矢田山文庫

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写真とアート、歴史と物語、奈良と大阪、そして大和郡山、そんな風景を歩いて綴ったブログです




 徳さんが亡くなった時、すずさんが自分の右手の小指を切って、徳さんの棺の中へ納めたという話を、事務長から聞いたホームの老人たちは少し顔色を変えたが、それは本当のことかもしれないと思った。
 事務長の話では、すずさんは、きれいな袱紗に包んだ〈それ〉をそっと徳さんの遺体の脇に置いたあと
「あなたが世界で一番美しいと言ってくれた私の小指ですよ」
 と、言ったんだそうだ。

 徳さんの遺族は驚いてすずさんの包帯で巻かれた右手を見て、それから棺の中に置かれた袱紗の包みを見たが、棺の中から取り出そうとはしなかった。
 その代わりにすずさんの言葉も袱紗も気付かなかったふりをして、あわてて棺の蓋をしてしまったんだそうだ。

 徳さんの葬儀の後、すずさんはホームに帰ってこなかった。
 事務長は、認知症も冷え性も治ってしまったすずさんは、まるで娘に返ったように、秋色に染まった夕闇の街に消えてしまったと言ったが、すずさんがホームから退出したかどうかまでは言わなかった。
 たぶんそれまで老人ホームに入った認知症の年寄りが、また10歳も20歳も若返ってホームから出て行くことなど、ありえなかったからに違いない。
 
 すずさんが徳さんと出会った老人ホームは、駅前の商店街の一角にある7階建
てのマンションのような古い建物で、隣には老舗の和菓子屋があり、道幅4メー
トルの向かいには花屋とうどん屋とパチンコ屋が並び、商店街は買い物客と通勤
客でいつも賑わっていた。
 此処を訪れる人たちは、最初はこの老人ホームには不似合いの環境にとまどったが、不思議なことにここに入った老人たちは、皆元気になるのだった。
 たぶんそれは〈町〉のせいかもしれないが、それは、彼らに老人らしからぬ行動を起こさせることもあった。
 
 すずさんが徳さんに声を掛けられたのは入居して三日目のことだった。
 一人で夕食の席に座っていたすずさんの前に、いきなり徳さんが座るとこう言った「僕は明日入院します。目が悪いので目の手術をするのです。でも難しい手術だから失敗したら失明するかもしれません」
 すずさんは、驚いて持っていた箸を落としてしまった。
 すると徳さんは何でもないように箸を拾いあげるとすずさんの手に握らせて、ついでにすずさんの手を握りしめると、
「だから、一生の最後に世界で一番美しいものを見ておきたいんです」
 
 すずさんはその言葉を聞いて、からかわれていると思ったんだそうだ。
 すると徳さんは、少し怒ったようなすずさんの顔を見つめて
「僕が世界で一番美しいものと言ったのは、あなたの指です。それも右手の小指、僕はあなたが来られてから、なんて美しい指の人だろうと思っていました。だから、つい変なことを言ってしまったんです」

 次の日、本当に入院した徳さんは、その次の日失明することもなくホームに帰
ってきた。
 入院の日、心配そうに見送ったすずさんに、
「あの人の目は白内障よ。本当は日帰りでいいんだけど、徳さん暇だからね。無
理に頼んで一泊にして貰ったのよ。えっ、失明、今時白内障で失明する人なんか
いないでしょう」
 と、隣の部屋の住人が囁いた。

 でもすずさんは帰ってきた徳さんを見て本当に嬉しそうだった。
 まるで戦地から帰って来た恋人を迎えるように……、確かにその時、すずさんは恋をしていたんだと思う。
 そう、熟年の恋を――。
 
 それから毎日、一緒にお茶を飲んだり、肩を寄せ合って散歩をしたり、一緒に
商店街で買い物をする二人の姿が見られた。
 事件が起こったのは商店街が一年で一番活気付くクリスマスの日のことだ。
 その日、ホームでは一階のロビーで年末恒例の余興大会が開かれた。ホームの
老人たちが日頃クラブ活動で鍛えたカラオケや器楽演奏を披露するもので、地域
交流という趣旨で誰でも見物していいことになっている。
 当然老人たちは闘志を掻き立てられて、この日を目指して練習を重ねてきたのである。
 
 徳さんとすずさんは、カラオケでデュエット曲の「銀座の恋」を披露した。
すずさんの若々しい歌声と、徳さんの重厚な低音は快く重なり合い、ぴったりと寄り添って歌う二人の姿は、幸せな恋人そのものだった。
 異変が起きたのは、割れるような拍手の中で曲が終わったその時である。
 突然、客席の最前列に居た男性が二人に近寄ると、徳さんを押しのけてすずさ
んに近づき、すずさんの手をつかむと、連れ去ろうとしたのだ。
 すずさんは必死で男の手を振りほどくと、徳さんの後ろに隠れた。その時、老
人達は、「こんな男と歌なんか歌って」とか、「恥ずかしくないのか」という、短い言葉が男の口から発せられたような気がしたが、それよりも両手を広げて男の前に立ちはだかった徳さんの凛とした姿に見ほれて、誰もが余興の続きだと思ったのか、歌が終わった時よりも、さらに大きな拍手が沸いたのである。

 男は僕たちが近づくと、あきられたのか何も言わず玄関から立ち去った。
「あいつはすずさんの〈昔の男〉だよ。ほら、すずさんは何処となく垢抜けてい
て、普通の年寄りとは違うだろう。何でも若い頃花街の売れっ妓だったことがあ
ったそうだよ」
 騒ぎが無事に収まったのを見て安心した事務長が、訳知り顔で教えてくれたが
物静かなすずさんが花街に居たというのは、僕には信じられなかった。
 
 その前の日まで元気だった徳さんが突然亡くなったのは、梅の花が綻びかけた
春も近い日のことだった。
 珍しく朝食の席に出てこない徳さんのことを、すずさんが担当の僕に教えてくれた。
 僕が合鍵を使って部屋に入り、すでに冷たくなっていた徳さんを発見したのは他の老人たちが朝の連ドラを楽しんでいる時間だったが、すずさんだけは僕と一緒に徳さんの最後の関係者になってくれた。
 徳さんは持病の心臓病で、誰にも気付かれず一人静かに逝ったのである。
 
 徳さんの葬儀が終わっても、ホームに帰ってこないすずさんの処置に困った事
務長に言われて、すずさんの担当でもあった僕はすずさんに逢いに行くことにな
った。
 すずさんからの電話で、彼女が息子さんの家にいることは分かっていた。
 その日、すずさんの家で息子さんに挨拶された僕は、息子さんがクリスマスの
余興大会の日に見た〈昔の男〉だったことを知って驚いた。
「事務長がそう言ったの。私にまとわり付いて厄介をかける〈昔の男〉。確かにそうじゃないの。この子、成績は悪いし、身体は弱いし、本当に厄介かけさせられたんだから、事務長のいうことは当たっているわ」
 
 すずさんは、笑いながらそう言って、僕に右手を見せながら
「それと、これでしょう。貴方が驚いているのは――」
 すずさんの右手には、ちゃんと小指が付いていたのである。
 しかも驚くほど若くて、それに美しい。
  でもそれは動いてはいなかった。

「そうよ、これは動かないのよ。作り物だから。ほら義手ってあるでしょう。私
のは義指。もちろん生まれた時は本物の指があったわよ。どうして私が本物の小
指を無くしたのか教えてあげましょうか」
 と言うと、すずさんはその訳を話してくれた。
 それはまるで水木しげるの怪奇まんがのような、不思議な話だった。
 それはまだ戦争前ですずさんが花街の売れっ妓だった頃、すずさんには好きな
人が居たんだそうだ。
 ところがその人が戦争で出征することになった。

「私は神様にお祈りをしたの。この人を無事に帰して下さい。もし無事に帰って
来れたら、私の小指を神様に差し上げますって」
「どうして、小指なんですか?」
「武士道ね。日本の武士道、それに私は花街に居たでしょう。だからよ」

 その世にも不思議なことは、それから一年ほど経った或る日の夜に起きた。
「私は眠っている時に物凄い腕の痛みで目を覚ましたの。そしてすぐに右手の小
指が無くなっていることに気がついた。それから私はあの人が戦地で死にかかっ
ていること、でもその人の命は助かって無事に帰って来るということも――」

 やがて戦争が終わってすずさんは本当にその人が戦地で負傷して死にかけて
いたことを聞いた。
 すずさんはその人と無事に結婚した。その人は結婚指輪の代わりに、世界一のに頼んで彼女の義指を作ってくれたんだそうだ。
「じゃあ、徳さんが世界一美しいと言ったのは当たり前だったんですね。その指
は年を取らないんでしょう」
 と、その不思議な話の後で僕が言うと
「それは違うわね。だってあの時私は義指をつけていなかたのよ。徳さんは目が
悪かったでしょう。だからあの人はある筈の無い指を美しいと言ったのよ」
 と、涼しい顔ですずさんは答えた。 
 
 (了)