数年前、【黒い煙と白い河】を読みました。10代の中頃から戦前の大衆人形や射的人形など、戦前の陶磁器人形に強い興味を持っていましたので、どうしても読んでみたい書籍でした。

 

陶磁器の町(瀬戸)で、輸出用フィギュリンの最高峰と言われた【丸山陶器】の初代社長【山城柳平】氏の伝記です。

 

その本の中から陶磁器人形について、以前ヤフーブログでご紹介していましたが、ヤフーブログが無くなってしまいましたので、今回加筆修正して改めてご紹介しようと思います。

 
出版は昭和34年(1959年)と古いのですが、山城柳平氏が明治、大正、昭和初期の輸出人形に携わっていますので色々と勉強させていただきました。その中から特に私が興味を持った事柄を、私の所持する当時の人形とともに、ごく簡単にご紹介します。
 
時代に合わせて3回に分けてご紹介する予定です。今回はその第一回、明治期を覗いてみたいと思います。本には書かれていない、私が知る他の資料からの情報も併せて掲載し、資料としての体裁を整えています。

 

 
 
 
 
山城柳平氏は明治19年(1886年)に山梨で生誕、明治33年(1900年)、14歳の時に瀬戸に向かい、丸カ商店に奉公します。まだ、富士と甲府を結ぶ《富士身延鉄道=現在の身延線》開通前で、急流富士川を下る渡し船で東海道まで出ます。東海道線で名古屋へ向かい、そこからは馬車旅だったようです。
 
 
ここで当時の瀬戸の産業構造を簡単に書いておきます。瀬戸では卸問屋が現金を持っていて力が大きかったようで、焼成窯は別に独立していましたが、窯ヤと呼ばれ問屋の子飼い、手飼いだったようです。問屋が職人の賃金から燃料費まで面倒見ていたそうです。販売で現金収入を得て切り盛りしていたのでしょう。
 
丸カ商店もそんな問屋の一つで、山城氏は社長のお供で重い見本を担ぎ、北海道から九州まで営業周りをしていたと言う事です。
 
 
当時の瀬戸の陶磁器と言えば器、食器が本流で、玩具人形などは一段下の仕事として見られていました。丸カ商店の社長も同じ考えを持っていて、食器以外の玩具類を見下していました。玩具人形として本書には、射的人形や招き猫、這い猫、福助のほか稲荷用狐が作られていたと記載されています。
 
 
 
 
中でも招き猫は、明治時代から細々と作られていたようですが、大正から昭和初期の頃には全国で大ブームになり、瀬戸を代表するような磁器玩具の一つとして大量に出荷されていたようです。
(別の資料ですが、昭和初期の頃には最大月に8万個を出荷していたとありました。)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                    瀬戸の浮き玩具        
明治36年(1903年)、薬局を営む町の発明家【加藤佐太郎】が陶器の浮き物玩具を発明します。そして明治37年(1904年)に【伊藤金次郎】が金魚の浮き物玩具を造り始めます。
 
のちにこれは大評判となり、瀬戸の町を潤したようです。これにより【伊藤金次郎】は、その名前から【金魚金】と呼ばれたそうです。
 
       鯉や金魚のほか、水鳥、亀など、さまざまな種類が作られたようです。
 
 
 
 
《山城柳平》氏の頭の中には全国の銭湯に子供の玩具として、この金魚がぷかぷかと浮いている姿を思い描いていたと言う事です。
 
 
 
後の話になりますが、独立した山城氏の店一店舗だけで、月に1万個を出荷していたとあります。
子供たちのブームは盛んで、大正4年(1915年)頃まで製造されていたようです。
 
 
 
 
 
 
 
 
                     磁器玩具
 
食器造りに強い矜持を持ち、玩具人形に対して一段下に見ていた丸カ商店の社長でしたが、山城柳平氏が「玩具は売れる!」と社長を説得し、金魚の浮き玩具や射的人形などを取り扱うようになります。そうして丸カ商店は大きく発展します。
 
 
明治38年ごろには、丸カ商店で作られた玩具人形が全国に広がるようです。その辺りは詳しく書かれていませんが、もしかすると水滴のような磁器玩具人形の仲間の事なのかもしれません。
明治、大正期の膨大な種類の磁器玩具の中では、良く知られた姿の一つとして【這子(ほうこ)】があげられます。
 
 
 
 
 
   達磨や狛犬も、招き猫や福助などと並んで縁起物の磁器玩具として代表的な仲間です。
 
 
 
          このほかにも童子や少女など膨大な種類が見られます。
 
本には =明治38年ごろ、丸カ商店の玩具人形が全国に広がる= と、一行しか記載がなく詳しいことは分かりませんが、当時全国に展開するほどの量の瀬戸の磁器玩具と言うと、この仲間、種類あたりしか思い浮かびません。もちろん、初期の頃に最も大量に出荷されたのは【金魚の浮き玩具】だった事でしょう。
 
これらの磁器玩具人形は、これは他の資料からですが、京都にも出荷していた事が分かっています。京都五条坂に軒を連ねていた数多くの人形店の中の一軒でも、大正時代に瀬戸から仕入れていた事が書かれていました。その人形店の当時の在庫写真がありましたが、写真はまさしくこの磁器玩具の仲間と同じです。
 
 
 
 
 
 
               インド人形 (輸出用玩具人形)
 
瀬戸では、明治38年(1905年)、当時の支那、インドに向けて玩具人形の輸出が始まります。
支那には水差し人形、インドにはインド神、仏像、叙事詩や歴史上の人物がモデルとなっています。これはインド人形と呼ばれています。瀬戸の輸出産業の始祖と言えるでしょう。本には以下のように書かれています。

 

≪人形とは言うものの、現在の高級人形からみれば、陶器のかたまりみたいなもので、僅かに凹凸がつき、  その上を金仕上げをして顔や手足を判別すると言った代物である。≫

 

ポン割と呼ばれる前後の型を合わせただけの簡単な人形で、まるで粗雑な造りの代名詞のようです。

 

 
輸出用に作られたインド人形ですが、一部は国内の射的人形としても出荷されたようです。現在国内で頻繁に見られるものは、背面に輸出用と同じ【MADE IN JAPAN】の刻印が刻まれたり、底面に【MADE IN JAPAN】の印字が見られますが、それらは1920年代ごろの射的人形なのだと思います。私の手元には、国名の刻印の他に扇のマークの刻印が多くみられます。
 
インド人形には、基本的に三種類の製造法が見られるようです。●色絵の磁器人形。●ラスター彩の磁器人形。●白磁に後彩色の磁器人形。これら三種類です。
 
                   インド向け輸出用
 
 
 
 

                    色絵磁器人形

 

      造りは違いますが、初期のインド人形と全く同じポーズを取った女性です。
                 背面に【JAPAN】 の押刻

 
背面に【JAPAN】の刻印が見られます。刻印から、作られたのは少なくとも1921年以降なのだと分かります。初期の頃と全く同じポーズなので、長期間繰り返し造られていたことが伺えます。
 
 
 
 
 

 

 

                  ラスター彩の磁器人形

 

          インドの叙事詩ラーマーヤナに登場するシーター姫です。
つやつやと輝くラスター彩です。インド人形には、他にも象などのラスター彩が結構数多く見られます。背面に刻印はありません。底面に黒で【MADE IN JAPAN】 の印字があります。
 
 
 
 
 
 
 
                 白磁に後彩色の磁器人形
 
インドとは関係なさそうですが、こちらもインド人形です。背面に【JAPAN】の刻印が見られます。サイズが色々と揃っていて、背面に扇のマークの刻印のあるものもあります。
背面に【JAPAN】の刻印が見られ輸出品と同じですが、こちらは国内に出荷されたと思います。自立しますがかなり不安定です。射的人形と言うより、子供向けに市販された(ままごと人形)なのだと思います。
 
 
 
 

          インドの聖典【リグヴェーダ】から、 サラスワティー

 

インドの最も古い聖典、【リグヴェーダ】に出てくる学問と芸術の神様です。サラスワティー川の化身です。手が4本で孔雀に乗った姿をしていますが、日本に入ってくると弁財天に変化します。背面に【JAPAN】と、扇のマークが押刻されています。

 
 
 
 
 
 
 
はっきり書かれていませんが、支那やインド向けの輸出人形の期間は、昭和初期、大恐慌のあたりまでなのかもしれません。昭和4年(1929年)の世界恐慌による世界的な不景気でアメリカの輸出が低迷し、インド、支那へ輸出を求めたが振るわず、見限ったかのような文面が見られます。
 
この頃インド、支那の経済状況は明治期と変わりませんが、瀬戸では人件費、物価も変化していて輸出が引き合わなかったようです。それでも国内向けの射的人形、ままごと人形として製造は続いていたのでしょう。
 
因みに、食器に強い矜持を持つ丸カ商店の社長も、明治末ころにはインド人形を焼かせていたようです。まだ丸カ商店に勤めていた山城柳平氏が、初めて輸出事業に携わったのがこのインド人形の輸出だったそうです。
 
さて、こうして明治時代は過ぎ、時代は大正へ向かいます。山城氏にとって大正時代は、なかなか激動の時代と言えそうですが、その辺りの話しは次回と致します。
 
                     つづく