去る11月15日は坂本龍馬の150年目の命日であり、182年目の誕生日であった。
龍馬の場合、天保6年11月15日生まれ、慶応3年11月15日没。

毎年、龍馬の命日には、私は京都へ行き、龍馬祭や龍馬ゆかりの地を訪れていた。ところが、今年は当日、胃痙攣を起こし、午前中いっぱい気を失っていた。
なので、今年は何年ぶりかに何にも参加できずに、龍馬の命日を過ごしてしまった。


ちなみに、誕生日と命日が同じ著名人は以外と数多くいるが、加藤清正は少し意外だった。彼の場合は永禄6年6月24日生まれ、慶長16年6月24日没。


近年では、イングリッド・バーグマンが1915年8月29日生まれ、1982年8月29日没である。


(☝関係ないけど、バーグマンと
        同じポーズでどちらも美しい
        ので)

先日、龍馬暗殺に関わる新しい資料が発見されたということで、NHKでドキュメントドラマを新井にいさんが主役でオンエアされていた。
それによると、龍馬の手紙に「(新国家の)⚪⚪⚪を盟主になりて………」と書いている。
NHKのドラマでは、龍馬は詐欺まがいに、各人、各藩に1番喜ばしい都合の良い名を⚪⚪⚪に入れて、それぞれが良い気分で新国家を築けるようにもっていこうとした、というような、かなり大胆な仮説を立てていた。


私の知る龍馬は、主に司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』の龍馬であるが、それには、龍馬が新国家体制の人事に、自分の名前を入れてなかったこと、そして、何より要職の欄に「⚪⚪公」と有ったことから、薩摩が⚪⚪を(徳川)慶喜ではないかと危惧し、これはいけないと、龍馬暗殺に踏み切ったのではないかと、推察している。
ご存じのように、薩摩は徳川を徹底的に排除して、薩長で新国家の主導権を握ろうと目論んでいたので、今更、慶喜に要職に居座られては都合が悪かった。
それに、武力で徳川幕府派を徹底的に排除したかった薩摩にとって、あくまでも武力闘争なしで平和裏に新国家を築くことを理想としていた龍馬の考えが意に沿わなかった、と言うか、邪魔なものに思えたのではないかと、私は考えている。
なので、龍馬暗殺の黒幕は薩摩だと、もしかしたら西郷ではないかとさえ思っている。


言っておくが、私のルーツは薩摩である。
私のおじいさんのおじいさん、高祖父と言うそうだか、その人は西郷と共に西南戦争を戦い、西郷の最期に、一緒に自死することを望んだが、自分たちの真実を広く後世に伝える役を担って欲しいと言われ、共に死ぬことを許されなかった人だとか。

そんな私でも、黒幕は薩摩だと思うのは、やはり動機と人脈と権力が薩摩に有ったからである。


きっと龍馬が生き延びていたならば、鳥羽・伏見の戦いも、凄惨を極めた会津戦争も、五稜郭の戦いも無かった。あんなに多くの血は流れなかったに違いない。
龍馬と雖も、たった一人で何が出来ると思われるかもしれない。だが、彼には素晴らしい頭の回転と先見性と人脈が有った。
これだけ有れば、無血での新国家の建設も可能だったのではないだろうか。
現に、龍馬の師・勝海舟は、西郷が首を縦に降らなかった時は、江戸の庶民を船に乗せ避難させ、自ら江戸の町に火をかけるという、まさに背水の陣で、西郷との会談に臨み、江戸城の無血開城を実現したではないか。しかも、慶喜の命も救って❗
一人の決意と勇気があるならば、世の中は変えていける-その証拠である。


だから、私は返すがえすも思うのだ、龍馬が生きていたならば、と。
明治維新で流血していなければ、また、薩長が徹底的に徳川に連なる者を排除していなければ、その後の新政府もあれほど歪なものではなかっただろうし、日本が辿った道ももっと違っていたはずである。
極論ながら、私は第二次世界大戦での沖縄戦も、本土空襲も、広島・長崎の原爆投下も無かったかもしれないとさえ考えている。

結局、明治維新の時、武力によって勝ちを得たため、新政府は何事も力で、武力で解決出来る、また、国を拡大していけると思い違いをしてしまったのだと思う。

あれだけ血が流れた幕末の、たった一人の死ではあるが、やはり坂本龍馬の死は、後々の世に大きな影響を与えてしまった大きな負の出来事だったと言えるのではないだろうか。

しかし、龍馬でなくても、一人の決意と勇気で世界を大転換させることは出来る。
それは、特別な人間でなくても、一人一人の志が合わされば可能なことでもある。

さあ、おじ恐れず、正しいことは正しいと、間違っていることは間違っていると、正々堂々と、まず自らが積極的に主張しようではないか❗


しかし、来年、大河ドラマ『西郷どん』を見て、私の認識がいかに変わるかも楽しみである。