新当流(しんとうりゅう)は、戦国時代に塚原卜伝が興した剣術の流派。旧字体では新當流。
北條時鄰の『鹿嶋志』によると、新當流の元になったのは鹿島の太刀という名の上古の時代から伝わる兵法だった。これは、アメノコヤネの子孫の國摩大鹿嶋命のさらに子孫、國摩真人が、鹿島神宮の祭神であるタケミカヅチより、神妙なる一太刀の術を授かり、韴霊の法則を会得して成立した。この真人の子孫が鹿島神宮の座主である吉川氏である。後の時代、塚原卜伝は鹿島神宮に千日参詣し、最後の日に神託を得て一太刀の妙理を悟った。この神託に新當の字義があったので流派の名前が新當流になった。一方、飯篠家直は、香取神宮に参詣して、託宣により鑓長刀の精妙を悟り長道具に長けたので、ともに心を合わせ有名になった。卜伝は諸国修行の後、将軍の足利義輝と足利義昭に一太刀を伝え、北畠具教と武田信玄に秘術を説いた。他の著名な弟子に武田家の家臣である山本勘助があり、また、故郷へ帰った後の弟子に松岡則方、諸岡一羽、真壁氏幹、斎藤伝鬼房などがある。ただし、実際には塚原卜伝の誕生は飯篠家直の死後である。
伴信友の『武辺叢書』の「卜傳百首」の項では、新当流という名前に関して、「鹿島の太刀が時代に応じて上古流、中古流、新當流と呼び名が変遷した」という北條時鄰の別の説を挙げている。また、国摩真人については『鹿嶋志』でも言及されている『當流起源傳』を次のように引用している。
新当流以外の兵法書・・・尾張柳生の『影目録』によると、上泉信綱は新陰流を興すにあたって、特に参考にした流派として念流、陰流に加えて新當流を挙げている(兵法三大源流)。
『五輪書』の序文によると、宮本武蔵が13歳で始めて勝負した時(1596年)の相手は新當流の有馬喜兵衛である。一方で、「地之巻」には、鹿島・香取の社人が明神を由緒とする剣術の流派を立てるようになったのは近年のことである、と書かれている。
柳生三厳の著した『月之抄』によると、新當流の元祖は飯篠家直である。家直が鹿島明神に祈ったところ、夢でテンシンに教えを乞うように告げられ、巻物を与えられた。その後、テンシンという名の老僧が来たのでお告げと巻物のことを話すと、シユリケンとマノ太刀を理解するように言われた。