第42話。もう1つの戦い。
コノハが『可能性世界』で、『あの目』と、そして折れそうになる自分の心と戦っている時、現実でももう1つの必死の戦いが繰り広げられている。
「エネ……エネ!」
必死に呼びかけるのは、まるでドラマの病床にいる、今にも生命を失いかけている人間に声が届くと信じるのと同じようなものなのだろうか。
トガは、自分のことを、弱くなったようにも想う。
全てのことが計算で割り切れると想い込み、それでも解けない人間の心にぶち当たって、膝を屈し、泣き叫んだあの頃を想い出す。
いいや、俺はきっと強くなったんだ、と彼は信じる。
失うことを怖れることも、この懸命の焦りの感情も、計算で無駄と弾き出すことが今は正しいこととは想われない。
その実、そんな感情に付き合ってる暇はない程に、頭脳を駆使しなければ、とてもエネを助けることは出来ない。
その矛盾に急き立てられ、思考の限界まで追い詰められるようになりながらも、エネのエラーを探る。
エネの電脳体を組み上げたのは、『白衣の科学者』だ。オリジナルのエネは、本来、彼らの目的には不要だったはずで、つまり片手間に組み上げられたはずなのに、厭らしいくらいに完成度が高い。
そして、まるでトガに嫌がらせをするみたいに、他者からの解析を拒む、独特のプログラム言語によって編まれていた。
もう、『白衣の科学者』自体がそういう秘匿主義をまとうのが当然みたいになってしまっているのかもしれないが、それはエネを編む為だけに言語を組みました、とかそういうレベルで、トガはまずそのそれぞれの言葉がどんな意味なのか、それをまず知らなければいけない。
『能力』により次々と文字の内容を解読し、エネの構造を瞬時に割り出していったとしても、『あの目』の干渉は致命的な部分にまで及んでおり、その黒々とした靄による攻撃は、まるでプログラムで構成されたエネを物理的に書き換えるみたいなそんな出鱈目さだった。
エネが『闇』に置き換わってしまう前に、トガの『瞬時に答えを得る能力』はすぐさま『最適解』を弾き出す。
エネの初期化。
彼女の記憶を全てなかったものとして、電脳体を再構築する。
そうすれば、エネはこの『黒い靄』からは解放される。
だけど、トガはその能力から導き出された答えに従おうだなんて、ほんの一瞬すらも想えなかった。
冷静な計算による事態の打開を目指す執念の心も、仲間を信じるまっとうな熱い心も、全部がエネで、それが消えてしまったら彼女を救っただなんて口が裂けても言えない。
――だから。
『能力』が弾き出す『解』そのものがトガにとっての誤りなら、新しい『目的』を設定する。
『黒い靄』を排除する、かつ、エネの精神を守る。「何て迂遠な」とトガの『能力』自体が喋ったような錯覚すら覚える。
「早く簡単に答えを弾き出してしまえばいいじゃないか?」
黙れ。
『能力』なら黙って俺に従っていろ。自分の中にもう1人の自分が存在するような錯覚にすらも翻弄されるような心理状態の中で、トガは手を伸ばす。
かつては「そんなのは正しくない」と切り捨てたもの。
「そんなのは論理的ではない」と考えずに済ませていたもの。
トガが、今はやっと掴んだと想える大切な感情を、彼はもう失いたくない。
新しく追加された『目的』は計算を更に高度化し、脳味噌が焼き切れるのではないかと想える程に、演算は加速する。
確かにトガは弱くなったかもしれない。
けれど――。
応援するように誰かの手が重なった。
今はこの暖かさを、確かなものだと信じることができる。
演算が終了し、吐き気と共に頭脳がクールダウンしていく。
目で見なくても成功したのが分かる。エネは無事だ。重なった手が誰のものなのかも、トガには既に察しが付いている。
冷めたような、誰よりも冷静な思考を持っているようなフリをして、誰よりも情が深いんだから。
「大丈夫か? 死にそうな顔をしてるぞ、トガ」
目を開ける。
「団長こそ顔色が優れませんけど大丈夫ですか?」
「一人前みたいな口を聞くな……。この厨二病が。
まあちょっと、飽きるくらいに殺されてきただけさ」
冗談めかしてそう言って、キドは何でもない風に笑った。