本日12月14日と言えば”赤穂浪士”の討ち入りの日です。江戸時代には歌舞伎で上演されると庶民に大人気となったのだそうです。日本人は今も昔もこの物語が大好きなようです。

 

昭和の頃には12月になると良くテレビで【忠臣蔵】の古い映画などが放映されていたと思います。小学生の頃、NHKや民放のドラマでも最終回の討ち入りが放映されていた記憶が残っています。

 

 

 

【忠臣蔵】の主人公 ≪大石内蔵助≫ は、大正時代から昭和初期にかけて量産されていた磁器製の大衆人形の中でも現存数が多く、最も種類の多いモデルです。当時の人々にも大人気だったのでしょう。

 

当ブログではこれまで2回ほど、ちょうど今頃の季節になると【忠臣蔵】をご紹介しています。何しろ大衆人形の種類が多いので一度にご紹介できません。そこで造りのタイプ別にご紹介しています。

 

 

 

今年はその多くが瀬戸や名古屋で作られていたと思われる、底面に小指程度の穴がある仲間です。その穴を塞ぐように丸いシールが貼付された仲間から〖討ち入り〗の ≪大石内蔵助≫ をご紹介します。

 

この仲間は商業地域の人形店や玩具店で市販されていたようです。多くの人形の背面に刻印が見られ、【上】【サ】【昌】あたりは代表的でしょうか。

 

市販品のため売り上げ重視で、人気があり売れ行きの良かったと思われる同じ姿がいくつも作られたようです。メーカーが変わっても全く同じ姿もいれば、ポーズを変えた姿もいます。

 

それぞれのメーカーにほとんど同じ姿をした、何種類もの ≪大石内蔵助≫ が用意されています。その姿は〖討ち入り〗と〖一力茶屋〗の、2種類の場面がほとんどを占めています。

 

今回ご紹介する討ち入り姿には半纏に名前が筆書きされています。背面の刻印によってまちまちで、【大石良雄】【大石蔵之助】【大石由良之助】の3種類の名前が見られます。

 

 

 

市販品は庶民の人気が高いことが第一条件で、モデルがある程度決まっていました。どのメーカーも同じ人物を用意しています。≪大石内蔵助≫ ≪八重垣姫≫ ≪め組の喧嘩≫ などは代表的です。

 

その一方で、京都で作られていた重い磁器人形は射的人形なのでモデルに縛りがなく、多彩な戯作が見られます。歌舞伎ファンしか知らないようなモデルもいて、楽しさが倍増します。

 

 

 

それにしても原型を作って焼成して、一体一体丁寧に絵付けをした人形が射的人形になったり安価な市販商品だったと言うのは現在では考えられない贅沢です。販売価格は人形によってまちまちだったようですが、昭和初期の頃は7銭~10銭程度で昭和15年頃には18銭~25銭程度だったようです。

 

 

 

 

 

              同じ姿で背面の刻印が違う ≪大石内蔵助≫

 

原型のポーズはほぼ同じですが、絵付師が違うためか顔にはそれぞれ特徴があります。背面の刻印と併せて重量も変化していますので注記しています。水で溶かした素材の濃度によって違うのでしょうが、何度も繰り返して作っていた様子が窺えます。それだけ人気だったのでしょう。

 

 

 

 

                【A】の刻印

 

良く売れたようで、背面【A】の刻印では全く同じ姿で重量の違う人形がいくつも存在します。ここでは4体をご紹介します。衣装や顔の絵付けにはそれぞれ違いが見られます。

 

 

    背面【A】の刻印  高さ 15センチ  重量  95グラム

 

袴の部分に赤色絵の具で汚しが見られます。これは騒乱による流血を表現しているのでしょうか?。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    背面【A】の刻印  高さ 15センチ  重量  100グラム

 

   顔の部分は磁器素材の白地ですが、頬の部分にはうっすらと肌色がはたかれています。

 

 

 

 

 

同じ重量で絵付けの違う姿です。半纏の文字も違いがあり、絵付師が代わっていると分かります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   背面【A】の刻印  高さ 13.5センチ  重量  120グラム

 

サイズは小さいのですが、重量は一連の仲間の中では最も重く120グラムもあります。素材も厚くてずっしりとした高級感のある姿です。

 

 

私には、崩し字が読めない文字もありますが【A】の刻印では名前が4体とも【大石良雄】と書かれているようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                【サ】の刻印

 

背面【サ】の刻印でも全く同じ姿が見られます。一連の仲間の中では最も大きなサイズです。しかし重量は最も軽く、高さがあるので素材はかなり薄く作られている事が分かります。

 

    背面【サ】の刻印  高さ 15.3センチ  重量  75グラム

 

 

            名前は【大石蔵之助】と書かれていると思います。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                【上】の刻印

 

背面に【上】の刻印が見られる姿です。【上】と【サ】では良く同じモデルが共通していますが、ほとんどの場合【上】が小さなサイズをしていて、こちらもひと回り小さなサイズで作られています。

重量は80グラムと軽いのですが、サイズが小さいので素材の薄さは感じません。

 

    背面【上】の刻印  高さ 13.5センチ  重量  80グラム

 

 

          読めませんが多分【大石良雄】と書かれていると思います。

 

 

 

 

 

【A】【サ】の刻印によるサイズの違いを比較してみました。【上】は小さな【A】と同じようなサイズなので並べていません。

 

           【A】     【A】      【サ】

 

 

ペイントロスや汚れの無い姿を揃えました。状態が良いのでそんなに古く見えませんが、作られていたのは80年~90年ほど前の事です。

 

そして絵の具は水で色落ちしますので洗う事もできません。≪大石内蔵助≫ は当時の人気モデルだったのでたくさん売れたようで、現在でも数多く残されています。数が多いので今も奇麗な姿が見られますが、多くは汚れや色落ちした姿が目立ちます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

造りが細かくて丁寧な姿も見られます。右手にはバチではなく采配を持った姿です。背面に刻印は見られません。全く格好をした、京都で作られていた射的人形が見られます。半纏には本名ではなく

《大石由良之助》とあり、歌舞伎題材だと分かります。

 

    背面刻印なし  高さ 14.3センチ  重量  75グラム

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また違う姿には、背面に【H】の刻印も見られます。刻印のない姿にもよく似た ≪大石内蔵助≫ が見られますので、4体を並べます。

 

   背面【H】の刻印 底面【H】のシール  高さ 15.1センチ 

 

  

                高さ 15.1センチ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

           背面 刻印なし  高さ 15.2センチ

 

彩色や形はよく似ていますが、こちらはエラの張った顔をしています。原形は違う事が分かります。

 

                 高さ 15.2センチ

 

 

 

 

 

両者とも面長で2体は同じ原型のようです。彩色違いを並べました。背面に【H】の刻印のある姿と

よく似ていますが、違いはこちらの方が面長だと言う事だけです。

 

 

                 高さ 15.2センチ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                 戦時中 【土人形】

 

昭和15年頃には物資不足により、磁器製の大衆人形は陶器製(土人形)に変更されてしまいます。燃料が軍部優先になりますので陶磁器会社では不足して、高温で焼成できなくなっていたのではないかと思われます。また、戦争による物価の高騰も考えられるでしょうか。

 

軍人人形や少女など、戦時中軍部から許可されていた大衆人形にいくつか見られ、≪大石内蔵助≫ の討ち入り姿でも作られています。土人形になった大衆人形は、磁器人形の時代と比べるとどの人形も軽くてかなりみすぼらしい姿になりました。

 

磁器人形では顔などの白地部分が磁器素材の白色のままですが、土人形では下地が胡粉などで白塗りされています。これは土人形は絵の具が浸みこむ事で色がくすんでしまうためだと思います。土人形の素材が茶褐色な事も関係しているでしょうか。

 

                高さ 14センチ前後

 

 

 

 

 

 

 

 

半纏に名前が書かれています。楷書や行書程度なら読めますが、草書体が多くて判読に苦労します。それは筆書きが見られるほかの大衆人形でも同じ事が言えます。

 

楷書体はほぼ現在と同じだし、行書体はそれを崩した文字です。しかし草書体になると、そもそも

漢字の形態が変わってしまいます。見た事のない形になっているので読めないのです。

 

歌舞伎の人物名は想像で見当が付きます。しかしその他の大衆人形にも、どうも戯作名や演目の場面とか場所などが書かれているようなのですが、草書体が多くてまず読めません。

 

大衆人形の製造に携わった人たちはいずれも明治生まれだったでしょう。当時の人はまだ毛筆が一般的で、草書体をよく知っていて普通に書いていた事が分かります。

 

 

 

 

同じような討ち入り姿は博多人形や京人形などの、高価そうな陶器人形(土人形)にも多く見られますが、今回は割愛して大衆人形に限定しています。