身延線富士宮駅前に生まれた私は、20歳の頃撮り鉄にはまりました。殊に旧型国電に興味を示したのです。学生時代の事で、東京近郊の旧型国電のほか、地元身延線の車両も撮影しました。
富士宮駅からスクーターで隣の駅、源道寺まで行き、そこから農道をフラフラと走りながら撮影場所を探しました。その一帯は田畑の広がる、実にのどかな地域だったのです。今から40年前の事です。源道寺駅のすぐ近くに刈り取りが済み、人気のない静かでのどかな場所を探し出しました。
30年ほど前にこの辺りは宅地開発が進み、田んぼは全て姿を消して今では広大な住宅地となっています。現在では、撮影当時の面影は全く無くなりました。
身延線と言えば、旧型国電のメッカとして飯田線と並ぶ知名度の高い路線でした。一方で頻繁に臨時列車の走る場所でもありました。
それは創価学会の臨時列車です。富士宮に総本山《大石寺》がありましたのでほぼ毎日見られたのです。週末など2~3本見られました。東京など、他の地域から直通で身延線に入っていました。
その殆どは113系と電気機関車の曳く客車の2種類でした。そして1991年に創価学会と大石寺が決裂したのでその姿が見られなくなりました。大石寺が創価学会を破門したため、学会員による大石寺への参詣が無くなったのです。
これは当時、駅長さんと親しい人から聞いた話ですが…、身延線の収益が安定していたのは富士=富士宮間だけで、他の区間は赤字だったそうです。ただ、創価学会の臨時列車のおかげで身延線全体の収益が黒字になっていたと聞いていました。この臨時列車の終了は身延線には打撃だったでしょう。
身延線臨時電車《創価学会》
凡て 源道寺駅付近 凡て 昭和53年11月
富士宮へ向かう先頭車両 →
113系
富士方面から創価学会の団体客を載せて富士宮へ向かうところです。これは線路の北側から撮影しました。手前が富士宮方面です。正面のライトはシールドビームで小さいですね。
← 富士宮へ向かう最後尾
113系
富士宮駅に向かう最後尾の車両です。電車が通過するとすぐに線路を渡り南側へ移動して、同じ電車の最後尾を写しました。因みに右に見える塔は、富士宮消防署の火の見櫓です。この後10年ほどで取り壊されてしまい今はありません。
正面のライトが大きく、これはデカ目と呼ばれるのでしょうか。同じ編成の先頭と最後尾で、時代の違う二種類の113系が連結されています。
富士へ向かう先頭車両 →
EF60の牽引する客車です。こちらも創価学会の臨時列車です。甲府方面から富士宮へやってきたのでしょう。富士宮で乗客を降ろした後、空の状態か、それとも別の学会員を乗せているのか不明ですが、富士方面に向かっています。この日は、3時間ほどの間に2本の臨時車両がやってきました。
最後に急行電車を御紹介します。下手な写真ですが、今では見られない田園風景が広がっています。
急行《富士川》
富士へ向かう先頭車両 →
165系
当時、急行電車は日に4往復していたと記憶しています。私には殆ど利用価値がありませんので詳しく知りません。80系はすでに引退していましたので、165系が運行していたと思います。
雲がなければ正面に富士山があります。しかし毎日目の前にある富士山は、私にはあまりにも当たり前すぎて一緒に写すことを考えもしませんでした。今思うと残念です。
急行”富士川”と言えば初めは80系の準急でした。富士宮駅のすぐ西側に引き込み線があり、4両編成の80系が昭和48年頃から昭和54年頃にかけて2編成置かれていました。
これは165系に置き変わる前の”富士川”号なのだと思います。急行電車と言う事でご紹介します。
私は80系の顔が大好きなので、この画像は何度もご紹介しています。
昭和53年 撮影
左の113系は創価学会の臨時電車なのだと思います。
大好きな80系との記念写真です。
この場所は富士宮駅のすぐ横にあった引き込み線です。大体113系の臨時電車が停車していました。画面左側が南なのですが、川もあって原っぱが広がっていました。小学生の頃、早朝学校へ行く前に自転車を走らせ、ひとりで良く泥鰌を捕っていました。
最近は開発が進んでコンクリートで整備されています。また現在ではこのあたりの身延線は高架化されていて、この場所は広いアスファルトの駐車場になっています。