最近韓国時代劇にハマっております。
是非高麗神社、行ってみてください。
高麗神社の主祭神は、かつて朝鮮半島北部に栄えた高句麗からの渡来人高麗王若光(こまのこきしじゃっこう・「王」は 他に「こしき」「こにしき」「こにきし」などとも読む)です。 最盛期は5世紀の「広開土王(こうかいどおう)」、「長寿王(ちょうじゅおう)」治世の100年間で、中華人民共和国吉林省集安県にある「広開土王碑」から、そのころの高句麗の強勢ぶりをうかがうことができます。 若光が渡来した年代についての社伝はありませんが『日本書紀』天智天皇称制5年(666年)10月高句麗から派遣された使節の中に「若光」の名があります。
『続日本紀』文武天皇大宝3年(703年)に「従五位下高麗若光に王の姓を賜う」と記されており、高句麗が668年に唐と新羅によって滅ぼされてしまったことを考えると、『日本書紀』にある「若光」と当社の御祭神である「高麗王若光」は同一人物と思われます。
祭神:高麗王若光・猿田彦命・武内宿禰 当時の高麗は、のちに新羅滅亡後の朝鮮半島を統一した高句麗とは別のもの。高麗はもともと満洲高原の騎馬民族とされ、中国満洲地方・朝鮮半島・遼東地方の大半を支配し、中国文化を取り入れた強大な先進国であった。
589年に中華大陸に統一王朝「隋」が誕生。隋は国内兵力の大半を動員して高麗侵攻するも逆に敗北。隋は著しく国力を衰退させてしまう。かわって大唐帝国が出現し、高麗を侵攻。唐は高麗攻撃中に新羅と同盟し、百済は日に救援を求めて来るも白村江で唐・新羅水軍に敗北し、百済は663年に滅亡。高麗も、ついに建国約700年後の668年に唐・新羅連合軍によって滅ぼされた。 高麗滅亡の時に難を逃れて多くの王族や移民が我が国に亡命して各地に分散していたが、一地域に集めて安住せしめるのが、投化民を遇する途と考え、新たに高麗郡が武蔵国に新設された。元正天皇の霊亀元年(716)に駿河甲斐相模上総下総常陸下野、7ヶ国の高麗人1799人を武蔵国に移して高麗郡を新設したという記録がある。これにより当時の東国に高麗人が散在していたのがわかる。
高麗郡が新設されたとき、その首長を命ぜられ郡をおさめたのが、高麗王若光であった。彼は高麗が国家として成立していたときに使者としてやってきていたが、日本にとどまっている間に国は滅亡。高麗王族でありながら、高麗王若光は日本国でも文武天皇大宝3年(703)のころに従五位下に任官され、さらには王姓を賜っており、郡司就任以前に高麗王族として特に優遇されていた。 しかし、高麗遺民らにとっては武蔵国は中央からはなれた辺境の地であり、移住当初の困苦は深刻なものであった。
高麗王若光らは今の高麗神社の付近に居を構えて荒野を開拓していき、武蔵野の開発に尽くし再び故国の土を踏むこともなく、この地で没した。 高麗王若光は日頃から崇敬していた猿田彦命を祭祀し一社を建立。そこに武内宿禰を合祀して白髮明神として崇敬していた。天平2年に高麗王若光がなくなると高麗郡民が若光の徳を偲んで霊を祀り高麗明神として崇敬し、のちに白髮明神に合祀して高麗大明神として祀ったのが高麗神社の創祀である。祭神である高麗若光の子孫は代々当社の宮司をつとめ、現に59代に及んでいる。
天平勝宝3年(751)には高麗の僧勝楽が寂し、その弟子の聖雲が師の遺骨を納めた聖天院勝楽寺を創建。1200年以上も昔に創建された高麗神社と隣接する勝楽寺の由来は明確であり、珍しい例ともされる。勝楽寺の山門脇には高麗若光の墓がある。墓は、砂岩を重ねた多重塔であり、朝鮮様式を伝えている。
武蔵国には白鬚神社と呼称される神社が約55社存在している。これらは、この高麗神社の分社であるとされ、神社は高麗総社とも呼ばれている。若光が晩年、見事な白鬚を蓄えていたことから白鬚さまと尊ばれていたことから、のちに当社を白鬚明神と呼称したともいう。後年、高麗人の子孫が各地に分散し、高麗郡の例にならって、王の遺徳を偲び敬慕し、その霊を分祀したものとされる。全国的には高麗王若光が崇敬していた猿田彦命のことを白髮明神と呼称するが、埼玉県内では一部の白髮神社は高麗神社に連なっているので注意が必要ではある。
後年、高麗人の子孫が各地に分散し、高麗郡の例にならって、王の遺徳を偲び敬慕し、その霊を分祀したものとされる。 また、開運の神としても崇敬をあつめている。なかでも近代の政治家のなかでも若槻礼次郎、浜口雄幸、斎藤実、鳩山一郎などは当社に参拝後に総理大臣に就任していることから出世明神とも呼称されている。