千代と仁、そしてALIの
いつ切れてもおかしくない細い糸でつながっていた擬似家族。
その細い糸の切れる瞬間を一番怯えていたのは千代だった。
私たちは、同居しているけれど、家族だけれど、ここに仁の籍はない。
もし仁に何かあったら私は仁の骨を抱くどころか葬式にすら行けないだろう。
そんな不安は
仁との同居が突然始まったあの日から、千代の心に深く渦巻くようになった。
「あなた、いつまでこうしてどっちつかずでいるの?」
ALIの中学3年の頃から千代は幾度となく仁に詰め寄るようになっていた。
ALIの中学から高校に進学するその節目までに何とかきちんとした形を取りたい。
石坂千代から水崎千代へと名の変わるその節目を
どうにか娘の入学に間に合わせたいという親心もあったのだろうか。
「もうこんな生殺しみたいな状態には耐えられないのよ!
もしあなたに何かあっても、私はお葬式にすら出れないのよ!
そんな惨めな私の気持ち、あなたはわかっているの!!」
抱かれるたび、千代は仁の胸をたたいて泣き叫んだ。
いつまでたっても進退のない、先の見えない不倫の関係。
そこにいくら愛があったとしても
千代ははっきりと目に見える形で仁の誠意を表して欲しかった。
「ずっと、私をこのまま惨めな愛人のままでいさせる気なんでしょう。
ひどいわよ!
あなたも雪枝さんもこんな状態でまだ夫婦なんて最低よ!!!
最低の夫婦だわ!!!」
本妻が泣き叫んだ時にはそれを無視して、愛人の家に逃げてきた仁。
それは雪枝を言いくるめるより
千代を言いくるめることの方が仁にとっては楽だったからだ。
あのまま雪枝を選んでいたら
死ぬまで一生頭の上がらない裏切り者の亭主
情けない父親のいう立場で暮らさなければならなかった。
じっと、冷静にどう復讐してやろうかと煮えたぎる雪枝の憎しみのまなざしより
愛であふれる涙で濡れた千代の瞳の方が仁は扱いやすかった。
「そうか、君は本当に僕を愛してくれているんだね。
会社に借金さえなかったら
雪枝も僕も離婚を選んでいるはずなのにね。
僕もいつまでもこのままじゃいけないって事はわかってるんだ。
どうしたら僕の気持ちを、信じてもらえるかな?」
そう言うと仁は便箋とペンを持って、「誓約書」を書き出した。
―――――私水崎仁は妻水崎雪枝と5年後までに離婚します。
その後すぐに石坂千代を正式に妻として入籍します。
娘ALIを自分の子と同様に愛し、父親として守ることを誓います。
もしこの約束が守れなかった場合
石坂千代の思う通りにすることを誓います。
平成※年※月※日 水崎 仁
そして仁は自分の親指を包丁で傷つけ、出てきた血で名前の横に拇印を押した。
仁のパフォーマンスはいつだって大げさだ。
千代の心を縛るためなら土下座することだって彼にとってはたいしたことじゃない。
そうやって作られた誓約書も、今に始まったことではなかった。
千代は涙を拭くと、その血の拇印でにじむ誓約書を丁寧に金庫へとしまった。
千代の金庫には
仁から贈られた数々のジュエリーのほか、二人で行った旅行の記念写真
仁の誓約書や、仁が掲載された雑誌や新聞の切り抜き
そんな物までがきちんと整列して並べられていた。
千代にとってその金庫は、二人の愛を封じ込めた魔法の箱だった。