから?
 自分の頭がおかしいと疑われる危険性を案じたから――それは違うだろうな。
 俺はその女性の実在を確信していたし、だからこそ、周囲の無視っぷりも相俟って、その事態に危機感を抱いていたんだから。
 だけど、電話出来なかった。
 結論としては――俺がしていたのは、ただ彼女を見送っただけだ。
 なんで、出来なかったんだろう?
 なんか、イヤな予感がしたんだ。漠然とした不安感――自分でも自覚出来ないけれど、すげぇイヤな感じ。その通報をしたら、何かがとんでもないことになってしまうような。
 物凄く気が進まないような感覚……。
 気分が乗らない。
 電話するくらいなら死んだ方がマシ、みたいな感覚。
 なぁ、普通の人間って、駅のホームから飛び降りたりしないよな? 電車に自分からぶつかりに行ったりしないよな?
 関係ない話をしてると思った?
 いや、でもまあ、そういう感じなんだよ……極論、駅のホームからの飛び降りは誰にでも出来る。
 だって、足を踏み出すだけだぜ? 赤子だって幼児だって子供だって大人だって老人だって出来るさ。
 でもしないだろ?
 そんなことをしたら危ないってわかってるもんな。
 わざわざ電車に飛び込んだりしないよな。
 すげぇ気が進まないし、そんなことをするヤツはよっぽど追い詰められていたか、頭がおかしくなっていたとか思うだろ?
 いや、だから多分、例示するならそういう感覚なんだよ……すっげぇ、気が進まねえ……。
 俺が電話しなくても、誰かがするんじゃないか……。
 俺が電話したら、多分死ぬくらいに不幸なことが起こりそうだ……。
 何で俺が、全裸で闊歩する頭のおかしい女のためにそこまでしなきゃいけないんだ……。
 俺は通報しなかった。出来なかったのさ。
 でも、フラフラと、その女性の後を追っていた。
 結局、彼女がどうなってしまうのか、見届けたい気持ちはあったのかな。
 通報はしないのに、見届けたくはあるとか、よくわからないよな。
 周囲の人間の反応と同じくらい、自分の対応だって、説明出来ない感じだ。
 意味不明だ。
 その女に関することは、全部ひっくるめて、謎だった。
 女性は、西口の改札に向かって、歩いていた。
 最近はさ、中東のISISのテロの危険とかも予想されるからなのかな。
 改札前には、鉄道警察の警官が数人いたよ。
 そして、俺は見た。
 警官達が、その全裸の女性を、目の前を通り過ぎる彼女を――見逃しているのをな。
 俺が頼ろうとした警察だって、彼女を認識出来なかったっていうことが、図らずも証明されちまったワケさ。
 全裸の女性は改札を出た。
 俺もそれに続いて、フラフラと改札を出た。
 そして、女性が階段を登り、新宿駅西口から地上に出るのに続いた。
 俺は西口から数歩出て、もうそこで彼女を見送るしかなくなった。
 全裸の女性が堂々と、視線を気にせず、まるで何事も起こっていないかのように――何もおかしいことなんてないかのように、新宿の街並みを闊歩しているのを、ただ眺めていることしか出来なかったのさ」

 カフェでたまたま同席しただけの私に、彼は勢い込んで話してくる。
 どうやら興奮しているようだ――混乱しているのかもしれないが。
 しかし、初対面の相手に、こうやって勢い込んで話されることは、私の人生においては特に珍しい出来事ではなかったために、特にそれに対して不快感はない。
『それで?』という風に、私は彼に続きを促す。
 彼は、コーヒーを一口飲んで、喉を少しいたわってから、再び話し始める。

「その日は上の空だったよ。用事があったから、流石にそのまま家に直帰するというワケにはいかなかったんだ。
 でも、俺の心は完全に『あの出来事』に心を奪われてしまっていた。
 あのあり得ない出来事のことを、何度も何度も頭の中で反芻してしまっていた。
 俺は家に、夜、帰ってから、ノートパソコンで猛烈にあの女性のことを調べ始めた。
『全裸 新宿』『裸 都市』『裸 散歩』とか、今考えるとワケわかんないキーワードで、グーグル先生に聞きまくった。
 だけど、一向に情報が見つからない……。
 俺はそれでも、あの女性について何か情報を得るまでは、絶対に調べるのをやめないという気持ちでいたから、とにかくキーワードを変え続けて検索して、そして色々なページを辿った……大体、何かネットには溢れているエロいサイトに誘導されたよな。
 まぁ、それもしょうがないことさ……でも、俺はそういうのに気を取られているワケにはいかなかった。
 あの女性についてだって、エロい興味で調べていたというのでは絶対にない。
 その成分が0%だ、とは断言しないけどな。
 でも、俺が調べていたのは、彼女を性的に感じたからじゃない。
 彼女が謎の存在だったからだ。
 謎、謎、謎……。
 俺はネットの迷路に迷い込んでいた。
 一向に至れない情報に、頭がぼうっとしてきて、検索キーワードの選択も、散漫になってきた。
『いやいや、こんなキーワードで、絶対調べられるワケがないだろ』
 と、後になって自分でツッコミを入れたくなるような、キーワードを試し続けた。
 でもまぁ、あり得そうなキーワードで出てこないんだから、あり得なさそうなキーワードで調べるしかないよなぁ?
 そして、そんなプロセスの中で、ハッと思いついたのが『エニグマ』という単語なんだ。
『エニグマ』というキーワードだったんだ。
 その単語はまさしくキーだった。
 彼女の情報に至るための『鍵』だった。
 エニグマという単語には、いくつかの意味がある。
 一つ目、第二次世界大戦中に使われた、ドイツ軍の暗号。
 二つ目、その暗号の名前の元になった、イギリスの作曲家、エドワード・エルガーの変奏曲。
 三つ目、エニグマという単語自体には、『謎』という意味がある。
 俺がその単語を思いついたのは上記のような、一般的な連想じゃない。
 ねぇ、君は『ジョジョの奇妙な冒険』って読んだことあるかな?
 集英社から出版されているマンガなんだけれど。
 ……読んだことないか。
 その作品が、具体的に関係するワケじゃないから、内容についての詳しい説明は省くぜ。
 大事なことは一つだけだ。
 そのマンガの、第四部に『エニグマ』っていう能力を持った敵キャラクターが登場するんだ。
 その少年は、作中の敵キャラクターで、ほとんど唯一、名前が明かされない人物なんだ。
 倒された後の、キャラ名の表示も、確か『エニグマの少年』っていう表記だったはずだ。
 俺はさ、結局、その正体の明かされない感じ――正体不明な感じに、『彼女』を連想した。
 だから、俺は検索の窓に、『エニグマ』『全裸』『女』と打ち込んだ。
 そして、その検索結果の端っこみたいなところで――十何ページ目かの検索結果に、その都市伝説を、見つけたのさ。
 その名の通り、彼女はそのページ内で、『エニグマ』という都市伝説として、扱われていた。
 その『エニグマ』という都市伝説は、きっとポピュラーなそれじゃないんだ。
 ベッドの下の『斧男』とか、近付いてくる人形『メリーさん』とかは、流石に皆、名前を知っているくらいにはポピュラーだろ?
 でも、その『エニグマ』はきっと、ポピュラーさとは対極にある都市伝説なんだと俺は想像した。
 いや、そもそもきっと、あの女性を認識出来る人間自体の数が――少ないんだ。だからこそ、あそこまで異常な景色を演出する彼女が、ここまで噂にならない。
 そうじゃなきゃ、アレだけの存在が、認知されずに済むはずがない。
 全裸で新宿を歩いているにも関わらず、誰にも補足されないとか――皆が知るところになったら、『都市伝説』どころじゃないよな。都市を抜かしていい。
 そんなのただの『伝説』だ。
 まあ、そういうことにならないからこその、『エニグマ』なんだけれど。
 そのページの内容も、かなり簡素なものだったよ。
 いくつか仮説は立ててあったけれど。
 目撃者の中には、『エニグマ』の女性を、本当に人間なのか疑っている声もあったな。
 もっと特殊な、概念のような存在じゃないか――人間よりも高次の存在なんじゃないか、とかな。
 俺はかなりその仮説に、しっくりと来る感じがしたよ。
 俺も彼女の持っている性質というか、属性に、人間じゃなくて、ポスターとかモニュメントとか、どこか非人間的なモノを感じてはいたからな。
 そうやって辿り着いて、俺は少しばかりの満足を得た。
 いや、その情報を見たことで、何かが解決されたワケじゃない。
『エニグマ』の女性という謎は、何一つ解かれたワケじゃあない。
 それでもさ、俺以外にあの女性を見た人間がいたってことを確かめられただけでも――何か手がかりが見つかっただけでも、嬉しかったし、ちょっと報われた気になったんだ。
 それで多分、俺と『エニグマ』の関わりも終わりかな、って思ってた。
 その時点ではな。
 明くる日、月曜日、俺は普通に会社に出社した。
 やはり、ネットで調べられたことが大きかったのか、俺はそれほど気を散らさずに、ほとんど普段通りに仕事をすることが出来たよ。
 そして、昼休み休憩の時に、同僚の岡野っていうヤツに話したんだよ。
 ちょっとした冒険譚を話すような――事件を目撃して騒ぐ、ミーハーな一般人みたいな愉快な気分で。
 で、岡島は言ったんだ。
『え? ぼーっとしてた。何の話だっけ?』
 だってさ。
 これだけ異様な体験談だぜ? 嘘と疑われても仕方ないけれど、それでも、流石に頭を心配くらいはされるだろうよ。
 それが、まったくのノーリアクション……というか、岡島の表情からして、どこかおかしいんだ。
 普段は俺と酒を飲み歩いて騒ぐみたいな陽気なヤツなんだぜ?
 それなのに、まるで上の空なんだ。
 あれだけ、ぼーっとした岡島を見たのは初めてのことだ。
 試しに、この前行った居酒屋の話を振ってみたら、そうしたら岡島はまるで、水を得た魚のように、活き活きと楽しそうに言葉を返してくるワケだよ。
 死んだ魚の目が生きた魚の目として蘇るワケだ。
 俺はそうして、理解した――理解しちまった。
『エニグマ』はその存在が認識されないワケじゃない――その話すらも、認識出来るヤツが限られるんだってな。
 俺が、警察に通報出来なかったのも、何らかの『能力』……いや、『影響力』なのかもしれない。
 ヤツを中心に、意味不明の磁場が発生しているのかもしれない。
 俺には分からない。
 謎なんだ。
『エニグマ』は結局、謎なんだ。
 そして、その休憩の後から、俺の記憶の中からも、あの鮮烈な違和感の情景は、薄れ始めた。
 俺はもう確信している。
 今日寝たら、きっと、俺ももう『エニグマ』のことを思い出せないだろうな。そういう予感、いや――確信がある。
 でも、俺はそれはあまりにも、勿体ないと思った。
 俺が『エニグマ』を見たという証拠を、彼女の痕跡を、どうしてもこの現実に刻みつけておきたかった。
『エニグマ』は謎なんだ……謎だからこそ、追い求めてしまうのかもしれない。
 こうも、必死になって、話したくなってしまったのかもしれない。
 そういう気持ち、君には分かる?」
「分かりませんね」
「そうか……、そうだよな。こんな気持ち、『エニグマ』を目撃したヤツとしか、共有出来るワケがない。
 ――というか、アレ? 何で俺はこんなに話し込んじゃってるんだろうな?
 ハハハ……恥ずかしい。
 って言うのも今更過ぎるか……君も、付き合わせちゃって、悪かったよ。
 自分でもこんなにも、『エニグマ』を誰かに残したい気持ちが強いだなんて、話すまで分からなかった。
 それに、君は格段に話しやすいな。
 何で、ここまで話し込んじゃったのか――初対面の相手なのにさ。
 本当に不思議だ」
「いえいえ、気になさらないでください。
 こういうことは、良くあるとは言いませんが、私が生きている中で、ちょくちょく起こらないでもないんです」
「へぇ……それはそれで、不思議な経験だよね」
「そうですねぇ――でもまぁ、そういう話を聞くのは、私も興味深いですからね。
 私としても、何だか新しい見方を発見したような気分になります」
「ふぅん、見方?」
「ええ。世界は自分以外には、どう見えているのかな、という、見方。
 あ、そうだ。
 話を聞いたお礼とまで、図々しいことは言いませんけれど――一つ質問してもいいですか?」
「いいよ、勿論。あぁ、ついでにここも奢るよ。話聞いてくれて、ホントにありがとう。
 長話に付き合わせて、悪かったね」
「いいえ、奢るのは別にいいですよ。そこまで期待していません。
 あ、でですね、質問っていうのは、その『エニグマ』の女性の容姿についてなんです」
「容姿?」
「ええ。だってあなたの話には、一度も『エニグマ』の裸が、どんなものだったのか――そうですね、小説で言う『描写』みたいなのが、まったく抜け落ちているじゃあないですか。
 別に、そこまで克明に語る必要なんてないですけれど、胸が大きかったとか、小さかったとか、あるいは髪形がどんなだったとか、背が高いとか低いとか、痩せていたとか太っていたとか、そういうのがまったくないのは逆に不自然じゃないですか?
 私が一応、女だから気を遣ったとか?
 いいんですよ、全裸で闊歩する女性なんかを見ちゃったんですから、彼女の裸が――彼女の造形が、どんなものだったか、語ってくださいよ」
「――え、ええと……」
 そこで、話をしていた彼は完全に停止した。
 ちなみに、彼は普通のサラリーマンに見える。
 あまり高級そうではないスーツを着ていた。
 二十代前半だろうな。短髪で、何だか爽やかな印象だ。
 活発そうだから、もしかしたら営業職かもしれなかった。
「な、なんでだろう……? まったく、思い出せない。『それが全裸の女性だった』ということしか……、なんで、何でだ……? 俺はそんなこと、君に聞かれるまで、まったく思い浮かべもしなかった……」
「そうですか。安心しました」
「……え?」
『何を安心したんだ?』と彼の顔には書いてある。
 まったく表情が読みやすい人だなぁ……私は彼に好感を抱いた。
 分かりやすい人は、嫌いじゃないですよ――もう、会うことはないでしょうけれど。
「あなたは、『エニグマ』を都市伝説として捉えていましたね。ああ、ネットでそんなページを見つけたんでしたっけ。
 だから私も怪談っぽく、安っぽい素人ホラーみたいに、こんな風に問いかけましょう。

 あなたが見た全裸の女性は、

 『エニグマ』の女性は、

 こんな顔をしていませんでしたか?」

「……え、はぁ?! ちょっと、え、えぇ……?!」
 分かりやすく動揺する彼に、私は舌をペロリと出した。
「いやあ、服を着ていると、案外気付かれないんですよねぇ。
『エニグマ』なんて呼ばれているなんて、あなたの話で初めて知りましたよ。
 ホント、なかなか興味深いモノです。
 自分以外に世界はどう見えているのか――私以外に、私はどう認識されているのか。
 それを聞くと、いうことはね」
『もう聞こえていないですかね?』と私は思う。
 彼の顔は、名前も知らない彼の顔は、ぼーっと上の空だった。恐らくは、彼の話に出てきた『岡野』という同僚のように。私に対して、人類がこうなる時は、一気にスイッチの切り換えが行われる。彼の認識も、私を『エニグマ』だと把握した瞬間に閾値に達し、失われた。
「私は人類の認識の外にいるんですよ。
 ちょっとばかり長生きでして、もう1000年くらい生きているんですけれどね。
 そんな中、人類の誰にも気付かれないワケです。
 それは普段は便利なんですけれど、たまにちょっと寂しくなって、こうして人間クンの話を、聞きに来たりもするワケです」
「…………」
「私が全裸でいる理由ですか? まあ、稀に気付く人間がいるんですけれど、その時に『私が全裸である』という認識以外を飛ばすためです。
 そりゃあ、外で全裸の女性がいたら、ちょっとショック過ぎて、『全裸だった』ということ以外の情報が、ぶっ飛んじゃいそうな感じがしません?
 まぁ、それを加味すれば、私は何者にも捉えられないというワケです」
「」
 彼はとうとう、船を漕いで寝入り始めた。
 そもそも、私を前にして、ここまで意識を保って、話続けられる方が珍しい。
 よっぽど、『エニグマ』の話を誰かにしたくてたまらなかったんだろうな。
 よっぽど、『エニグマ』という存在に、魅入られていたんだろうな。
 まぁ、聞きながら、ちょっと恥ずかしくも嬉しくて――なかなか楽しい時間でしたよ。
 私は席を立った。
 お金には不自由していないので、どうせならと彼の分の会計も済ませてあげることにした。
 じゃあね、名前も知らない男の人。

 それにしても、『エニグマ』ねぇ。

 私にとっては、彼の方が、人類の方が――よっぽど『謎』なんだけれどなぁ。

(了)