1868年 5月22日 雨
1日目
振武軍は回状を送り近隣の住民に家の中で待機するように伝えましたが、東征軍は住民に戦火の及ばない場所まで避難するように伝えました。
一部の住民は振武軍の言うとおりに家の中で待機していました。
午後
笹井河原で振武軍の渋沢平九郎率いる斥侯隊と東征軍の斥侯隊が衝突して銃撃戦が始まりました。
振武軍は東征軍に取り囲まれて戦闘不能となり敗走しました。
5月23日 晴れ
2日目
未明~午前
東征軍は銃撃と砲撃で攻撃を開始し、振武軍は東征軍の襲撃に応戦しました。
各寺院で交戦が起こり、次々に振武軍は敗走していきました。
振武軍は兵力や武器が足りず、兵力2000~3000人の威力を持つ東征軍を相手にすれば負け戦になる事を予想して戦っていたと思います。
東征軍は能仁寺へ向けて一斉に大砲を撃ち込みました。
正午
砲撃を受けて本陣・能仁寺が炎上し、振武軍は完全に負け敗走しました。
敗北
振武軍の捕縛者 約50~60人
振武軍の逃亡者 100余人
死傷者 多数 (詳細不明)
犠牲者 村人、町医者など多数
焼失 民家、寺院、土蔵(放火も含む)
だっそさま
黒山村(埼玉県越生町)に飯能戦争から単独で脱走してきた若者がいました。
傷を負いながら大勢の東征軍と斬り合った後、岩の上で腹を十文字に斬り切腹しました。
村の人々はその若者を「だっそさま」と呼びました。
「だっそさま」の正体は渋沢平九郎でした――享年22歳。
渋沢平九郎は渋沢栄一の養子です。
平九郎グミ
グミの木のそばに渋沢平九郎が切腹した場所があります。
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振武軍総帥
渋沢喜作(成一郎)(しぶさわ・きさく)
1863年従弟の渋沢栄一と故郷を出、京都で一橋家に仕え、ついで幕臣となる。1868年彰義隊頭取となるが脱隊、振武軍総帥として飯能で西軍と戦い、さらに箱館で戦い降伏。
この人物好きになれず・・・自決もせず生き延びた人物
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