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一刀斎の師とされている鐘捲自斎通家は(当て字として外他・戸田・外田)一刀斎(かねまきじさいみちいえ)と名前をいろいろ変えていたようです。


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この写真は北条家臣であった高弟古藤田勘解由左衛門 (ことうだかげゆざえもん)に伊藤一刀斎が与えた、印伝の書の一部ですが書の署名には外他一刀斎と記しております点が同一人物という可能性があります。

もともとが伊藤弥左衛門友家の子であり氏を伊藤とし一刀斎と祖父の伊藤入道景親の景をとり伊藤一刀斎景久と晩年に使っていたと推測できます。


今日はここまで・・・

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また、この小説を書き上げたのが2003年です。資料収集で3年かかりました。

この伊藤一刀斎を調べれば調べるほど、ある人物と同一人物であることがわりました。

今後は、この一刀斎の真実を、お話ししていくつもりですので、お楽しみ・・・

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黒田 直邦 (くろだ なおくに)

寛文6年12月27日(1667年1月21日)―享保20年3月26日(1735年4月18日)

常陸下館藩主。上野沼田藩の初代藩主。久留里藩黒田家初代。


旗本・中山直張の三男。母は黒田用綱の娘。正室は柳沢吉保の養女(折井正利の娘)。子に黒田直亨(次男)、娘(奥平松平忠暁正室)、娘(黒田直基正室のち黒田直純正室)、娘(九鬼隆寛正室)、娘(内藤政醇正室)らがいる。

養子は黒田直基、黒田直純。


官位は従五位下、従四位下、豊前守、侍従。墓は、埼玉県飯能市多峯主山(とうのすやま)。

寛文6年(1666)12月27日生まれ。幼名は三五郎。初名は直重。後に直邦。


外祖父・黒田用綱の養子となり、延宝8年(1680)徳川徳松の側近として仕えた。

徳松早世後、小納戸役や小姓を歴任。元禄9年(1696)には7000石に加増され、

元禄13年(1700)1万石を領して大名に列する。元禄16年(1703)に常陸下館に封ぜられ、享保8年(1723)には奏者番、寺社奉行を兼任する。


享保17年(1732)3月、下館から沼田に移封され、同年に武蔵国内で5000石を加増された。

「学を好み、欲のない人となりの良い人」 というように、名君として賞賛された。

享保20年(1735)3月26日、江戸で死去し、後を養嗣子の直純が継いだ。


この黒田直邦の墓は、多峰主山頂の近くにあって、葬った地点に石を置き石柵を設けその前に墓碑を建て、墓前右手に太宰純(春台)の撰ならびに書なる頌徳碑があります。

黒田直邦は、丹党中山氏からのでで、外祖父黒田直相に養われてその氏を弥しました。


墓銘に 「丹治直人」 と丹党の性が記されています。

若いころ5代将軍綱吉に仕え30人扶持を拝したのが仕官のはじめでした。

それから8代将軍吉宗まで、4代50余年も歴任して信任が厚く、ついに侍従となり老中にまでなって、上州沼田城3万石の大名になりました。


なお、黒田氏は二代直純のとき、上総久留里城主に転じ、飯能地方の領主に変わりなく明治維新に及んだ。黒田氏歴世の墓は能仁寺墓地にある。


飯能地方を領したのは宝永4年(1707)以後で、黒田直邦の祖先中山家勝の建てた能仁寺を中興し、寺領50石の大寺としました。


  子の刻九ツ(午前零時)、やっとのおもいで田京に入り三嶋方面へ進むと左
手に神社の石燈籠(いしどうろう)が灯火をつけ、風趣(ふうしゅ)を添えている。
弥五郎はここで一泊出来ると安堵(あんど)した。


(さぁーねぐらを探して、明日は日の出前に出立しないと)

 何かに導かれているように鳥居をくぐり参道を抜けて奥へと勝手に足が進んでいた。


弥五郎は大きな神社をみるのは生まれて初めてのこと。
 暗がりの中を進んでくると大きな池である月が照りかえり天と池の境目をなくして映し出されている。


その水面下に金色の鯉や紅色の鯉、白色の鯉が見える。

 弥五郎は社殿の前に置かれた賽銭箱(さいせんばこ)に背をもたれ胡坐(あぐら)をかいて座り込んだ。


目を閉じ大きく息を吐いて一回二回頭を上下した。並外れた体力をもった十四歳だが宇佐美から一度も休まずきたことで一気に疲れが出てしまったのだろう。そのまま心地よい眠りに入っていった。


 この神社は廣瀬神社といって、延喜式内社(えんぎしきないしゃ)であり、神階帳(しんかいちょう)従(じゅ)一位(いちい)広瀬の明神といわれました。祭神は、溝(みぞくい)姫(ひめの)命(みこと)、外二神、田方一の大社で、かつては田地八町八反の御朱印(ごしゅいん)を頂く所であったといいます。


天正十八年(一五九一)、豊臣軍による韮山(にらやま)城(しろ)攻めの頃、兵火(へいか)に遭(あ)っており、社殿(しゃでん)ことごとく焼失(しょうしつ)しています。慶長元年(一五九六)に再建、江戸時代には深沢(ふかざわ)明神(みょうじん)として崇敬(すうけい)されていた。



 卯の刻明六ツ(午前六時)、おおきな木々が深呼吸をして何ともいえない良
い香りを漂わせ、あたり一面に靄(もや)と化している。弥五郎は頭を垂(たら)したまま、まだ眠っているようである。池の方角から誰かがこちらに近づいてくる気配(けはい)。


 パッと目を開け、椿の枝を右手に握りしめる。胡坐(あぐら)をといたその場から三
尺ほど飛び上がり賽銭箱(さいせんばこ)の上に仁王立(におうだち)した。靄(もや)の中に真白な影。音もたてずに近づいてくる。視界が開けてはっきりとしてきた。



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 さて、その弥五郎は・・・

 宇佐美の浜にある大きな蘇鉄(そてつ)の下で椿の枝を抱え込み眠っている。

 村の漁民であろうか、通りすがった三人の男たちに見られたようだ。

「あれは鬼か?・・・いや、夜叉(やしゃ)、鬼夜叉(おにやしゃ)だ。鬼夜叉がいるでよー、みんな集まってくれやー」

 確かに異様な風貌(ふうぼう)だが、大島でも、弥五郎をみて鬼夜叉(おにやしゃ)と呼んでいた。


 三間(五㍍四六㌢)ほど離れて弥五郎を囲むように手には斧(おの)や櫂(かい)、刀(かたな)まで持って十人ほどが集まってきた。


 何か、この世のものではない妖怪をみているように、恐々覗きこんでいるが、途轍(とてつ)もない殺気を放っていて誰一人として近寄れないでいる。


 暫くすると後ろの方から男たちを掻き分(かきわけ)て小柄で三十歳前後の男が、何の躊躇(ちゅうちょ)もなく平然と弥五郎に近づいてきた。


「おめえ人だら・・・どこからきた」

 弥五郎はこの男を睨(にら)みつけ、

「大島だ」

 男の耳元に口を近づけ、大きな声で、

「腹が減っている・・何か食わせろ」

 一瞬、静まり返り、弥五郎が人だと理解したのである。異様な緊張感が解

け、伊東の人々の心を和ませたのであろう。大勢の笑い声に変った。人のよさそうなこの男は網元の倅(せがれ)で名は鯛(たい)(すけ)といって、今は一人暮らしをしている。


弥五郎の肩をポンと叩いて、

「まあ、ついてきてちょうよ」

 半里ほど離れた手作りの掘立小屋(ほったてごや)に連れてきた。


中に入るとすぐに屋根裏を覗(のぞ)き込んでいる鯛助。しばらくして、干してあったのか、鯵(あじ)のひらきを六尾ほど引っ張り出してきた。

その中から一番大きなひらきを選んでしばらく揉んでいた。

どんぶりに茹がいた南瓜(かぼちゃ)を入れ、その上に柔らかくなった大きな鯵のひらきをのせ、茣蓙(ござ)で敷きつめたところに弥五郎を座らせた。置いた

箸には目を向けず、すさまじい食べ方に鯛助は口をポカッと開けたままである。食べ尽くすに時間はかからなかった。

腹に収まったようで、子供のあどけなさを覗かせた。

鯛助の口がひらいた。

「おめえ、歳は」

「十四」

「名は」

「前原だ」

 ぶっきら棒である。

「これからどこさ行くでよ」

「三嶋だ」

 何を考えたのか弥五郎は己のおもいを鯛助にぶつけた。

「おれは天下一の剣豪になりてぇ」

「そうけ・・・ちょっと待っているだよ」

 聞いているのかいないのか、部屋の片隅にある風呂敷包みを解き中から古

びた着物を持ってきた。

「これやるでよ、着ていってかっしゃ」

 弥五郎は無言で受け取り袖を通してみた。見事に小さい。袖は五分ほどで

丈は膝あたり。


 感謝の気持はあるが、それを態度で示すことはできない。おれは武士の子

と脳裏(のうり)を過ぎった。幼い頃より他人から物を貰うことなど、一度たりともなかったからだ。


 干してあった手ぬぐいをさっと取り鯵のひらき三枚を包み込んで弥五郎に

手渡した。


「これもってかっしぇ」

 小雨降る中、鯛助は弥五郎を山道の入り口のところまで案内し、「さあいくずら、この道さ真直ぐいくでよ、天下一の剣豪になるだよ」


 やはり聞いていた。

 人の温かさにはじめて触れ、弥五郎は三嶋に向かって山道を駆け出した。




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一つは近江石部城の攻略があり、長年にわたって信長に抵抗してきた六角承禎・義治父子も遂に本国を追われるに至り、羽柴秀吉による今浜城の普請、長浜への改称と合わせて近江一国の支配固めが進んでいた。また、山城でも将軍足利義昭追放後に帰服した三淵藤英の伏見城を廃城とし、細川昭元も槙島城から本能寺に移してしまい塙直政を山城守護に任じて、その槙島城に入れている。


しかし、正月以来不安定な越前の情勢はさらに悪化し、前年八月に従兄義景を自殺に追い込み、信長に帰順した朝倉景鏡(改名後は土橋信鏡)は一向一揆との戦いで敗死し、同じく信長に従っていた朝倉(篠河)景綱も敦賀に逃れた。武田勝頼は二月の美濃攻めから一転して遠江に鉾先を向け、高天神城を包囲した。このほか、足利義昭も島津義久を誘うなど、反信長勢力の活動も活発化していた。


この戦国時代の男たちは何よりも強くなくては生きることができなかった。当然のこと国主領主も強い戦力を持つ者の配下についた。また、多くの国主は身分に関係なく強い「もののふ」を求め、技量に応じた石(大名・武士などの知行高を表す単位)を与え、指南役として戦いに勝つための武芸を任せていた。


ここに「もののふ」を目指す武芸の道、生きる手段としてのひとつ動機があったのである。


武芸とは弓術・馬術・槍術・剣術・水泳術・抜刀術・短刀術・十手術・手裏剣術・含針術・薙刀術・砲術・捕手術・柔術・棒術・鎖鎌術・もじり術・隠形術をいい、一般にこれらを武芸十八般といっている。

この主人公である伊藤一刀斎景久は四国から大島へ流された武士伊藤入道景親の後裔で、伊藤弥左衛門友家の子として永禄三年(一五六〇)に伊豆大島で生まれ伊藤孫六友景と名付けられたが、両親は幼少の頃、無頼の族に殺され、その後は前原という養親に預けられ、前原弥五郎友景と名乗り、『天下一の剣豪』になるという己の生る糧を求め、その強い意思と信念を持っていた。

この『弥五郎』とは厄を負わせて送り出したり、焼き捨てたりする藁人形の一種の呼び名であった。


十四歳になった弥五郎は意を決し、六月の梅雨入り間もない頃、伊豆大島野田浜から舟に乗り下田の湊へ向かったが、突然のしけに遭い舟は大破、大海に投げ出された弥五郎は積んでいた椿木の木に夢中でしがみつき風と潮流の赴くまま流されてたどり着いたのが伊豆伊東宇佐美の浜であった。
汚い褌姿、赤

銅褐色した体には筋肉が隆々と波打ち、全身ずぶ濡れにも拘らず頭の毛は逆立、眼光は鋭く、辺り一面に殺気を漂わせている。この時すでに身長五尺六寸(一七一㎝)もあり、この時代の男としては大きく、大島ではいつも棒切れを持ち歩き、気に障ることがあれば見境無く暴れ廻って人に危害を及ぼし、その異様な風貌をした厄介者の弥五郎を『鬼夜叉』と呼んでいた。

今日から10月夜中から寒くなるのでしょね!飯能は都心と比べて3度から5度違います。

今日は鍔!


室町末期・桃山時代の刀装金工家。作品の銘から山城国伏見(京都市)に
住したことが知られる以外、詳しい経歴は不明。絵風鐔の開祖として著名で、
彼と前後して現れた信家と共に日本の鐔工を代表する存在である。



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