彰義隊結成慶応4年(9月に明治元年に改元)2月12日早朝、徳川慶喜は江戸城を去り、上野東叡山に入り、大慈院の一間でひたすら恭順し、僅か六畳の狭い部屋で月代も剃らずに、ただ朝令の下るのをまった。 その前日、2月11日、陸軍取調役の本多敏三郎と伴門五郎によって起草された決起の回文が、一橋家臣の間に廻された。
「主君慶喜はもともと尊王の心篤く、朝廷を敬っていたので、自ら大政奉還を上奏して勅許されている。それなのに此の度国賊の汚名をきせられたが一言も弁解もせず、ひたすら恭順しておられる。この主君を陥れたのは、すべて薩摩の謀略で、江戸の治安を陥れ、鳥羽伏見の戦にさそいこみ、薩摩から戦端をひらくなど、すべて彼等の策謀であるから、我々はなんとしても主君の汚名をそそがねばならない。
その為、時には薩摩との一戦も辞さない」と。 たびたび会合が開かれ、12日の雑司ヶ谷の鬼子母神境内の茶屋、茗荷屋の裏座敷での第一回目の会合では一橋家家臣17名ばかりが集った。 さらに17日の四谷鮫河橋の円応寺の会合では30名。
同じく21日の第三回目の会合で、陸軍調役の渋沢成一郎をはじめ、上州甘楽郡岩戸村の庄屋を勤める大井田吉五郎の次男天野八郎などといった大物が加わって、その数も67名となったのではじめて血誓帳を作り、列席者全員が署名血判して、君家の辱を洗い流すために身命をなげうって、東征軍を撃滅せんことを誓いあった が、この時の会合においては、 まだ隊名も無く、盟主も定まらなかったので、一同は23日に浅草本願寺へ集まるよう申し合わせて解散した。
そして23日、先の申し合わせどおりに集合したる者は130余名。 彼等は、この日すでに江戸へ到着していた 東征軍の手前をはばかり、『尊王恭順有志会』(尊王と名付けたのは時流に調和させようとした意図であり、恭順と名付けたのは、徳川慶喜が江戸にもどってからずっとこの方針をつらぬいていたので、慶喜の政治姿勢をまもるという意図から出ている)との擬装名のもとに、隊名を『彰義隊』とすることにした。 なお、この隊名は、“大義ヲ天下ニ彰明センコトヲ誓フ”、との一語によるもので、名付け親は阿部杖策であった。
さらに、頭取と幹事を選ぶ選挙が行われ、投票により次のようにきめた。 頭取渋沢成一郎(喜作)副頭取天野八郎副頭取本多敏三郎(晋)同伴門五郎 同須永於莵之助 役員も決まり、隊の組織づくりが終ると、徳川家よりの長年にわたる恩義に報いるために、薩長官賊どもと一戦しようとの軍議が施され、次のような「同盟哀訴申合書」を作成した。「此度上意の御書付を拝見して、おそれかしこみ謹慎なされている。じっくり考えてみると、上様は従来から尊皇の心が強かったので、君側の悪い者をとりのぞこうとしたところ、かえって天皇のお怒りにふれたので、一言の言いわけもしないで、ひたすら恭順し罪に伏して、天皇のお赦しをおまちしておられる。家臣としてはどうしようもないが、このままじっとしているわけにはいかない。
そこで同盟を結び、決死の覚悟で、上様の業績を申上げ、天皇に哀訴するよりほかはないと申合せ、血判をおして誓った。万一違反した者は、乱世の悪者となり、君臣の大義を忘れた大悪人となり、天地神人の天罰を受けることとなる。よって神文とする」 一同改めて血判誓約を立てたのだった。 そして、現在の上野動物園の所にあった東松院を本営にしたが、彰義隊を結成後数十日にして500名以上にもふくれ上がったので、彼等は、総勢を50人単位に区分して十番隊まで作り、慶喜の護衛という名目のもとに上野の山を根城にし、 昼夜にわたって隊を組み、新政府の将兵とみれば、喧嘩をふきかけ、田舎侍と罵倒し、夜には丸い提灯に「彰」の字を書いたのを持ち、一種のゲリラ戦を展開し、大総督府の足元を乱すにいたった。
振武軍結成 ところが彰義隊成立そうそうに、頭取の渋沢成一郎と副頭取の天野八郎との仲がどうにもうまくなく、彰義隊はほどなくして二つに分裂してしまった。 「すでに、慶喜公が江戸を退かれてしまった以上は、市中に事を構えることを避けて、市外要地に拠って陣容を強固にして戦うべきである。 こうしている間に、上野の山で戦いを起したならば、江戸中が灰になってしまう恐れがある。たとえ江戸を離れたとて、面目を立てる道はいくらでもある」 と唱える渋沢派彰義隊は、浅草本願寺別院に、一方、猛気の天野八郎に従って、 「何としても江戸市中に踏みとどまって、新政府軍に一泡ふかせてやるのだ」といきごむ天野派彰義隊は、上野寛永寺山内にと袂をわかったのであった。
渋沢は、初めの誓いを忘れ、このまま暴走を続けると、彰義隊は一種の暴徒とみなされ、世のひんしゅくをかうばかりではなく、主君の汚名を晴らすどころか、 我々までが無頼の徒といわれてしまうことをおそれ、彰義隊結成の時の誓いをじゅんじゅんと説いたが聞き入れられず、かえって、彼を謀殺しようとする者もあると聞き、上野を逃れ、和田掘の内村(現・杉並区堀之内町)の茶屋「信楽」にかくれた。
そうした4月28日、渋沢成一郎ら同志およそ100名は、天野派との摩擦を避けるために、突如として堀之内を立って武州西多摩郡田無村(現田無市)へ赴き、 新たに近在の浮浪人や江戸に残してきた同志などを呼び集めて、『振武軍』と名づけ、隊中の役員を次のように決めた。
頭
渋沢成一郎
前軍頭取
野村良造
組頭山中昇
頭組頭兼伍長
鈴木満五郎
軍目下役兼伍長
高岡槍太郎
副組頭格兼伍長
河原彦太郎
歩兵差図役兼伍長
窪田吉之丞歩兵差図役
戸谷巳之助
同
籾山一郎
同
飯島精二郎
使番
吉岡精太郎
使番下役
戸谷荒次郎
同間庭整三抜刀隊
高岡倉次郎
同
高岡覚三郎
同
戸谷芳三郎
同
中川豊太郎
同
寺町友裕
同
岡田勇司
同
折井再橘
同
馬谷清三
同
大野半七
同
大野半六
同
本多橘蔵
同
原門蔵
同
保崎弥兵衛
同
藤田増五郎
同
山田金太郎
同
児玉誠吉
同
豊田浅次郎
同
福岡弁
司俗事
小林鉄三郎
同
鶴岡英臣
歩卒
150人
中軍頭取
滝村尚吉
組頭
渋沢平九郎
後軍頭取
渡辺遠
組頭
川崎禄之丞
会計頭取
榛沢新六郎
会計下役
山田劉八郎
軍目
久保喜三郎(以上軍目下役兼伍長高岡槍太郎の日記より)
彰義隊の敗北一方、渋沢派遁走後の彰義隊は、幕府の援助のもとに戦力を大いに増強し、一番隊から十八番隊までの陣容を整え、池田大隈守を新たに頭取として迎えたが、実際に隊士3000名の実権を握っていたのは、天野八郎であった。
そうした幕府の強力なバックアップを得た結果、まちまちだった隊士の服装も、裾の方のつぼんだ義経袴に、水色がかったぶっちゃきの陣羽織というふうに、次第に整えられてその多くは朱鞘を差して、颯爽と市中を巡邏していた。
また、各陣所には金屏を立てまわし、主だった者は床几に腰を下ろすというすばらしい勢いであった。 江戸で、旧幕臣等を中心に彰義隊が結成され、新政府軍に対する暴状がはなはだしいとの報をきいた京都では、彰義隊討伐を大村益次郎に命じた。
江戸へ来た大村は、彰義隊の暴状に対し政府軍の無力さを大いに憤り、征東大将軍のゆるしを得て、5月15日の明け六ツを以って、折からの風雨を衝いて総攻撃をかけたのである。
上野の山へと攻め寄せる、官軍の第一線は、薩摩、長州、肥前、因州、大村、佐土原といった諸藩で、山の死命を制する黒門口へは中村半次郎(桐野利秋)、篠原国幹などという猛将を先鋒とする薩摩の兵がかかり、これを援護するために、肥前の大砲隊が本郷の加州屋敷からアームストロング砲をぶっ放したところ、これにはさしもの彰義隊もたじたじとなってしまい、昼前までは優勢を誇っていたものの、昼過ぎになるともういけなかった。
そして、黒門口をはじめ、屏風坂、車坂、穴稲荷、新門、清水、新黒の八門は相次いでバタバタと落とされていき、彰義隊の一枚看板であった輪王寺宮(後の北白川宮)は、三河島方面へと落ちていった。
なにしろ、21藩、15000の官軍方が十分な兵器を以って、銃砲火器のあまりない彰義隊を攻撃するのだから簡単であった。 上野の山に黄昏が迫る頃には完全に勝敗が決し、ここに拠っていた3000名もの隊士の姿は何処へともなくチリヂリとなり、戦火にさらされた東叡山の三十六坊と、山中の樹木が空しく焼けただれて余煙を上げているのみであった。
この戦いにおいて、彰義隊の隊士は180余名が討死 官軍方の死傷は600名もの多きを数え、天野八郎指揮下の彰義隊は壊滅してしまったのであった。振武軍飯能へ慶応4年4月28日に、突如として江戸を脱して西北へと向かった渋沢派彰義隊の一行は、その後、武州西多摩郡堀内村に3日、田無村に13日ばかり屯していたが、地の利がよくないとの理由で、5月15日にそこを後にして、五里ばかり西方の箱根ヶ崎(現・西多摩郡瑞穂町)へと向かった。
この間に、彼等は、尾高新五郎(榛沢新六郎)の発案に基いて隊名を新たに『振武軍』と改め、近在の農民や浮浪人、江戸から呼び集めた同志などを合わせておよそ300名ばかりとなっていたが、同志たちはことごとく壮年気鋭の揃いで、軍規厳正にして士気は大いに振るっており、上野の山中に拠って官軍方と一戦交えようとしていた彰義隊の動向を窺いながら行動していた。
ところが、15日の夕暮どきのこと、江戸市中に潜んで彰義隊の動きを偵察していた同志より、 今暁六ツ、官軍三面ヨリ上野ヲ攻撃シ、既ニ巳ノ刻ニ至レド勝敗未ダ分タズシテ、戦イハ今ナオタケナハナリ との飛報がはいった。
そこで、直ちに軍議を開いた結果、上野へ馳せ参じて彰義隊に加勢すべしとの令が、頭取の渋沢成一郎から発せられ、一行はもと来た道を徹夜で引き返したが、田無村まで来たところで夜が明けてしまったので休憩をとり、この間に斥候を放って、昨日の戦いの結果は如何と探索したところ、上野の彰義隊は、優秀なる官軍方の兵火を浴びて死傷者が続出し、昨夕の申刻に敗れてしまい、一山の寺院楼閣のことごとくは灰燼と化してしまった模様……、という報を得たので、上野へは行かずに18日までにここにとどまって周囲の情勢を探る一方、官軍に対して最後の戦いを挑むべき格好の地を検討協議した結果、武州高麗郡飯能の地が攻守ともに最も有利であろうということになり、上野の山中から敗走してきて合流した同志200余名の中に折よくいあわせた比留間代五郎を道案内に立てて、18日に田無を発し、所沢を経て扇町屋(入間市扇町屋)に宿し、翌19日の未刻には飯能へと入った。
飯能付近にはもともと一橋領が17カ村もあり、慶応2年には自ら農民兵部隊編成を考え、村名主の代表を集め、この付近の村から30名の農民を出させているなど、飯能付近の状況に明るく、兵糧や農民の徴発にも都合がよくその上、僅か数百名の兵であれば、敗戦は覚悟の上だから、その時は飯能なら山越えに各地に逃れることも出来るし、再挙をはかり、あくまで主君の汚名をはらすことが出来ると考え、飯能を最後の拠点と考えたと思われる。
飯能の地へ振武軍を導いた比留間代五郎は、武州高麗郡高麗村梅原(現・日高市梅原)の剣客で、甲源一刀流の使い手である。
彼は、比留間半蔵(利充)の長子ではあったが、家督は、弟の国蔵に譲って一橋家へ仕え、一石一人扶持を得て、専ら武道の指南にあたっていたが、主君慶喜を守護せんものと彰義隊に加わり、15日の戦いにおいては、最も激烈を極めた黒門口にあって最後まで勇敢に抗戦したのであるが、有力な銃火器にあって遂に戦い利あらず、同志数名と共に田無村まで落ちのびてきたところで振武軍に加わったのであった。
武州高麗村梅原の比留間家は、初代与八が甲源一刀流の宗家として名声が高かった秩父神社の逸見多四郎の門に入り、多年修業の結果、ついにその師を凌ぐに至り、以来、二代半蔵、三代国蔵、そして、この代五郎といった名手を代々輩出し、甲源一刀流の大御所として武州の西部に堂々と君臨し、名声はすこぶる高かった。
また、当時の武州西域において、この流派と並び称せられていたのが、近藤勇、土方歳三、沖田総司などという新撰組の強者連を生み育てた天然理心流であり、この一円の人々は、百姓といえども大抵いずれか一方の剣法を学んでいた。従って、振武軍に加わった百姓とか浮浪人といえどもその力はあなどれなかったわけである。
振武軍最後の舞台となった飯能の地は、連綿たる武蔵野の平地が尽きて、秩父や奥多摩の山地と相接触する地点で、背後および両側面を西方から東へ十重二重になだれくる小山脈に囲まれて東方のみ開けた地で、その南北を名栗、高麗の両河川が流れ下っている。
即ち、振武軍が本営とした能仁寺を擁する羅漢山(現・天覧山)を中心に、南には朝日山、北面は高麗峠と鹿山峠が連なり、背後には多峰主(とうのす)山がといった具合に、三方とも200メートル内外の天然要塞に囲まれており、一度戦端が開かれた時には攻守ともに地の利を得た恰好の場所である。
また、徳川幕府の所領であり、王政復古の御維新とはいうものの、幕軍といえばまだまだその威光は十分にきいたのだった。 慶応4年5月19日、飯能に着いた振武軍は、最初に村役人をよび兵の宿割りを命じた。村役人が宿舎はどこにするのかとたずねると、会計頭取の榛沢新六郎は、すべて寺院にすると言ったので、村役人は能仁寺をはじめ各寺院の所在地を説明した。
聞き終った榛沢は、本陣を能仁寺と決め、次のように陣割りをした。 能仁寺は大寄隼人(変名)大将をはじめ170人程、後軍130人程は観音寺、前軍本村庄三郎はじめ40人は広渡寺、臥龍隊30人程は智観寺、また60人程は心応寺、同じく70人程が玉宝寺や秀常寺に布陣した。布陣の終った振武軍は、防備をかためるために、近くの村々から多くの人足を集めて、能仁寺の裏山である羅漢山の頂上に望楼を設え、当時村人たちが祝いの時、手製の花火をうちあげるために作った木製の筒を竹たがですきまなく巻いた花火筒を、大砲のように見せかけて配置するなど、応戦の準備をした。
さらに振武軍の駐屯した七か寺の世話人を集め、その寺の兵の食糧を賄うこと を命じた。飯能戦争上野の彰義隊討伐を終った大村益次郎は、脱走者と思われる振武軍討伐のため、軍監に福岡藩士尾江四郎左衛門を任じ、指揮旗を与え、残党討伐の総督の御所付を川越藩主松平周防守に渡し、討伐に出兵させることも命じると共に、久留米藩(現・福岡県)、筑後藩(現・熊本県)、大村藩(現・長崎県)、佐土原藩(現・宮崎県)の各藩にも出兵を命じた。
攻撃の中心部隊となった福岡久留米藩では、隊長郡右馬允率いる一隊、司令大野十太夫の一隊、矢野安太夫の率いる一隊を編成し、これに加え足軽頭・医師2名を従軍させ出陣した。 軍監尾江四郎左衛門の率いる部隊は、川越藩松平周防守の兵と共に、鹿山(現・日高市)方面から攻撃の陣を敷き、一部の部隊は振武軍の退路を断つために東吾野(現・飯能市)方面にも出陣した。
一方郡右馬允などの率いる一隊は、扇町屋(現・入間市)方面に進み、久留米藩・大村藩、佐土原藩の各部隊と合流して作戦会議を開き、八王子方面の退路を断つ為、筑前兵の一部隊は直竹村(現・飯能市直竹)へ進み、日光街道遮断のために筑前兵をあて、別に筑前筑後の一隊は横撃隊として雙柳(現・飯能市双柳)に進んだ。
なお、振武軍はこの日までに、彰義隊を脱走して以来の同志100名余に加え、近在で募集した農兵、上野の戦いに敗れて飯能方面まで落ちのびてきた天野八郎指揮下の彰義隊士などを合わせて、500余名もの軍勢となっていたのであるが、物量に優る官軍方を相手にするにはあまりに貧弱な兵力であった。
その上、振武軍が有する武器はといえば、江戸脱出の時に運び出したミニェー銃やエンフィルド銃を合わせた300挺が主力で、これらはいずれも旧式な前装旋条銃で性能が劣っていた。そして他には、近在から徴発した猟銃が数挺あるのみで、銃がわたらぬ者は刀槍を以って戦わねばならなかった。
これに対して、軍監尾江四郎左衛門率いる官軍方は、総勢3000余名。上野の戦いで彰義隊3000名を一挙に粉砕してしまった四斤砲や二十珊(サンチ)砲をはじめとする大小各種の砲に加え、シャープス、スナィドル、シャスポー、スペンサーなどといった後装旋条銃を兵のいずれもが手にしている。 振武軍側では、攻撃の主力は所沢から黒須(現・入間市)方面にくると考え、斥候を出して偵察していたところ、23日の朝7時頃、政府軍の姿を見つけ、小銃を打ちかけ戦の火ぶたがきられた。「23日、昨夜官軍の先陣およそ500人、黒須村高倉山に出陣す、賊徒は前々から予期していたので、斥候を出して偵察し、官軍の陣地や人数まで調べて、本陣に報告した。これを受けて隊長渋沢平九郎は、80人程つれて出陣した。
夜中になり官軍の陣地をはるかに見上げたが、最早引上げたのか人っ子一人も見えなかった。これは官軍の作戦で、すでに陣を引上げたように見せかけていた。賊徒は敵がいないのをあやしみながら、一同が引上げはじめた。
賊徒の引上げるのを見た官軍は、斥候にあとをつけさせ、ひそかに笹井河原をこえた堤に100人ほどの伏勢をおいた。帰陣した賊徒は敵兵が一人も居ないのを不審に思い、再び同勢100人ばかりで出陣し、笹井河原の流れに沿って、高倉山の様子をうかがいながら、敵陣近く進んだ。官軍は再度賊軍が攻めてくることを予測し、全員を配備して、いまやおそしと待っていた。
この時はすでに夜中過ぎであった。官軍の姿を見かけた賊徒はねらいうちに鉄砲をうちかけた。この銃声を合図に、かねて伏せていた兵は一度に立上り、大小砲をしきり打ちかけ、賊徒を中に四方から斬りかけ、もみにもんでの斬り合いとなった。
その時賊徒十余人が官軍の 伏勢の真中に切り込んで、大筒二丁を分捕ったが、多勢に無勢で敵しがたく退いた。この笹井河原の戦の夜明頃、隊長の渋沢平九郎は、左の肩を切られたが、馬上ゆたかに能仁寺の本陣に引き上げ、一間に布団を敷き横たわっていた。
治療のため医師をよび診察すると、血管が切られているので、出血ひどく流れるようで、焼酎をとりよせる暇もないので、側にあった手桶の水で血を洗い落して、疵口を縫いはじめたが、出血は益々ひどく、手術のほどこしようもなくようやく三針ほど縫った所で、糸はぷつりと切れてしまった。
その頃砲声がとどろき智観寺が落ち、官軍が門外に迫るとの知らせに針を捨て白布で疵口を縛って立出でた。」(飯能青蝿より) 一方、扇町屋から中山智観寺に向かった、久留米藩の日新隊は、筑前の大砲隊と合隊して、野田飯能間の六道の辻から曲って、雙柳村に向かった。
飯能への道と鹿山に行く道の交叉する所に稲荷神社があり、この周辺は藪にかこまれていた。振武軍はこの方面からも政府軍の進んでくることを予期して、この藪の付近にも20人ばかりの兵を配置していたので、この方面に進んだ久留米、筑前の連合軍との戦になったが、多勢に無勢たちまち敗走した。
また坂戸方面から鹿山に進んだ、筑前藩、川越藩の部隊は、中山の山上から、智観寺の振武軍 に対し攻撃を開始した。これに対し振武軍もよく戦ったが、智観寺も攻めおとされ敗走した。「官軍は鹿山の山上より大砲小銃を撃ちかけ、賊徒の後をたちきろうとしたので、賊徒も撃っては退き、退いては撃ちながら、智観寺に引きあげる時、智観寺にいた賊徒も出て、飯能まで逃げようとする同勢を引きとめ入れ替って官軍と戦っていたが、遂に智観寺も攻め落され、能仁寺に向かって逃げ出した。その時聖天林(現・飯能第一小学校附近)にかくれていた一隊がおどり出て、ここを先途と防戦したが、大砲小銃二百丁にて撃ちたてられ、賊士一人討死終に敗走した」(飯能青蝿より) 各地で振武軍を敗走させた政府軍は振武軍の本拠地である能仁寺に集結し、聖天林に大砲小銃合わせて200丁程を据えて、総攻撃を開始した。
撃ちこむ砲声は一時に百雷の落ちるが如くで、能仁寺は忽ち火焔につつまれて、振武軍の将兵は命からがら裏山伝いや、谷間から各方面に敗走した。参謀の渋沢平九郎は、重傷の身でありながら、隊長等を無事に落ちのびさせ、再挙をはかりあくまで主君の汚名をそそがせようと考え、一人はなれて顔振峠に向かった。
ここの茶店で休み、女主人の加藤たきに、私は秩父の神主の倅だが秩父へ行く道を教えてくれと聞いた。女主人は飯能戦争の落人と見抜いて、越生方面には官軍さんが大勢いますから尾根伝いにおいきなさい。
すぐ秩父です。と教えたが、平九郎は期するところがあってか、黒山(現・越生町)方面に向かった。黒山あたりまで行くと、果たして政府軍の斥候と出合い、斬り合いとなり一人を斬り、大声で後続の同志が4、50人も来るぞとどなった時、後方の敵がはなった銃弾が肩をかすめた。今はこれまでと路傍の岩の上にあがり、切腹して果てた。時に22歳であった。
この古武士のような純忠な最期は、多くの人々に語りつがれて、後には歌舞伎俳優によって上演され見る人の紅涙をさそったという。 頭取渋沢成一郎は、尾高惇忠(榛沢新六郎)等数人と天覧山の裏山伝いに逃れて横手村(現・日高市)に出た。
このあたりは川越藩兵によってかためられていたが、横手村はかつて一橋領であったので、この地の大川戸延次郎等は「多年の恩顧に報ゆるのは今だ」と覚悟をきめて渋沢成一郎主従をかくまって、酒食をもてなし、衣料も新しく仕立るなどしてもてなした。やがて渋沢等は官軍包囲の中を落ちのびなければならない、思案の末大川戸等に道案内をたのんだ、大川戸等は賊軍を案内することは、まさに死地に赴く思いであったと思われるが、意を決して案内を引き受けて出発した。
途中井上村には敗残兵討伐の兵によってかためられていたが、井上村の名主井上範三の奇智によって、無事に秩父へ落ちのびることができた。
かくて振武軍は四散壊滅したが、その間多くの住民は、戦を恐れて着のみ着のままの姿で、水嵩の増した名栗川を越えて山の中へ逃れていたが政府軍は残党探索の名のもとに、民家に火を放った。
この戦で焼かれた寺は六か寺、民家は飯能宿で156軒、中山村で26軒、真能寺村で26軒、そのほか双柳村など多くの民家が焼失した。
飯能から逃れた渋沢成一郎は、その後、北海道に逃れ榎本武揚と函館五稜郭の戦に敗れ、捕われの身となったが、後、明治5年にゆるされて官についた。その後実業界に入った。
徳川慶喜も後にゆるされ、賊名をとかれ貴族最高の公爵を授けられた。