彼との衝撃的かつ変態的な出逢いと、愛に至る道のりを語っていきます。

 

これは彼との愛の物語


 2人と1頭の生活は快適この上なかった。食事も2人分で済むし6人分のニーズに合わせた献立も考えなくていい。犬嫌いの義両親に遠慮なくクッキーも好きな場所で過ごせる。
 何より彼が気軽に仕事帰りに寄ってくれるようになって、会える時間が増えた。彼のために腕によりをかけて作る楽しみが増えた。

 しかし人間とは欲深いもの。もっともっと、更に彼の全てが欲しくなる。彼と結婚…望まないわけではない。でも欲しいのは「妻」という肩書きではない。
 もっと一緒にいたい。このまま一緒に眠りたい。一緒に朝を迎えたい。日付が変わる前には彼を見送るとき、そんな思いが胸を締め付ける。
 妻よりも愛されている実感はある。でも家で待っている妻の影を気にせずに、もっと自由に会いたい。誰の目を憚ることなく一緒に歩きたいし、サッカーだってモトクロスだって一緒に行きたい。
 私は離婚して自由の身になったけれど、彼には家庭がある。どんなに冷たくあしらわれても、生涯守ると誓った妻がいる。
 もし彼が離婚するとなったら、慰謝料や養育費も支払うことになるだろうし、一人息子の親権も争うことになるだろう。どうしても子供は母親の味方をしがちだし、不倫の末の離婚となれば親権を取れる可能性は低いかもしれない。子煩悩で優しいパパにはそれは耐えられないだろうし、子供から母親を引き離したくもないだろう。
 そう考えると、妻と別れてほしいなんて言えない。言ったとしたも、彼を苦しめるだけ。彼を苦しめるくらいなら、私が一人で泣くほうがいい。
「Kの奥さんは歳上だもんね。私の方が長生きするから、妻の座が空くまで待ってるよ。80くらいまで生きればいいかな。長生きしなくちゃね」
「あっちが80なら俺86やん。俺が死んでるわ」
 なんて強がり言って笑いあって、彼を見送った後に枕を濡らす日々だった。

 そしてその頃何度か彼に連絡がつかないというトラブルが続いた。それは結局蓋を開けてみれば彼のスマホのバッテリーが切れたとか紛失したとか故障したとかそんな理由だったのだけれど。
 しかしその度に強烈な不安に襲われた。
 彼の身に何かあったのではないか?急病や事故にでも遭ったのではないか?もしそうだとしても私には知るすべもない。彼が自分で連絡できない状況なら、彼の安否が知らされるのは家族だけなのだから。
 万が一彼が急死したりしたら、私は最期の別れすらできずにただ不安に苛まれながら彼からの連絡を待ちつづけるしかない。

 ふと思う。
「もしかしたら、他の人を探した方が私は幸せになれるのかもしれない…」
 未来のない不倫なんてやめて、いつでも一緒にいていつまでも一緒にいられる誰かを探した方が幸せになれるかもしれない。
 しかしそう思うたびに彼との思い出が胸に浮かぶ。Yを追ったこと。ストーカージジイと闘ったこと。大雪の夜。いつだって彼の温もりに救われてきた。
 ちょっとヤンチャで口が悪くて、男臭くて優しくて…。何もかもが愛しい。
 それなのにいつだって私は彼を見送るばかり。この先だってどうなるかわからない。
 彼は妻とは別れない。いつか歳をとって仕事も引退したら、もう会いに来ないかもしれない。孫でもできて、好々爺になって私のことなんて忘れてしまうかもしれない。
 彼の最期を看取ることはおろか、知ることすらできないのだ。

 頭では理解している。この不安や悲しさは、持病である双極性障害の症状もあるのだと。
 それでも辛い。辛くてたまらない。
 それなのに彼のことが好きで愛しくて、別れるなんて考えられない。こんなにも苦しいのは彼を愛する故…。

 そんな想いを抱えたある日の夜。
「どうした?疲れてる?」
 私の顔を覗き込んで、彼が労るような優しい声で言う。いつだって彼は私の顔色を見て不調を察してくれる。
 途端に堪えていたものが溢れ出して涙になって零れ落ちた。大好きだから、大切だから、彼の幸せを願えばこそ辛い。
「Kなんかいなくなればいいのに!Kのことなんか嫌いになれたら楽になれるのに!そしたらKのことなんか忘れて違うひとと幸せになれるかもしれない…」
 泣きじゃくって切なさを、苦しみをぶちまける私の言葉を、彼は黙って聞いていた。そして俯いたまま静かに言った。
「もう限界なんやな。わかった。俺は消えるよ。俺は…忘れないよ」
 そしてそのまま部屋を出ていってしまう。
 違う。そうじゃない。別れたいわけじゃない。ただ苦しい胸の内を知ってほしかっただけなのに。いつかみたいに「嫌だ」って言って抱きしめて欲しかっただけなのに。
「嫌だ。行かないで」
 外まで出て彼の背に追いすがって泣く私に、彼は背を向けたままで呟くように言った。
「人に見られるから…」
 そしてそっと私の腕を離れて去って行ってしまった。

 その夜はLINEを送っても既読にすらならなかった。まさかこのまま別れになってしまうのか。不安で悲しくて、眠れない夜を明かした。
 やっと彼からLINEの返事があったのは翌日の夜だった。いつになく絵文字を一切使わない簡素な文字列。
「俺がいない方があっちが楽になれるなら、俺は消えるよ」
「俺のせいであっちが辛そうな姿は見てられない」
「あっちの幸せを願ってる」
 顔を見なくても、声を聞かなくても、なんだかわかってしまった。私以上に彼の方が落ち込んでいる。
 私が泣いてる場合じゃない。彼の心を、私が救わなきゃ!
「Kは何も悪くないの。別れたくなんかないよ。ただの八つ当たりなの」
 やっぱり泣きながらだけれど、LINEを送り続けた。
「ただいつかみたいに嫌だって言って欲しかっただけなの。Kともう会えないのかと思ったらこんなにも悲しいのに、別れられるわけないじゃない」
「八つ当たりだったの?」
 短い文字列の中に、ふと彼の安堵した様子が感じ取れた。
「ゴメンね。Kが精一杯私を大事にしてくれてるのはわかってるし、奥さんと別れられないのも承知で一緒にいるって決めたのは私なのに、酷いこと言ってごめん。最低だね」
 すぐにでも会いたくて、真夜中に彼の家まで車を飛ばした。寝静まった住宅地を離れて近くの農道に落ち着いて、改めて見る彼は憔悴した顔をしていた。
「ホッとした。ホントは会いたかったんだ」
 涙こそ見せないけれど、私の腕の中で小さく呟く彼はとても頼りなく見えた。
 前に私が双極性障害だと話したとき、彼はこう言っていた。身内にもそんなヤツいるから慣れてるよ。大丈夫、と。
「私は双極性障害持ってるから、時々酷い鬱になるの。時間が経てば治っちゃうんだから大丈夫なの。私よりKの方が打たれ弱いじゃないの」
 彼の頭を撫でながらやっと少し笑って冗談交じりに言う私に、彼は相変わらず車のシートに背を預けて目を閉じたままで言った。
「ダメなんだ。あっちだけは…。他のヤツなら平気だけど、あっちだけは泣いてるとこ見てられない」
 私がやっと泣き止んで、微笑んで彼の頬にキスをする。するとやっと彼も安心したように微笑んだ。
 そのまま車の中で抱き合って、いつものように狭い軽自動車のシートで重なり合った。

 やっと心穏やかになった帰り道。気がつけば心が軽くなっている。むしろ元気なくらいだ。
 彼を失うかもしれないと思ったら、悩んで泣いている場合じゃないと行動する力が湧いてきた。彼が傷ついて落ち込んでいると思ったら、私が彼を傷つけてどうするのだと、私が彼を守らなくてはと気持ちがシャキッとした。
 私が病的に落ち込んでいたはずなのに、予想外に彼の方がひどく落ち込んでしまったおかげで逆に気分が治ってしまった。
 まるでショック療法だな…と思った。




 



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