杯と白い羽

杯と白い羽

さかずきとしろいはね:見えない存在なら死霊から天使まで会話できる、チャネラーもどきの現在と昔話(経験談)。
日常よりも霊的な話メイン、更新頻度は低め。

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こんにちはこんばんは、ご無沙汰しております、こたろです。

長い間放置という結果になり、大変申し訳ありません。
色々謝罪や言い訳を書きたいところではありますが、今回は吐き出す場所がない苦しさのあまりに筆を取ったので、失礼ながらそちらを優先にさせてください。

上述の通り、今日は苦しいお話です。
まだ解決途中で、光の目処も立って(立てて)おりません。
過激な表現も少量用いますし、読むに耐えない方もいらっしゃる内容です。
ただし、誹謗中傷ではなく、懺悔に近いです。

現実味の湧かない方は、創作や夢想の一環と思って下さるか、こういう意見もあるんだ程度に思うか、そっと見なかったことにして下さい。

心身の調子の悪い方、他者の価値観に引きずられやすい方、楽しい話を見にいらした方もどうぞ、そっとブラウザバックして下さい。

そして、読んでいる途中で嫌だと感じた方、何か自分の中の、開けてはいけない蓋を開けそうになっていると感じた方も、途中でも戻ってください。
そして、大天使ミカエルとラファエルに、あなた自身の守護と心身の安定を頼んでください。半信半疑でも、呼びかけと願いを口に出すだけで十分です。どうぞお願いします。



それでは、上記のお願いに理解を示してくださった方だけ、どうぞ。









眠れない日々が続いています。
うまく寝付けず、寝つけても2,3時間というのもざらです。
18時間以上起き続ける、あるいは激しく体力を消耗する行為など、身体に負担をかけなければ普通の睡眠時間は取れません。

昔からそういう時期もあったのですが、一時的なものであり、このように長く続いた事はあまりありませんでした。

原因ははっきりしています。過去生のトラウマです。
長年かけて少しずつ紐解き、原因を頭では理解していますが、いまだ、直接向かい合うまでには至っていません。

まだ少しためらいがありますね。
まだるっこしい言い回しで申し訳ありません。はっきり言います。

私は、強姦を恐れていて、それを回避したくて眠れないのです。
眠れば、襲われると。頑なに信じている私がいるのです。

(この時点で、嫌悪や恐怖などを感じた方はブラウザバックをお願いします。自衛大事です)

私は、私のとあるルーツの過去生で、自分にひどい罪悪を感じました。
それで、何度もひどい人生を望んで送ってきたのですが、その時に得たトラウマのようです。

幸せになっては、いけないと。
そう頑なに信じて、自分を罰するように、愛にまつわる苦しみを背負う人生を、何度も繰り返しました。

この話をすると、私と縁の深いウリエルなどは、ひどく渋い顔をします。苦汁を舐めたような、そんな。
苦しみ続けてきた私を、とくに彼はずっと気にかけていてくれたのですね。


話を戻します。
体を奪われる人生、そして奪う人生を、何度も繰り返しました。
はたから見れば正気の沙汰ではありませんが、私なりの思いがあってなぞったものです。

曰く、私は罰されなければならないから、とその連鎖が始まり。
曰く、あの人の行為に愛があったと信じたい、無理やりの中に愛があったと証明したい、という衝動から模倣をし。
曰く、その被害者の気持ちを思い出すために、もう一度同じ被害に遭う人生を送り。
曰く、信じたい、証明したい、と…………。

酷く不毛な繰り返しでした。
何度やっても、私はそういう目に遭っては傷つき続けたし、被害者は傷つき私を拒み、あるいは自己防衛のために何かを崩壊させました。
だから私は、今生女に生まれたのです。女である以上、力の差はつきにくく、加害者になりにくいですから。

けれど、今度は被害者になりやすくもあります。
そして、これとは別に愛されない人生を経験した結果、「私は体の関係がなければ愛されない」という思い込みも、新たに作りました。

これが非常に問題でした。

「私は誰にも愛されない。けれど、体を差し出せば愛される」
「それならば、愛してもらうためにいくらだって体を犠牲にしよう」
「私には、それ以外愛される価値などないのだから」

この思い込みは、「愛=肉体関係」という強固な信念(怨念?)を作り出し、体の関係の無い愛は、信じないまでになってしまいました。
そのため、この思い込みは天使たちの愛ですら、思い込みを癒すことができなくなっていました。
それは愛ではない、とどこか冷めた目で見ていました(今もです)。天使に肉欲はありませんから。


私には、強姦をする人間の心理がわかりません。かつて自分も行ったというのに、です。
おそらく、その時の精神状態の悲壮さのあまり、自ら封じてしまっているのでしょう。
思い知りたく、ないのでしょう。

たとえそれが、社会の澱を溜め込んだ結果の皺寄せだとしても。
たとえそれが、報われない愛をなんとかしたくて衝動をぶつけた結果だとしても。

今の私では、想像ができません。きっちり、蓋をしてしまっているので。
この現状、少なくとも被害者たちには仇となる行為でありましょう。
彼女らが「あなたの成長のために必要なら」と生まれる前に合意して受け、負ってくれた傷は、未だに私の成長材料にはなっていないのですから。

今生の知人に、私の被害に遭った人が複数います。どの子も今生で同性です。
再度私の被害に遭わないため、私を恐怖として思い出さないため、ということなのでしょう。
その子たちには、やはり何をするでもなく嫌われてしまいました。
同じように私も、過去生で私を殺し、あるいは性的暴行を加えた子たち(同性)には、知らず嫌悪と恐怖を抱きました(今は多少マシで、話すこともできますが)から、気持ちは少し、わかります。
致し方ないことであり、当然の結果です。

でも、私は学ばないままです。
被害者の立場に立ってみれば、そんな奴は寄るな触るな死に晒せ、が本音でしょう。反省していないので。


先に、「私は体の関係がなければ愛されない」という思い込みがあると述べました。これがとても問題だ、とも。

その思い込みの結果、私は来るもの拒まずの体質になってしまいました。
無論、現実ではモラル、あるいは教育の賜物で、誰でもいいとまでは思っていません。
でもどこか、愛してくれるならと、ふらふらついていってしまいそうな危うさを持っています。
そして、何より。

生きた人間は、霊魂(幽霊、守護霊、自然霊など)と性的に交わることが可能です。
それがあちら側のモラル的に問題があるかどうかはさしおき、実質的に可能なのです。
ただし、お互いの合意があった時、だけ。
合意がなければ、触れることもできません。

では、……来るもの拒まない、私、は?

自分には体でしか愛される価値がない、そして誰でもいいから愛されたい、と願っている私は。
私は。
無意識に体を許してしまうのです。


どうぞ軽蔑してください。けれど、許してください。
どんなにやめたいと思っても、思い込みと過去の私がそれを認めない。

愛されたいと、許されたいと、取り憑かれたように願う私は、月のものの前になると、『他者を誘う』何かを発します。
生きた人間にはほぼ効果がありません。感覚や本能よりも前に、立場や外聞、行動の結果、一般的なプロセスなど、考えるものがあるのでしょう。

けれど、影響をダイレクトに受けてしまう、霊魂は。
私とかつて親しかった、夫婦や恋人関係にあった霊魂、あるいは、肉欲が強く波動の低い存在は。
私の抱えたこのような病癖を知らず、求められたと感じて私に触れます。

起きている間なら、嫌悪感を覚えて気づき、説くなり追い払うなりします。できます。
けれど、一番無防備で過去の私が活発な、私が眠っている間は、それができません。

私は、目に見えない他者がいると、眠れません。
普段は眠る前にミカエルに、そういった霊魂達が近づけないように守護してもらってから眠りにつきますが、私の恐怖が酷くなると、中々頼めなくなり、そして心配して見張ってくれる(事情を知っている)守護霊や天使にすら無意識に怯え、眠りが浅くなりました。


今日は、どうしてこんななんだ、眠れないのはつらい、これじゃ生活できない、と心の中で叫びました。
心の中、私の内側の空間で、私の周囲に泥のようなものが散らばっているのを感じました。私の恐れです。
ふわり、と泥が浮かび上がるのを感じて、これらが光に還ればいい、と念じました。
浮かんだ泥は、しかし元通り地に落ちました。

「ミカエル。……どうすればいい?」
『祈れ』

自分たちに手助けを求めるように、という意味だと受け取りました。
言われた通りに願うと、泥が瞬く間にかきあつまって浮かびました。
瞬間、何かがフラッシュバックしました。一瞬だったけれど、気がつけば喉から長く悲鳴が出ていました。

私が思い出したくない、過去でした。

「もう一回」
『やめろ、』
「もう一回やるもん!」

私の子どもじみた叫びと願いに従って、もう一度脳裏にそれがよぎりました。
肌色の。
痛みと、恐怖と、絶望と。
それらしか認識できませんでしたが、私は心の中の空間で膝をつきました。動けませんでした。

「もう、いっ……」
『もういい。守護を頼んで、今日ぐらいは薬を飲め』(随分昔に医者からもらった、少し眠くなる薬のことです)

ミカエルは私を抱きしめましたが、私は、きっと生来の自罰願望と他者への恐怖感で、慰めないで欲しい、触れないでほしい、と願いました。
ミカエルが視界から消えたように思いましたが、見守られている感じはします。

慰めないで、と言えば、きっと彼らは離れるのでしょう。私の望むままに。
でも、それでいいの?
私は、手を伸ばしました。温かな、ミカエルの手に触れて、握ります。
子どもみたいな泣き声で、私はわんわん泣きました。
ミカエルは、羽を広げて私を包んでいてくれました。



文にしなければ、と思い、こうして書き上げた次第です。
長く、光の無い話を読んで下さり、ありがとうございました。


ありがとう。
ごめんなさい。
愛しています。

これらの言葉を、私と関わる全ての存在、そしてこれを読んで下さった皆さんに、捧げます。
そして、ここまで読まずに途中でやめた方たちに、その人たちにとって最良のタイミングで、癒しが訪れますように。

最後に。
私がかつて愛し、傷つけた彼女らに、神の祝福あれ。


雨崎こたろ

ご無沙汰しておりました、雨崎こたろです(^_^;)
浮上しようとしてリバウンドモロにくらった感じ。いやあ情けない…。
まだ何にも進んでないからね! いつまでも停滞していられないので、一個ずつ片付けていきます。


さて、停滞していながらも、少しずつスピリチュアル的なできごとは起こっていたし、私もできる範囲で受け止めていました。
教はその中から、最近見たビジョンを記録ままで引用します。
分類としては過去世関連になるはず。

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 先日の入浴中の話。

 私は入浴中、チャネリングするのはよくある話で、物語(書き物)のネタや、日常で持った疑問の答えを思いつくことはいつものことだった。


 私は、このごろ色んなことに嫌気が差している自分に疑問を持った。
 特に何があったわけでもない。ひどい事象があるわけもない。
 それでもここのところ、すべてに「嫌だ、嫌だ」と言い続けていた。何かにつけて文句を言える点を探す様は、まるで駄々っ子のようだった。

 ふと思ったのは、「今がチャンスではないのか?」ということだった。
 普段は、こんなに嫌だとは思わない。変わったことがあったわけではないから、普段に嫌なことが潜んでいるのだ。
 そして、こうも敏感に嫌だと言い出している今、より簡単に“嫌な事”と向き合えるのではないか?

 その日の昼になんとなく読み返した、楡居さんの『手放すということ』の記事
 嫌がって押しのけたり光に還すことは、手放すことにはならないのではないかという内容だった。
 改めて、視点を変えて、納得して、それから気にならなくなれば、手放したことになるんじゃないのか、といったもの(と私は解釈した)。
 何度か読み返していた内容だけれど、それを応用するなら。


 今、その“嫌な事”が近くにあるなら、たぐり寄せて観察することも簡単なんじゃないのか?


(厳密には、近くに来ているのではなく、浮き彫りになっていると言えばいいのかもしれないけど)
 自分が嫌がっていることを見てみようと意識すると、頭の中で黒い塊が近くにあった。
 人の大きさをしていたそれは、黒いのは布のようだった。

 声をかけてみた。返事があった。
 ゆすってみた。出ておいでと布をめくってみたりした。

 姿を現すことを嫌がりながらも、おずおずと出てきたのは少年だった。おそらくだが、私の過去世のひとつで間違いない。

 少年は、目を見せることを嫌がった。醜いから、と言ったけれど、さほどの抵抗はなかったように思う。
 そして私は、少年の目を見ても、何が醜いのかはわからなかった。
 少年は目が見えないのだという。白内障など、変化の見える視覚障害もあるので、その類で厭われた口だろうか。私の知識では判別はつかない。
 私もこちら(意識世界)ではあまりうまく見えないと告げると、彼はとても驚いていた。

 私は、自分の姿を意識してイメージしてみた。すると、少年には私の姿が見えたらしい。彼は見えたことに驚くと共に、なぜ裸なのかと戸惑われてしまった。入浴中なのだから、仕方がない。
 簡易にワンピースのイメージを浮かべて着てみて、問題なしと判断する。
 彼の、なぜ自分はものが見えるのかという問いに、ここは肉体は関係のない場所だからと説明した。

 私が、君はなぜ目が見えないのか と尋ねると、何が起こったのかはわからないが、強い光を浴びて見えなくなったのだという。
 彼の周囲は彼を忌んだようだから、彼の生まれた土地の文化ではない、何かに光を奪われたのだろうか。

 どうやら彼の過ごす社会では、たとえば身体的な障害は、過去にどこかで悪行をなしたせいと解釈されるらしかった。
 悪い事をしていない人間は、彼のような目に遭わないというのが通説らしい。
 そんなものは覚えがないといくら言っても、覚えていなくても神は見ているの一点張り。罪を認めないことすら責め続けられ、彼はとうとうありもしない罪を告白したという。
 そのため、彼を見る周囲の目は罪人に対するものだった。

 私は、確かに過去の行いの反動でそういう経験をする場合もあるけれども、そういうことをしていなくてもハンディを背負って生まれてくることもあると言った。
 それは、それを経験する事によって得られるものがあるからであって、その違いは生きた人間には通常区別がつかないと説明した。(むしろ、どちらも同一かもしれない)
 少なくとも私はそう教わった、と私が言うと少年は、どうしたらみんなにわかってもらえるのかと、途方にくれた顔をした。
 一度認めてしまったことと、その通説に宗教らしさを感じていたから、私は理解されるのは難しいと告げた。

 私は、人生におけるすべてのできごとは、生まれてくる前に自ら決めたのだと彼に説明した。
 選べない出来事によって何かを失うのは、それを決めて生まれてくることは、とても勇気のあることだと私は思う。
 あなたがそれを経験することでしか学べないことを、得て欲しいと私は言った。
 と、そこに。


“でも、実際たまったもんじゃないよなあ?
 お前はどんな仕打ちを受けた? 到底許せるもんじゃないだろ?”


 それは、第三者の声だった。私はそんな事を言う人物に心当たりがあったので、焦りはしなかった。
 いつだったかの、じぇいどさんちの黒カイルのように、彼が溜め込んでしまわないように手配しているのかもしれない。
 ちょっと違うけれど、グッドコップ・バッドコップのようなもので、彼の視点で語る者も必要なのかもしれない。

「そうだ」

 第三者の声に返したのは、少年ではなかった。
 強い非難の意思を感じてそちらを見ると、少年が成長した姿なのだろう、よく似た男性がたたずんでいた。

 男性は憎々しげに、社会への、周囲への恨み言を口にした。どうやら盲目のせいでまともな職に就けず、蔑まれているようだった。
 暴力を振るおうとする動作(おそらく威嚇)があったので、私はミカエルとラファエルを呼んだ。
 こういった(精神世界の)場では私は、“自分は安全”という認識がやたら強い。私は、普段では考えられないほど冷静だった。

 少年が青年の大声にびくついていたので、ミカエルについていてもらった。ラファエルには、彼らの精神的安定を促してもらう。
 青年は、怯える気配のない私を見て、呼び出された存在が強固であると判じたようだった。

「お前も俺を迫害する側だろう」

 彼の問いに少し考えて、“迫害する側か迫害される側かと問われれば、おそらく迫害する側になるだろう”と私は答えた。
(身体の障害についての差別という基準で言えば。私は五体満足だから)
 青年の彼は、言葉通りに受け取って怒りを顕わにしたけれど、私は気づかないふりをして言葉を続けた。

 私は、私の育った社会では、盲目の人物をそれを理由に蔑むことは、差別とされ厭われていると話した。
 目の不自由な者のために、社会的に工夫が凝らされていることを話す。
 たとえば、と路上の点字ブロックについて説明した上で、

「私は子どもの頃、あまりそのブロックを意識したことはなかったから、もしかしたら何度かそのブロックの上に自転車でも停めたかもね。そうしたら私は、迫害者だ」

 青年が虚をつかれた顔をした。少年は安心したようだった。
 私は他に、障害者を表す言葉は、次々と『差別用語』として禁止されていっていることを話した。 『き_がい』『つ_ぼ』『め_ら』(検索回避のため伏字失礼)もだが、最近では『障害者』という表現も(『害』の字にマイナスの印象があると)、禁止される風潮があることを告げると、彼らは戸惑った顔をした。

「そこに侮蔑の意味がなくても、禁止されることはあるよ」
「それは……」

 なにか違うような、と少年が口にした。
 そう、この部分は、社会的に危うい点なのだ。彼らが前にしている問題と、少し違う。この社会の“何かがおかしい”が、ここに現れている、氷山の一角。

 彼らを(彼らの感覚で)見下す習慣が私にないとわかると、彼らの敵意は和らいだ。
 それでも、青年の方は鬱屈しているらしく、なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのかと嘆いた。神を呪ってさえいるようだった。
 私は、近頃仕入れたばかりの知識を総動員して、彼に告げる。

「社会がそうさせているんだよ。その人が、たとえば私の時代に生まれたら、あなたを差別しないかもしれないし、私があなたの時代に生まれたら、その人たちのように振舞うかもしれない。……おかしなたとえだけどね」

 この青年も少年も、私なのに。
 あなたが次に人間に生まれてくる時、なにもハンデを負わずで生まれてくるかもしれないと私が告げると、青年の目に希望の光が宿った気がした。

「あなたがその経験で学ぶべきことを学んだのなら、繰り返す必要はないから」

 未来世の概念がないのか、それとも罪人は永遠に罪人のままだと言われ続けていたのか。
 どうやらそれは、彼にとって救いらしかった。



 それから少し、彼らと話をして、集中が切れてきたのを感じた。
 ガーディアンエンジェルを呼んで、やってきた二人(片方はトーマ)にどうしたらいいかと聞く。私は結局、何をすべきだったのだろうか。
 『あなたの言葉で説得すること。あなたが覚えたことをもう一度理解することが重要なんですよ』と教えられた。
 そういうものかと聞いたら『神の教えに近いものが必要なら、僕らの言葉でもよかったでしょう?』それもそうだと納得して、そこ(意識世界)を離れた。


 現実では、もう入浴の終わりごろ、洗髪の直前だったので、洗髪に集中することにした。



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色々不明なところも多いですが、ものすごく『残せ』『ブログにUP』と要求されている感が強かったので、のろのろと書いた次第です。遅くなってごめんなさい誰かさん……。


少年は『理解されなくて悲しい』という気持ちを持ち、青年は『理不尽さに対する怒り』が強かったように思います。
 謂れない罪、迫害、社会的弱者。

どうも、彼らの周囲というか環境は、キリスト教のような雰囲気でしょうか。
やったことが返ってくるという感覚は仏教には強いですが、転生の概念はなさそうだったし。
あまり観察もしていないので、彼がどんな土地の人間なのかもわからないし、私の乏しい知識では宗教も大きなものしかわかりませんが…。

疑問なのが、『懺悔』がまったく効力を持っていないこと。彼は少年の時点で告白して(させられて)いるのに。
これは、彼の目が治っていないのが原因なのかな? 盲目の人物が見えるようになるというのは、新約聖書の奇跡のひとつとしてあるので、『赦される=見えるようになる』といった認識なのかもしれません。

そんなこと言ったって、見えないことで得るものがあって、それが必要なんだから見えるようになったら困るじゃんよ。と私としては思うわけですが、そんなことは置いておいて。


どうして彼が視力を失ったのか、とても知りたいのは、おそらく私の中の彼の気持ちなのでしょう。
そして、『知ってどうする』『原因に復讐でもするのか』『できるわけあるか』といった、自己否定的な感情も同様にある。
『無力感』もこの人生のキーワードでしょうか。

彼の人生に、一人でも理解者がいれば、また違ったのでしょうか。
それとも、いたのに拒絶してしまい、離れていったのでしょうか。(青年期の荒れ様を見てると……ありえそう)


……ん? 私の聖書嫌い(読まなければという気がするのに、読もうとしてもなぜか手がつけられない)は、もしやこの辺由来?
(マグダラのマリアをはじめ、政治に合わせて改変されすぎ勝手な解釈多すぎーと、言い訳は色々あるのですが、過去世の影響と考えた方がしっくりくる)
この辺だけではない気もするので、一旦保留にするとして。(この人生の宗教も定かでないし)


とまあ、まだ色々消化不良の部分のある過去世でした。
今後、彼らについて進展などあれば書くかもしれません。(が、わかりません…^^;)

あ、と、話は変わりますが、フリープラグインにツイッターのウィジェットのっけました!→
ブログデザインに合わせて色を組み合わせたら、えらい可愛くなってしまいましたが(笑)
始めた頃は読む専で、公開はないと思っていたのですが、気づいたことなど文にすると(しないよりも)理解度が違うような気がしたので、最近意識してつぶやいてます。(でも週一、二くらいの出現率ですが)
過去世関連も、ちまっとつぶやいて終わる内容なら、ここに入るかもしれません。
大した内容でもないですが、フォロー歓迎^^(とか言ってみる)



『ありがとう』『愛しています』
『この出会いに感謝して、互いに糧としましょう』
私と縁のある、すべての方に、これらの言葉を贈ります。
雨崎こたろ

また久々の更新です^^;

大変遅くなりましたが、先週の土曜日に
藤瀬あおいさん 主催のお茶会へ、参加させていただきました!

藤瀬あおいさんは、大阪を拠点に活動なさっているセラピストさんで、
カラーセラピーなどを中心に、少しスピリチュアルや
仏教的な視点も取り入れて活動していらっしゃいます。(セミナーなどもなさってます)

私は、これまであおいさんのメルマガを読んでいるだけだったのですが、
今回ちょっと勇気を出して、大阪にて毎月開催されるお茶会に、申込んでみました。

あおいさんは、何よりもつづられる言葉のきらきら具合!が
とても魅力的な方なのですが、実際にお会いしてみると、さらに素敵な方でした♪
ふんわりした雰囲気の中に、シュッと冴えた動作だとか、
場を意図して調和させることができる人って、こんな感じなのだろうな、と思います。



お茶会場所はかの英國屋さんで、さすが素敵な雰囲気のお店。
紅茶党のこたろ、幅広い紅茶の種類に内心大喜びしました(笑)
季節のフルーツワッフルもおいしかったです♪ ワッフル久しぶり!
お茶会に参加していらした皆さんも、それぞれセラピストをやってらして、
ごく一般人の私は浮いてなかったかしら^^;
でも本当に、それぞれ柔らかさや溌剌さなど、素敵な雰囲気の方ばかりでした!


そして、今回『梵字カラーセラピーカード』というものを引かせて頂きました。
表向いて並んでいる中で、自分が気になるカードを手にとって、
自分でリーディング、という内容だったのですが、
このカードもパステルカラーで素敵!
実はパステルも好きなこたろ、目移りする中、選んだのがこれ。

写メで粗くて申し訳ないですが^^;


杯と白い羽-3/17のカード


左が自分用に、右がなんとなくこの場の雰囲気かな~と選んだカードです。
(フリーダムですみません…)

とにかく目が行ってしまうカードをそれぞれ選んだのですが、
(個人的な占い鉄則。惹かれるカードを選ぶ♪)
手元に取ってまじまじ見て、まず思ったのは、左のカードの煩雑さ。
右のカードは見るからにやわらかくて、温かです。わかりやすい。
でもこれは、一色、二色ではなくて、多色あって、混ざり合っている。
それを見て、ここに来るまでの私の混乱した状態かなあ~なんて、軽く考えていました。

でもこのカード、そんな単純なものではなかったんです。
裏にキーワードが書いてあって、


左が「神聖さ」、
右が「愛」でした。


驚きました。
私が『煩雑』と感じて自分を重ねたものが、『神聖』を表している。
それはつまり、この様々なものが一緒くたのこれこそが、
『神聖』ということなのかな、と。

きれいなだけじゃない。
相反する色もあって、澄んでない色もあって、
きっちり色ごとにスペースを分けているわけでもない。
そして、一目で個体と認識できるほどに、調和している。

これも、『神聖』だよ、と。

言われてしまえば、なるほどと納得してしまう図でした。
少し前の私なら(今の私も少し)、『混ざりきってなくて落ち着かない』と
思ったかもしれません。
でも、これでいいんだよというメッセージのように感じました。
どうやらこれも、私の課題のひとつのようです。
『ありのままの自分をまるっと受け入れる』って、とこですかね。
む~、精進、精進です。

ちなみに、もう一枚の『愛』の方を見ていたら、ピンクと緑が
対照色だったことを思い出しました。(素人の知識でうろ覚えですが)
対照の色であってもちゃんと調和しているし、柔らかい。
一色でも類似色でもないけど、温かいです。
これもまた、均一に混ざっているだけが愛じゃないんだよ、
ってことなのかもしれません。


それにしても、イラストとキーワードから何かを読み取るのは
初めてで、とても楽しかったです。
お話によると、この『梵字カラーセラピーカード』をお茶会に出すのは初めてとのこと。
そんな記念すべき第一回に出られるなんて、縁を感じました♪




ところで、なんと私、この初めてのお茶会で大幅に遅刻してしまいまして^^;

車はバッテリーあがって動かないわ、前日に買った服についていた
アクセサリーはなぜか切れてるわ、
なんで?というくらいトラブル続出で、行くなってことか、とは思ったのですが。
前日に占ったオラクルカードでも、警告らしいものはなかったので、
試練と捉えることにしました。

すると、
焦るあまりに駅の出口を間違えた私は、
たまたま停まっていたタクシーに乗り込み
「この地図の場所まで乗せてください」とお願いすると
「ここならすぐそこですよ」と道を教えてくれました。

商売としては、近場の運転など損失なのかもしれませんが、
私はその親切さに『導かれてるなぁ…』としみじみしたのでした。
その運転手さんに会わせてくれた縁にも、運転手さんにも感謝♪
(そして、寛容に待ってて下さったあおいさんにも感謝!)


初めての参加にも関わらず、皆さん快く迎えてくださって、
温かさをしみじみ感じました。
この縁に、心から感謝します。



「ありがとう、感謝します」「愛しています」
「あなたの行く先に、愛と光の加護がありますよう」
 これらの言葉を、このブログを読んでくださったあなたと、
私と縁のある皆さま、世界中の大人にも子どもにも、みなさんに捧げます。
雨崎こたろ