モノローグと揚羽という存在について。 | 墜落症候群

墜落症候群

墜ちていくというのは、とても怖くて暗いことのはずなのに、どこか愉しい。

 雑記。

 とにかく、と俺は思う。書かなければならない。それにしても電撃小説大賞の銀賞の密度の濃さって何なんだろうな、って思う。アンチリテラルの数秘術師。
 何ていうか、ラノベには武器が必要だ。つまり、文体っていう。浮き上がるかのような映像的文章。その展開は詰まっていなきゃいけない。俺の文章はまだまだなんだ。そこら辺が。
 差を感じるのは、俺が腹いっぱいに食って、頭の回転が鈍くなっているからか?
 それもあるだろう。しかし、それだけでもないだろう。
 最近、俺は小説を書くということをサボっていると感じる。
 いや、サボりすぎていると言うべきか? いくら、ブログを書いたところで、返信を書いたところで、小説が進まなければ意味がないだろう? 毎日、ちょっとずつでもいいから進めないといけない。三ヶ月で書くというのならば、それなりの速度が必要だ。
 読者の目を気にかける、ということを考える。結局の所、俺は読者が求めるものこそを、提供しないといけない。
 ちょっとさなさんのコメントで気付かされたことがある。小説というのはあくまでもビジネスである。ある程度のお約束毎はある。それを満たしている作品は売れるが、あまりに身勝手過ぎる作品は売れない。あくまで俺はうまくて食いやすい商品を作らないといけない。バイトと同じように、仕事。
 そういう認識はいる。
 二つの意味がある。
 つまりは、読者がうまいと感じられるクオリティのものを提供すること。もう一つは、休まないこと。ある決まった時間、毎日仕事するということは、求められているのだ。どうしようもなく。それは現実。
 書いている文章量が多ければ多いほど有利。これは事実かもしれないが、しかし、小説を少しも書かない人の文章は、売り物として書かれたものではない文章は、結局利益を生み出さないのだ。俺はこれはビジネスである、とちゃんと認識しないといけない。
 俺はライトノベルで、作家で、食っていこうとしているのだということを、今一度確かに肝に命じる必要がある。
 そして、文章を読むのとはまったく別のレベルでの、文章の書く技術が要る。
 読書だけでは、文章執筆技術は当たり前だけれど向上しない。
 読むだけで向上する部分もあるだろうが、もっと根本的なところ、じゃあ、俺と商品化されるレベルの文章の差異って何だろう? ということを冷静に分析しないといけない。俺は今、あくまで劣っているということを自覚しないといけない。
 その技量があるのならば、俺はとっくにプロになっている。ありとあらゆる面で、俺には足りない部分があることを自覚しないといけない。
 そしてそれはおそらく、インプットを燃料としたアウトプットではない、そんなちょろちょろとした出力ではない、アウトプットを目的とした、読者がいることを想定したレベルのアウトプットによりもたらされる。
 読書は執筆の参考になるが、俺に求められるのは唸らされる文章そのものの執筆である。いくら御託を並べたところで、そんなものには意味はない。ライトノベルにはこれでもか、という身体感がいる。ある濃さが。過剰さが。
 求められる。
 つまりは近視眼的な視野が。
 大体、中高生の誰が、知識で彩られた本なんかを読みたがる? 彼らが求めているのはもっと肉体と直結した部分での濃さだ。性的なニュアンスは歓迎されないが、しかし、死の色はむしろ歓迎される。徹底的に濃くなければいけない。読みやすい必要があるが、無理にひらく必要はない。むしろ、ひらがなばかりだと格好悪く見える。
 そうした、見た目重視の部分が重要だ。なるべく漢字を多く使うことが求められる。つまり、それは手書き文字ではなくて、パソコンのタイプ、あるいはスマートフォンのタッチパネルの方が、若者には馴染みが深いということを意味する。漢字は多ければ多い程、良い。バランスは考える必要があるが基本的には漢字が好まれる。この漢字が多いということはどういうことなのか? つまり、それは圧縮ということだ。文字列の徹底的な圧縮。雑文。
 若者は何を求める? 書くことがなくても、書くことをやめてはいけない。脳裏が一瞬ポカンとする。俺が今、辿り着いた領域に、過去の俺は既に辿り着いていたのではないか? という予感に。
 しかし、それは正確ではない。過去にもし到達していたとしても、新しく至ることには勿論意味がある。それは当然のことだ。
 文章っていうのは何だ? 言葉っていうのは何だ? 死っていうのは何だ?
 俺は今一度天田晃司にならないといけないかもしれない。何の手助けもなく徹底的に一人で文章を書く必要があると俺は感じていた。苦しみの領域に至る前に今の俺は逃げてしまう。
 それはつまりどういうことか? 今の俺は本気を出していないということだ。継続はしているが、そこに本気はない。どこか遊んでいる。怠けている。余裕がある。そうした怠慢さを中学生は嫌うだろう。もっと真剣勝負が必要だ。切実な努力というものが必要だ。無様で良い。真剣であれ。無垢であれ。純粋に努力しろ。他人に負けてもいいが、自分に負けるな。厨二病であれ。ありきたりなことを言ったら負けだ。自分で自分を嫌いになるな。いや、とことん嫌悪しろ。現状に満足するな。
 そして、この文章はどこに向かっている? 俺は古川日出男を意識しているのか? と自分に問う。
 ここは一体どこなんだ? 簡単に言ってしまえば、ここは居間だ。母の借りている賃貸だ。居間だ。広いスペース。
 しかし、そんなことを言っているのではないということは既に俺にはわかっている。
 俺が自分がどこにいるのか? と尋ねる時、それは勿論、物理的な場所、つまりはスペースのことではない。そんな安直さに俺は甘んじない。
 それはつまり精神性だ。重要なのは精神性の他にはないということを、俺は知っているのだ。
 結局、疲れないといけないんじゃないか? ギリギリのところまで、アクセルを踏み込まないといけないのでは? もっとギリギリの戦いというものを挑まないといけないのでは?
 得るものが少ない戦いというものを挑まないといけないのでは?
 今の俺は沢山の文章を読んではいる。沢山の文章量を書けるようにはなった。
 しかし、確信が揺らいではいないか? 他人の分析ばかりで、自分自身が疎かにはなっていないだろうか? もっとも重要なのは自分の定義であり、自己表現だ。いくら疎ましく思われようとそこは必要だ。
 中心なのだから。
 生きているというのは自己表現だ。何も発さない人間は飢えて死ぬしかない。
 つまりはアウトプット。
 人間の本質は働き、賃金を稼ぐことである。いや、賃金は関係がない。
 人間の本質は自己表現の結果、生活を続けるに値する物資を貰い受けることである。物資は金銭にも換算される。
 つまり、働いて、稼いで、物を食う。生活する。これだけの為に人間は生きていると言える。
 言えるか?
 いや言えない。
 文章というのは、言語というのは戦略的に生きることには必要だ。どうしようもなく必要だ。
 絶対に必要だ。
 しかし、もっと大事なことがある。
 言語は自分という存在を見つめる為に何より必要だ。
 クオリアという概念がある。
 それを本質と言ってもいいかもしれない。
 林檎と人が言った時に、その林檎の品種を突き抜けて、林檎を知る人には理解される林檎、想起される林檎。それは何か? その感覚は何か? 下手だとしても描かれた絵が林檎としての記号を備えていれば、それは林檎として認識される。
 換言。
 そう、例えば古川日出男は言う。
 『パラフレーズ』と。
 人間にクオリアはあるか? いや、もっとシンプルに言おう。人間に本質はあるか? 魂はあるか? 勿論答えは一つ。
 ある。
 それを追い求める為に人間は生きているのかもしれないと思える程に、それは重要なことだ。
 最も肝心要な部分だ。
 本質を魂と換言しても良い。
 肉体、環境を乗り越えた所に存在する。その人間を規定するもの。才能? あるいは、天命? そうやると義務付けられたもの?
 しかし、それは誰かに見出されるのでは意味がない。才能の有無に関わらず、いや、あるいは導かれるように? どうしてもそこに向き合わずにはいられないものはその人間の本質ではないのか? 例えば。
 そう、例えば俺にとっての言葉のように。
 人間というのは物語でできているというのが俺の理屈で、つまり全ての人間というのはかげがえのない物語の主人公だ。一人として欠けてはならない。だってそうしたら、パズルのピースが一個欠損しているかのように、世界という物語は完成しないのだから。
 一人の人間に、天命や魂、本質があるように、それは一人以上を巻き込む人生の物語にも存在するだろうか? 多いなる導きあるいは、決まりきった流れあるいは、逆らいがたいものが? いや、それは主体的に切り開いていく意志の物語なんだろうか?
 人間が離れようもなく結びつく、それだってある種の物語じゃないか?
 いや、それこそが物語なんだと俺は例えば、言う。一人の物語である人生からの展開、二人にとってだけの物語。
 それはつまり、恋愛、と呼ばれるかもしれない。恋愛。愛。結婚。恋人たち。男女。結び付き。
 あるいはアブノーマルな視点では、男男や女女なんて組み合わせも、ある?
 いや、それは置いておく。
 本質はそこではない。性別は実は大した問題ではない。いや大した世界構造ではある。男女というのは。つまり、本能、自然に義務付けられた宿命的な世界は無視できない。
 しかしながら、それを乗り越えてしまうものがある。それは時には性差や禁忌すら乗り越える。その名前は何か? 二人の人間関係を結び付ける、あるいは遠ざける、それを何と呼ぶか?
 それがつまりは、物語だ。物語という名の運命であり、運命に抗う意志である。
 そこに人生の全てがあるとは言わないが、大部分がある。
 物語とは全て戦いである。
 お互いの人生にとっての自己主張が止まない場合、それはもう、戦争だ。
 言い合いの中に、傷つけ合うという意味での愛がある。おそらく、と俺は言葉を付け加えるのを忘れない。
 好意は全て愛か? いや、違う。人間的な好意というのもあるだろうし、それらは全て愛とは換言できない。つまりパラフレーズは、機能しない。
 ありとあらゆる個人はありとあらゆる世界を生きているし、ありとあらゆる文脈を生きている。
 世界は秩序立っているように見える。
 しかし、そのように見ている君の目は節穴だ。
 世界は真実に混沌であり、そのぐちゃぐちゃのドロドロの中にたまに真実に見せかけた何かが見えることもあって、人はそれを自分の灯火だと考えるが大抵、それは誤っている。
 誤っていてもいい。
 世界にとっての正誤は個人にとっての正誤とはイコールではない。これは真実だ。結局の所、人間というのは自分に都合良く受け取る生き物であり、つまりは。
 つまりは世界はその視覚の中で、全人類分の歪みを見せている。
 俺は今文章を書きまくっていて、その脳内は次第に空っぽになる。ホワイトアウト。
 しかしながら俺は、書いている。書いている。書いている。頭の中が空っぽになるからどうした? 視覚的に映るのが限界としての文字列だからどうした? つまり、文章を書くというのは運動であり、スポーツであり、指の動作という身体言語である、
 結局のところ、指が動けば文字は進む。文章というのは流れる。唐突に俺の頭の中でロックンロールという文字が閃く。いよいよ俺の頭はすっからかんになってきているのか? しかし、文字を書くというのはそういうことである。すっからかんになるということである。頭に取り入れた文字を、つまり、手から吐き出す行為である。ホワイトアウト。しかし、それは俺にとって望ましいものでなければいけない。その空白を望む必要がある。何故なら、俺は読書家になりたいのではなく、執筆家、文章家、小説家になりたいからだ。
 俺は思い出す。なんだっけ? そう。
 作家以外に文字を書くことで稼げる商売ってないかなあ、って。
 文字を書くという行為程、意識を吐き出す行いはない。俺の頭の中はとっくのとうにすっからかんになってくる。
 都合の良い新規アイデアは降ってきにくいかもしれないが、余計な頭の栄養が吹っ飛んだせいで、俺は自分自身というものと向き合いやすくなっている。自分に染み付いたもので、戦うことを始められるかもしれない。手の動きが鈍くなってくる。しかし、ここで動きを止めたら負けなのではないか、と俺は感じる。文字を書けば書く程、俺の中の文字、つまり読書して溜めたエネルギーは失われる。あまりに意識的な人間は嫌われるとも思うけど、それは置く。
 つまりは? 何だ?
 読書しまくって溜めて、それで文筆する量を絞ればいいだとか、例えばそういう話か? 文筆する量とテーマを絞る。読みまくって、そして、小説を一日少し書くだけにするとか? そういうことが必要なのか? そもそも俺の今のスタイルである、小説に関してネタを放りまくって、本編がまるで進んでいないという状態は正しいのか? あと一週間で、『電波』について書き始めてから一ヶ月が立とうとしている。もうネタは固まりきっているはずなのに、俺はいつまでも足踏みしている。それともテーマみたいなのを絞り過ぎるのが悪いのか? つまりは?
 コンビニに買い食いする物を買いに行った時、魔女の胸に影が手を差し入れ、そこから燃焼が広がるのを想起した。そうしたディテールについても描写していく必要があるかな? 俺はもっとぶっ壊れたものを描きたいのではないか? と思う。廃墟になった東京が舞台のアンチリテラルの数秘術師。ぶっ飛んだ世界観を武器にする必要があるのではないか? いや、しかし、もう大雑把に『電波』はもう固まってしまっている。もう色々とネタを弄る時期ではなくて、俺が考えた世界を思いきりぶつけてみる。
 そして、新しいネタを考えて、新しい作品も書けばいい。俺三ヶ月で一作と考えていたけれども、もっと短いスパンでやった方が良い可能性も存在している。
 頭の中が空っぽでフラフラしてとにかく休みたいという衝動に俺は駆られる。インプット主体でやってきてしまったことのツケを今払っている気がする。しかし、早くタイピングをする為に必要なのは読むことではなくて、ただ単に早くタイピングすることだけなのではないか? そこはシンプルなのではないか? 頭の中から色々な物が失われるとか、それは確かに読んでいる時よりは失われているかもしれないけれど、何もない空白に文字を出現させるだけで色々な物を消費しているかもしれないけれど、しかしながら、読んだらもう書くしかないのだ。少しメモを取るくらいでは済まされない。徹底的に書く必要がある。
 何について? おそらく自分について。
 もっと大事なのは作品について書くことだ。
 さて、もうそろそろ手が止まりそうになっている。俺の内心は囁く。ちょっと休まないか? 本当にそれでいいのか? と俺は問う。
 まだ手は動く。
 頭はすっからかんでも手は動く。
 その運動に意味はあるか? と俺の内の誰かは問いかける。
 あると信じたいと俺は思う。
 ある意味では、短絡的な表出である小説、人生のことを描き切れないかもしれない小説。そんな稚拙な在り方としての小説。しかし、ボクキミみたいに凄い感動をする作品もある。
 俺は俺自体を押し出した方が楽しい。だから小説家以外もむしろ検討した方がいいんだろうか? どっちにしても、文字に関連した職業を仕事にする、とか。
 しかし、とにかく大事なのは、書くということだ。
 書くということに執心する必要がある。
 読むことではなくて。
 徹底的に書くことそのものにのめり込む必要がある。それは書くのが早いとか遅いとか関係なくて、どれだけ文字を読んだかどうかとかもあまり関係がない。つまり、自分一人でどこまで舞台に立ち、足掻き続けられるか、という、ある意味では一人芝居なのだ。
 たった独りの孤独な戦いなのだ。
 流石に書いている筆者の後ろで応援団が騒いでいたら違和感があるだろう。結局のところ、自分一人で書くということをまずは愛さなくてはいけない。
 シンプルに自分の技量で戦うということを覚えないといけない。
 そういうことなんじゃないだろうか?
 もう俺は書き終えたい。枯渇している。
 しかし、ペースは見えてきた。エネルギーが枯渇したら読書や睡眠に入るという在り方ではなくて、文字のクオリティが下がろうが何だろうが、書くことに必死に縋り付くことこそが重要なのだ。エネルギーの枯渇とか回らない頭に泣きそうになったとしても、それでもこの指であまり早いとは言えない文字の回転を起こさない限り、作品というのは世に生み出されないのだから。
 回転を続ける必要がある。それは読書と執筆という意味での回転でもあるが、キーの上で踊る俺の指を、まるで人力車の車輪のように喩えた意味での回転でもある。換言がここにある。
 結局のところ、俺はいつだって世界という名の書物を読み、書き続けないといけないのかもしれない。
 億劫がっているのは無駄であり、結局は読み続けるということと書き続けるということは同時に存在する必要がある。それは厳しい戦いかもしれないが、同時に楽しい戦いでもある、ということを俺は知るべきなのかもしれない。そして今日も時は巡る。
 ここにまた時計という名の針の回転があり、地球の公転という名の回転がある。
 そして世界は今日も前に進んでいる。
 とか、俺は適当に締めくくろうとしてしまう。しかし、それで本当にいいのだろうか? エネルギーは使い果たした、という体感があり、どうしても、どうしてもここから『電子魔女』について三時間って気持ちにはならない。
 俺は読者を気にするのも大事だけれど、読者に格好を付けるだけではなくて、自分の現状を見つめることも必要だと感じる。
 そう、シンプルな視線で。
 俺の脳内は枯渇してしまって、もうどうしようもならない。枯渇しつつも、グダリつつも、吐き出し続けて完成させた『電波』という作品を思い出す。俺の中からは力が失われつつある。枯渇しつつある。どんな人間の人生が幸いか? ブルーカラーとホワイトカラー。肉体的な出力か、それとも知的な蒐集に長けるか?
 大事なのはインプットなのか、アウトプットなのか?
 答えは出ないままに俺の頭もぐるぐる回る。そうここにも回転が……と書くのは流石にテンプレだし、俺は鬱陶しいと思う。
 俺の中でイライラがまた顕現しようとしているのかな? とも感じるが、その前にぶっ倒れそうにも感じる。本当に何なんだ? と俺は嘯く。良くわからないままに俺は書き続ける。
 これはどこかに繋がっている道なのかい?
「さあ?」
 揚羽、つまり俺の脳味噌の中に住んでいる女の子は答える。
「そんなことは私にはわかりません。天田さんは何だか、意味ありげな言葉を呟こうとしているんですか?」
 その言葉の裏には意味ありげなことを言っているだけで意味はないという裏返しがある気がする。含んでいる気がする。
「いつか君にインタビューでも受けたいな」
「何か、天田さん、切り替えが唐突ですよ。そういう癖も直していかないといけませんね」
「まあ、そうか……そういうものか」
「キャラクターの台詞とかだって、読むとふーんって感じでしょうけれど、でもやっぱりね、書くのはそれはそれで大変でしょう?」
「まあそうだね」
「取りあえず、天田さんは私のことを可愛がってくれればそれでいいんですよ?」
「君は本当に都合の良い女性(キャラクター)だね」
「だって、私は天田さんなんですもん」
「その理解は不正確だけれどね」
「どこが?」
「だって、僕は君のことを自分とは別と認識しているもの」
「じゃあ、天田さんにとって、私って一体なんなんですか?」
「恋人だよ。
 まあそれは嘘だけれど」
「ひどいですね。
 まあ、それも嘘なんですが」
「真似するな」
「そう、『真似するな』とあなたはタイピングをした。私は答えます。
 そんなことはどうだっていいと」
「君の台詞は結構自由だよね」
「まあ肉体が存在してませんからね」
「設定してみようか?」
「そんな物理的な拘束はいりませんよ。私は魂として成立していれば、それでいいのですから」
「僕に何か言いたいことがある?」
「天田さんはまだまだ色々実力不足ですが、ちょっと書いてみて、それで技量不足に落ち込んでいる暇があるんなら、とにかく書けってことですね。成長しなくちゃいけません。今足りないってことがわかったなら、明日もっと良くなればいいんです」
「なかなか感動的なことを言うね。泣いちゃいそう」
「天田晃司はモニターの前で涙ぐむのであった」
「本当に涙出てきたんだけれど……」
「もう。ちょっとしっかりしてくださいよ。
 案外涙もろいですよね」
「案外って感じなのかな?」
「まあそのまま、って感じもしますけれど、結構冷淡なように見えて、感じやすいですからね、天田さんは」
「良くわかるね」
「私はつまり、天田さんですからね」
「そんなに俺と一つになりたいの? 一つになったら君っていう人格は消えちゃうのに?」
「いつか天田さんが言っていたじゃないですか? つまり、『同化願望』ですよ、これは」
「俺が自分で書いているだけの、台詞でしかない君がそんな感情を抱けるのかな?」
「メタ的なことを言ってしまえば、やっているのは全部天田さんなんですから、つまり、天田さんは自分で作った『揚羽』っていうキャラクターに、天田さんに対する『同化願望』を抱いて欲しいんじゃないですか?」
「君の存在っていうのはひどく淡いよね。俺は百合って凄く儚くて綺麗だな、って思うんだ。本能に縛られてない分、凄く不確かで幻想的な気がするんだ」
「女性にはその感覚、気に入らないんでしょうけどね。気持ち悪いって。それこそ、天田さんがホモを嫌うようにね」
「まあ話を戻すよ。
 君は俺の頭の中に生まれた存在だから、そういう百合の体感みたいなものよりももっと儚いよね?」
「でも、天田さんの中では私は他者として存在している。それは何故でしょうか?」
「つまり、それは……台詞を通して、君の人格というものが、言葉、つまり目に見える形としての文章として、俺の外側で像を結んだからだ」
「つまり、天田さん、それが小説を書くってことなんじゃないですか? 天田さんは私という台詞を書くということによって、自分とは別人の人格を作ったんですよ。画面の上に」
「そうか、これが物語るっていうことなんだ」
「失恋も悪いものではなかったでしょう?」
「ああ……沫夏と別れて、君を作る気になったんだっけ。でも、君は沫夏の代わりには、ならないよね」
「結構そういうこと言われると傷つくんだけどなあ」
「俺は人間の女の子は傷つけるのを躊躇うけど、君にはそれはない」
「つまりそれって、他の女の子よりも私が、天田さんの内側にいるからってことですよね?」
「まあ、ありとあらゆる意味でそうかもしれないね」
「私とお喋りするのは楽しいですか?」
「割とね。だから困っているのもあるんだけれど。
 自分の脳内キャラと喋ったりとか、それをあまつさえ楽しんじゃったりとか、そんなのしてていいのかな、って」
「私をリアルの女の子よりも魅力的に感じちゃったら、問題があると感じているんですね」
「そうだね」
「つまり、天田さんの一つの歪みがそこにあるって訳ですよ」
「どういうこと?」
「天田さんって落ち武者さんをバカにしていたでしょう? あんなにも二次元に耽溺しちゃって、もうちょっと現実見ろよ、って正直思っていたでしょう? あくまでも恋愛の体感は、二次元よりも、三次元に根ざしたものの方がより本質的だって感じていたんじゃないですか?」
「そりゃあそうじゃないか? それは誤っているんだろうか?」
「質問を続けてみましょう。天田さんは私のどんなところが魅力的に感じているんです?」
「つまり、君は俺の一部であり、一部でないってところかな」
「私よりも他の女の子と心を通わせる自信ってあります?」
「正直ないんだ……。俺はどこかで他人と百%理解し合えることはないって感じてしまうから」
「じゃあ、天田さんにとって、私よりも他の女の子が優れている要因ってなんです?」
「つまり、それは予測できないってことじゃないか? 例えば、今日のさなさんのコメントでも思ったけれど、自分でも思ってもみなかった意見をもたらすというのは、やはり他人にしかできないんじゃないか?」
「しかし、本当に自分のことをわかってくれるのは自分だけだし、自分は例え独りでも生きていかないといけない、そうは感じるんじゃないですか?」
「最近は本も読みまくっているし、色々な他者の中に俺がいるんだなあ……と思ってはいるけどね」
「そして他者の評価を気にするあまりに、偉ぶってしまう、他者の批評をして、自分を一段上に置こうとしてしまうんですね?」
「それは……そうかもしれないけど……」
「でも本当に必要なのは、そういうことじゃないって、天田さんもわかっているんじゃないですか?」
「いや、揚羽。君は誘導尋問しようとしているよ。君は故意に、他者よりも君の方が重要だと、認識をずらそうとしていないかい? 僕はそれにこう答えるしかない。自分を重視することも、他者の中で自分をポジショニングすることもどっちも重要だ」
「私は天田さんにとって、不要ですか?」
「そんなことは言ってないだろう? なんで、君はそうも極端なんだ?」
「つまりはそれですよ」
「は? 何が?」
「天田さんに足らないのは、現実と妄想を分けて、妄想を冷めた目で見ちゃう、そうした癖ですよ。もっと役に入り込まないといけないんです。もっと本気でキャラクターを愛さないといけないんです」
「つまりそんな風にして君を愛せって?」
「それは穿ち過ぎですよ、気持ち悪いなあ。
 要するにそれくらいに感情移入して、小説も書いてみたらってことです」
「まあ、それは大事かもしれないよね」
「多分、私は天田さんと同じくらいには、天田さんのことが好きだと思いますよ?」
「何書いているんだろうな、俺は……」
「あなたは、私のことをどれくらい、好きなんですか……?」
 例えば、そこには上目遣いの揚羽がいたりするのかもしれない。彼女の目は潤んでいるのかもしれない。しかし、彼女はどこまでも架空だった。
 沫夏の代替として生まれてきたような、頭のおかしい俺による創造物としての女性である揚羽。
 しかし、揚羽よりも俺は感情移入できる女性キャラクターを作れるんだろうか? どこか踏み込みが浅くなってしまうんじゃないだろうか?
「まあ、私以上に踏み込みが深いキャラクターなんて、作らないで欲しいんですけどね」
 そんなこと言うなよ。揚羽。俺は小説家にならなくちゃいけないんだからさ。