『鬼夜叉一刀斎』
一刀流始祖 剣豪伊藤一刀斎の生涯
第一章 旅立と出逢い
1
平治の乱(一一五九)から関が原の戦い(一六〇〇)までの「もののふ」(武勇を持って仕え、戦陣に立つ武人)が成長する四百余年のうち、応仁の乱(一四六七)から関が原までを『戦国時代』(一五九〇年の小田原征伐までとする説もある)と称した。
応仁の乱以来、十一年の長きに渡った戦乱は、雑兵たる足軽(身分の低い武士)の放火や略奪が蔓延したため、主戦場の京都を荒廃させてしまった幕府は京都を支配するだけの一大名にまで成り下がった。近江国で勢いを増す六角高頼を恐れた九代将軍足利義尚は権威復活を図るため江州六角氏征伐を行うが失敗。幕府の権威はまったく地に落ちてしまったのである。京都の町は荒れ果て、公家であっても食にありつけない状況となっていった。
その為、身分に関係なく公家の娘たちも売られ、その金で飢えを凌ぐといった危機的状況にまでに至ったのである。
このような時代の中で家臣である守護代にとって変わられるに至り、また国人領主らの下克上(下の者が上の者を踏み台にしてのし上っていくこと)により、それまでの守護大名に代わって戦国大名が生まれ始めた。中には守護大名からそのまま戦国大名化した例もあったが、多くは下克上によって大名となっていった。戦国大名は国の領地を拡大するために戦乱を引き起こし、合戦に明け暮れることとなる。
天正二年(一五七四)、織田信長が勢力拡大を続けている時代である。
一つは近江石部城の攻略があり、長年にわたって信長に抵抗してきた六角承禎・義治父子も遂に本国を追われるに至り、羽柴秀吉による今浜城の普請、長浜への改称と合わせて近江一国の支配固めが進んでいた。また、山城でも将軍足利義昭追放後に帰服した三淵藤英の伏見城を廃城とし、細川昭元も槙島城から本能寺に移してしまい塙直政を山城守護に任じて、その槙島城に入れている。しかし、正月以来不安定な越前の情勢はさらに悪化し、前年八月に従兄義景を自殺に追い込み、信長に帰順した朝倉景鏡(改名後は土橋信鏡)は一向一揆との戦いで敗死し、同じく信長に従っていた朝倉(篠河)景綱も敦賀に逃れた。武田勝頼は二月の美濃攻めから一転して遠江に鉾先を向け、高天神城を包囲した。このほか、足利義昭も島津義久を誘うなど、反信長勢力の活動も活発化していた。
この戦国時代の男たちは何よりも強くなくては生きることができなかった。当然のこと国主領主も強い戦力を持つ者の配下についた。また、多くの国主は身分に関係なく強い「もののふ」を求め、技量に応じた石(大名・武士などの知行高を表す単位)を与え、指南役として戦いに勝つための武芸を任せていた。
ここに「もののふ」を目指す武芸の道、生きる手段としてのひとつ動機があったのである。
武芸とは弓術・馬術・槍術・剣術・水泳術・抜刀術・短刀術・十手術・手裏剣術・含針術・薙刀術・砲術・捕手術・柔術・棒術・鎖鎌術・もじり術・隠形術をいい、一般にこれらを武芸十八般といっている。
この主人公である伊藤一刀斎景久は四国から大島へ流された武士伊藤入道景親の後裔で、伊藤弥左衛門友家の子として永禄三年(一五六〇)に伊豆大島で生まれ伊藤孫六友景と名付けられたが、両親は幼少の頃、無頼の族に殺され、その後は前原という養親に預けられ、前原弥五郎友景と名乗り、『天下一の剣豪』になるという己の生る糧を求め、その強い意思と信念を持っていた。この『弥五郎』とは厄を負わせて送り出したり、焼き捨てたりする藁人形の一種の呼び名であった。
十四歳になった弥五郎は意を決し、六月の梅雨入り間もない頃、伊豆大島野田浜から舟に乗り下田の湊へ向かったが、突然のしけに遭い舟は大破、大海に投げ出された弥五郎は積んでいた椿木の木に夢中でしがみつき風と潮流の赴くまま流されてたどり着いたのが伊豆伊東宇佐美の浜であった。
汚い褌姿、赤銅褐色した体には筋肉が隆々と波打ち、全身ずぶ濡れにも拘らず頭の毛は逆立、眼光は鋭く、辺り一面に殺気を漂わせている。この時すでに身長五尺六寸(一七一㎝)もあり、この時代の男としては大きく、大島ではいつも棒切れを持ち歩き、気に障ることがあれば見境無く暴れ廻って人に危害を及ぼし、その異様な風貌をした厄介者の弥五郎を『鬼夜叉』と呼んでいた。
さて、その弥五郎は・・・
宇佐美の浜にある大きな蘇鉄の下で椿の枝を抱え込み眠っている。
村の漁民であろうか、通りすがった三人の男たちに見られたようだ。
「あれは鬼か?・・・いや、夜叉、鬼夜叉だ。鬼夜叉がいるでよー、みんな集まってくれやー」
確かに異様な風貌だが、大島でも人々は弥五郎をみて鬼夜叉と呼んでいた。
三間(五㍍四六㌢)ほど離れて弥五郎を囲むように手には斧や櫂、刀まで持って十人ほどが集まってきた。
何か、この世のものではない妖怪をみているように、恐々覗きこんでいるが、途轍もない殺気を放っていて誰一人として近寄れないでいる。
暫くすると後ろの方から男たちを掻き分て小柄で三十歳前後の男が、何の躊躇もなく平然と弥五郎に近づいてきた。
「おめえ人だら・・・どこからきた」
弥五郎はこの男を睨みつけ、
「大島だ」
男の耳元に口を近づけ、大きな声で、
「腹が減っている・・何か食わせろ」
一瞬、静まり返り、弥五郎が人だと理解したのである。異様な緊張感が解け、伊東の人々の心を和ませたのであろう。大勢の笑い声に変った。人のよさそうなこの男は網元のせがれ(せがれま)で名はたい(たいれ)すけ(すけれ)といって、今は一人暮らしをしている。
弥五郎の肩をポンと叩いて、
「まあ、ついてきてちょうよ」
半里ほど離れた手作りのほったてごや(ほったてごや手)に連れてきた。中に入るとすぐに屋根裏をのぞ(のぞて)き込んでいる鯛助。しばらくして、干してあったのか、あじ(あじで)のひらきを六尾ほど引っ張り出してきた。その中から一番大きなひらきを選んでしばらく揉んでいた。どんぶりに茹がいたかぼちゃ(かぼちゃ六)を入れ、その上に柔らかくなった大きな鯵のひらきをのせ、ござ(ござ、)で敷きつめたところに弥五郎を座らせた。置いた箸には目を向けず、すさまじい食べ方に鯛助は口をポカッと開けたままである。食べ尽くすに時間はかからなかった。腹に収まったようで、子供のあどけなさを覗かせた。
鯛助の口がひらいた。
「おめえ、歳は」
「十四」
「名は」
「前原だ」
ぶっきら棒である。
「これからどこさ行くでよ」
「三嶋だ」
何を考えたのか弥五郎は己のおもいを鯛助にぶつけた。
「おれは天下一の剣豪になりてぇ」
「そうけ・・・ちょっと待っているだよ」
聞いているのかいないのか、部屋の片隅にある風呂敷包みを解き中から古びた着物を持ってきた。
「これやるでよ、着ていってかっしゃ」
弥五郎は無言で受け取り袖を通してみた。見事に小さい。袖は五分ほどで丈は膝あたり。
感謝の気持はあるが、それを態度で示すことはできない。おれは武士の子とのうり(のうり持)を過ぎった。幼い頃より他人から物を貰うことなど、一度たりともなかったからだ。
干してあった手ぬぐいをさっと取り鯵のひらき三枚を包み込んで弥五郎に手渡した。
「これもってかっしぇ」
小雨降る中、鯛助は弥五郎を山道の入り口のところまで案内し、
「さあいくずら、この道さ真直ぐいくでよ、天下一の剣豪になるだよ」
やはり聞いていた。
人の温かさにはじめて触れ、弥五郎は三嶋に向かって山道を駆け出した。
時は流れ・・・この日から七十九年後の六月。
じょうおう(じょうおう・)二年(一六五三)、六月、徳川四代将軍いえつな(いえつな五)が国を統治している時代である。
伊豆修善寺と長岡のちょうど真中に位置している場所に神社がある。
この神社の一角に住まいを設け、一人の老人がいんきょせいかつ(いんきょせいかつま)を送っている。名はわからぬが、どうみても八十歳を過ぎているだろうか・・大柄でしかも、足腰は確りしている様子。
毎日社殿の裏山にあるおおくす(おおくす裏)の神木の根にもたれ、朝から晩までめいそう(めいそうに)の中で弥五郎という若者を追っていたのである。
昼間は村の子供たちの遊び場所になって騒がしい所でもあるが決して目を開あけることはなかった。
さて、時代は一五七四年、六月に戻るが・・・
弥五郎は宇佐美の浜から素足のまま早足で歩いている。雨も小降りからいつしかやみ見事な夕焼けが夜を迎えようとしている。むがむちゅう(むがむちゅうの)でかめいしとうげ(かめいしとうげ))を抜け田京まで一里のところまできた。
せいじゃく(せいじゃくで)のつきあか(つきあかく)り、ふくろう(ふくろうく)の鳴き声が遠くで響く。
(夜が更ける前に・・休める所まで行こう)
子の刻九ツ(午前零時)、やっとのおもいで田京に入り三嶋方面へ進むと左手に神社のいしどうろう(いしどうろう前)が灯火をつけ、ふうしゅ(ふうしゅけ)を添えている。弥五郎はここで一泊出来るとあんど(あんどい)した。
(さぁーねぐらを探して、明日は日の出前に出立しないと)
何かに導かれているように鳥居をくぐり参道を抜けて奥へと勝手に足が進んでいた。弥五郎は大きな神社をみるのは生まれて初めてのこと。
暗がりの中を進んでくると大きな池である月が照りかえり天と池の境目をなくして映し出されている。その水面下に金色の鯉や紅色の鯉、白色の鯉が見える。
弥五郎は社殿の前に置かれたさいせんばこ(さいせんばこ前)に背をもたれあぐら(あぐらた)をかいて座り込んだ。目を閉じ大きく息を吐いて一回二回頭を上下した。並外れた体力をもった十四歳だが宇佐美から一度も休まずきたことで一気に疲れが出てしまったのだろう。そのまま心地よい眠りに入っていった。
この神社は廣瀬神社といって、えんぎしきないしゃ(えんぎしきないしゃい)であり、しんかいちょう(しんかいちょうし)じゅ(じゅか)いちい(いちい))広瀬の明神といわれました。祭神は、みぞくい(みぞくいと)ひめの(ひめのい)みこと(みことい)、外二神、田方一の大社で、かつては田地八町八反のごしゅいん(ごしゅいん方)を頂く所であったといいます。天正十八年(一五九一)、豊臣軍によるにらやま(にらやまあ)しろ(しろや)攻めの頃、へいか(へいか、)にあ(あい)っており、しゃでん(しゃでん))ことごとくしょうしつ(しょうしつ))しています。慶長元年(一五九六)に再建、江戸時代にはふかざわ(ふかざわ。)みょうじん(みょうじん))としてすうけい(すうけいん)されていた。
2
平治の乱(一一五九)から関が原の戦い(一六〇〇)までの「もののふ」(武勇を持って仕え、戦陣に立つ武人)が成長する四百余年のうち、応仁の乱(一四六七)から関が原までを『戦国時代』(一五九〇年の小田原征伐までとする説もある)と称した。
応仁の乱以来、十一年の長きに渡った戦乱は、雑兵たる足軽(身分の低い武士)の放火や略奪が蔓延したため、主戦場の京都を荒廃させてしまった幕府は京都を支配するだけの一大名にまで成り下がった。近江国で勢いを増す六角高頼を恐れた九代将軍足利義尚は権威復活を図るため江州六角氏征伐を行うが失敗。幕府の権威はまったく地に落ちてしまったのである。京都の町は荒れ果て、公家であっても食にありつけない状況となっていった。
その為、身分に関係なく公家の娘たちも売られ、その金で飢えを凌ぐといった危機的状況にまでに至ったのである。
このような時代の中で家臣である守護代にとって変わられるに至り、また国人領主らの下克上(下の者が上の者を踏み台にしてのし上っていくこと)により、それまでの守護大名に代わって戦国大名が生まれ始めた。中には守護大名からそのまま戦国大名化した例もあったが、多くは下克上によって大名となっていった。戦国大名は国の領地を拡大するために戦乱を引き起こし、合戦に明け暮れることとなる。
天正二年(一五七四)、織田信長が勢力拡大を続けている時代である。
一つは近江石部城の攻略があり、長年にわたって信長に抵抗してきた六角承禎・義治父子も遂に本国を追われるに至り、羽柴秀吉による今浜城の普請、長浜への改称と合わせて近江一国の支配固めが進んでいた。また、山城でも将軍足利義昭追放後に帰服した三淵藤英の伏見城を廃城とし、細川昭元も槙島城から本能寺に移してしまい塙直政を山城守護に任じて、その槙島城に入れている。しかし、正月以来不安定な越前の情勢はさらに悪化し、前年八月に従兄義景を自殺に追い込み、信長に帰順した朝倉景鏡(改名後は土橋信鏡)は一向一揆との戦いで敗死し、同じく信長に従っていた朝倉(篠河)景綱も敦賀に逃れた。武田勝頼は二月の美濃攻めから一転して遠江に鉾先を向け、高天神城を包囲した。このほか、足利義昭も島津義久を誘うなど、反信長勢力の活動も活発化していた。
この戦国時代の男たちは何よりも強くなくては生きることができなかった。当然のこと国主領主も強い戦力を持つ者の配下についた。また、多くの国主は身分に関係なく強い「もののふ」を求め、技量に応じた石(大名・武士などの知行高を表す単位)を与え、指南役として戦いに勝つための武芸を任せていた。
ここに「もののふ」を目指す武芸の道、生きる手段としてのひとつ動機があったのである。
武芸とは弓術・馬術・槍術・剣術・水泳術・抜刀術・短刀術・十手術・手裏剣術・含針術・薙刀術・砲術・捕手術・柔術・棒術・鎖鎌術・もじり術・隠形術をいい、一般にこれらを武芸十八般といっている。
この主人公である伊藤一刀斎景久は四国から大島へ流された武士伊藤入道景親の後裔で、伊藤弥左衛門友家の子として永禄三年(一五六〇)に伊豆大島で生まれ伊藤孫六友景と名付けられたが、両親は幼少の頃、無頼の族に殺され、その後は前原という養親に預けられ、前原弥五郎友景と名乗り、『天下一の剣豪』になるという己の生る糧を求め、その強い意思と信念を持っていた。この『弥五郎』とは厄を負わせて送り出したり、焼き捨てたりする藁人形の一種の呼び名であった。
十四歳になった弥五郎は意を決し、六月の梅雨入り間もない頃、伊豆大島野田浜から舟に乗り下田の湊へ向かったが、突然のしけに遭い舟は大破、大海に投げ出された弥五郎は積んでいた椿木の木に夢中でしがみつき風と潮流の赴くまま流されてたどり着いたのが伊豆伊東宇佐美の浜であった。
汚い褌姿、赤銅褐色した体には筋肉が隆々と波打ち、全身ずぶ濡れにも拘らず頭の毛は逆立、眼光は鋭く、辺り一面に殺気を漂わせている。この時すでに身長五尺六寸(一七一㎝)もあり、この時代の男としては大きく、大島ではいつも棒切れを持ち歩き、気に障ることがあれば見境無く暴れ廻って人に危害を及ぼし、その異様な風貌をした厄介者の弥五郎を『鬼夜叉』と呼んでいた。
さて、その弥五郎は・・・
宇佐美の浜にある大きな蘇鉄の下で椿の枝を抱え込み眠っている。
村の漁民であろうか、通りすがった三人の男たちに見られたようだ。
「あれは鬼か?・・・いや、夜叉、鬼夜叉だ。鬼夜叉がいるでよー、みんな集まってくれやー」
確かに異様な風貌だが、大島でも人々は弥五郎をみて鬼夜叉と呼んでいた。
三間(五㍍四六㌢)ほど離れて弥五郎を囲むように手には斧や櫂、刀まで持って十人ほどが集まってきた。
何か、この世のものではない妖怪をみているように、恐々覗きこんでいるが、途轍もない殺気を放っていて誰一人として近寄れないでいる。
暫くすると後ろの方から男たちを掻き分て小柄で三十歳前後の男が、何の躊躇もなく平然と弥五郎に近づいてきた。
「おめえ人だら・・・どこからきた」
弥五郎はこの男を睨みつけ、
「大島だ」
男の耳元に口を近づけ、大きな声で、
「腹が減っている・・何か食わせろ」
一瞬、静まり返り、弥五郎が人だと理解したのである。異様な緊張感が解け、伊東の人々の心を和ませたのであろう。大勢の笑い声に変った。人のよさそうなこの男は網元のせがれ(せがれま)で名はたい(たいれ)すけ(すけれ)といって、今は一人暮らしをしている。
弥五郎の肩をポンと叩いて、
「まあ、ついてきてちょうよ」
半里ほど離れた手作りのほったてごや(ほったてごや手)に連れてきた。中に入るとすぐに屋根裏をのぞ(のぞて)き込んでいる鯛助。しばらくして、干してあったのか、あじ(あじで)のひらきを六尾ほど引っ張り出してきた。その中から一番大きなひらきを選んでしばらく揉んでいた。どんぶりに茹がいたかぼちゃ(かぼちゃ六)を入れ、その上に柔らかくなった大きな鯵のひらきをのせ、ござ(ござ、)で敷きつめたところに弥五郎を座らせた。置いた箸には目を向けず、すさまじい食べ方に鯛助は口をポカッと開けたままである。食べ尽くすに時間はかからなかった。腹に収まったようで、子供のあどけなさを覗かせた。
鯛助の口がひらいた。
「おめえ、歳は」
「十四」
「名は」
「前原だ」
ぶっきら棒である。
「これからどこさ行くでよ」
「三嶋だ」
何を考えたのか弥五郎は己のおもいを鯛助にぶつけた。
「おれは天下一の剣豪になりてぇ」
「そうけ・・・ちょっと待っているだよ」
聞いているのかいないのか、部屋の片隅にある風呂敷包みを解き中から古びた着物を持ってきた。
「これやるでよ、着ていってかっしゃ」
弥五郎は無言で受け取り袖を通してみた。見事に小さい。袖は五分ほどで丈は膝あたり。
感謝の気持はあるが、それを態度で示すことはできない。おれは武士の子とのうり(のうり持)を過ぎった。幼い頃より他人から物を貰うことなど、一度たりともなかったからだ。
干してあった手ぬぐいをさっと取り鯵のひらき三枚を包み込んで弥五郎に手渡した。
「これもってかっしぇ」
小雨降る中、鯛助は弥五郎を山道の入り口のところまで案内し、
「さあいくずら、この道さ真直ぐいくでよ、天下一の剣豪になるだよ」
やはり聞いていた。
人の温かさにはじめて触れ、弥五郎は三嶋に向かって山道を駆け出した。
時は流れ・・・この日から七十九年後の六月。
じょうおう(じょうおう・)二年(一六五三)、六月、徳川四代将軍いえつな(いえつな五)が国を統治している時代である。
伊豆修善寺と長岡のちょうど真中に位置している場所に神社がある。
この神社の一角に住まいを設け、一人の老人がいんきょせいかつ(いんきょせいかつま)を送っている。名はわからぬが、どうみても八十歳を過ぎているだろうか・・大柄でしかも、足腰は確りしている様子。
毎日社殿の裏山にあるおおくす(おおくす裏)の神木の根にもたれ、朝から晩までめいそう(めいそうに)の中で弥五郎という若者を追っていたのである。
昼間は村の子供たちの遊び場所になって騒がしい所でもあるが決して目を開あけることはなかった。
さて、時代は一五七四年、六月に戻るが・・・
弥五郎は宇佐美の浜から素足のまま早足で歩いている。雨も小降りからいつしかやみ見事な夕焼けが夜を迎えようとしている。むがむちゅう(むがむちゅうの)でかめいしとうげ(かめいしとうげ))を抜け田京まで一里のところまできた。
せいじゃく(せいじゃくで)のつきあか(つきあかく)り、ふくろう(ふくろうく)の鳴き声が遠くで響く。
(夜が更ける前に・・休める所まで行こう)
子の刻九ツ(午前零時)、やっとのおもいで田京に入り三嶋方面へ進むと左手に神社のいしどうろう(いしどうろう前)が灯火をつけ、ふうしゅ(ふうしゅけ)を添えている。弥五郎はここで一泊出来るとあんど(あんどい)した。
(さぁーねぐらを探して、明日は日の出前に出立しないと)
何かに導かれているように鳥居をくぐり参道を抜けて奥へと勝手に足が進んでいた。弥五郎は大きな神社をみるのは生まれて初めてのこと。
暗がりの中を進んでくると大きな池である月が照りかえり天と池の境目をなくして映し出されている。その水面下に金色の鯉や紅色の鯉、白色の鯉が見える。
弥五郎は社殿の前に置かれたさいせんばこ(さいせんばこ前)に背をもたれあぐら(あぐらた)をかいて座り込んだ。目を閉じ大きく息を吐いて一回二回頭を上下した。並外れた体力をもった十四歳だが宇佐美から一度も休まずきたことで一気に疲れが出てしまったのだろう。そのまま心地よい眠りに入っていった。
この神社は廣瀬神社といって、えんぎしきないしゃ(えんぎしきないしゃい)であり、しんかいちょう(しんかいちょうし)じゅ(じゅか)いちい(いちい))広瀬の明神といわれました。祭神は、みぞくい(みぞくいと)ひめの(ひめのい)みこと(みことい)、外二神、田方一の大社で、かつては田地八町八反のごしゅいん(ごしゅいん方)を頂く所であったといいます。天正十八年(一五九一)、豊臣軍によるにらやま(にらやまあ)しろ(しろや)攻めの頃、へいか(へいか、)にあ(あい)っており、しゃでん(しゃでん))ことごとくしょうしつ(しょうしつ))しています。慶長元年(一五九六)に再建、江戸時代にはふかざわ(ふかざわ。)みょうじん(みょうじん))としてすうけい(すうけいん)されていた。
2
卯の刻明六ツ(午前六時)、おおきな木々が深呼吸をして何ともいえない良い香りを漂わせ、あたり一面にもや(もや明)と化している。弥五郎は頭をたら(たらて)したまま、まだ眠っているようである。池の方角から誰かがこちらに近づいてくるけはい(けはい、)。
パッと目を開け、椿の枝を右手に握りしめる。あぐら(あぐらを)をといたその場から三尺ほど飛び上がりさいせんばこ(さいせんばこか)の上ににおうだち(におうだちこ)した。もや(もやう)の中に真白な影。音もたてずに近づいてくる。視界が開けてはっきりとしてきた。
「そこでそなた何をされている」
静かなものごし(ものごしな)と品のある白い髭をたくわ(たくわる)た面長で目の鋭い老人。
大きな漂う気に弥五郎は威圧された。
「ここで寝かせてもらった」
「このもや(もやで)が出ている所でか、体には良くないの」
「こちらへご案内する」
社殿から一町ばかり離れた住まいに導かれ、
「さあ、中にお入りなされ」
そこは一尺ほど高くなった床に二十畳の畳が敷かれている。
「あんたは誰だ」
「この神社の神主でござるよ」
「お尋ねになるときは、まず己から名乗るのが筋だと心得ますが」
弥五郎は祖父に付けてもらった伊藤孫六友景とは名乗れず、養父が付けた名を告げた。
「まえはらやごろうともかげ(まえはらやごろうともかげと)だ」
「はて、武士でござるか、お歳は」
「十四」
神官は荒々しい言葉遣いにも驚いた様子もなく。
「立入ってきょうしゅく(きょうしゅく言)だが・・・訳を聞かせてくれないか」
ためら(ためら・)ったが、感じたこともない大きな気に包まれて、今まで人を信用し、頼ること、話すことすらなかったが、この神官は弥五郎の心の扉を開けていた。
「大島から下田に渡る途中、大波で舟が大破して・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
時の経つのを忘れ、すべて話し終えた。すると神官は
「そうか、やっかい(やっかいを)ばら(ばらか)いのおにやしゃ(おにやしゃ))だったか」
と笑いながら、
「そうじゃのう、慌てて三嶋に行くこともないじゃろう、当分の間この神社にとうりゅう(とうりゅうう)なされてからたてばよかろう。ここは剣術の稽古にはよい場所じゃ、ついでに学問と言葉遣いを学びなされ・・・神もおられるでのう」
冗談を言っているそののうり(のうりっ)で、弥五郎の持つ天性の気の鋭さを見抜いている。
考え込んでいる弥五郎。読み書きは出来るが・・・
「おれは金がない。何か手伝いさせてくれないか」
この神官の名はやたべかげひさ(やたべかげひさ。)(やまざき(やまざきげ)せいげん(せいげんげ))、歳は七十歳である。
「金はいらん。好きなだけとうりゅう(とうりゅう。)されればよいぞ・・・先ずは全身を清めてからまき(まきば)でも割ってもらおうかのう」
井戸へ案内した。
「さぁ、こちらで旅のあか(あか、)を流され、そこにある粘土の粉で髪を洗い、ぬかぶくろ(ぬかぶくろこ)(綿袋中にこめぬか(こめぬかろ)を入れてあるもの)で、体をこするとよいぞ。終わったらみこ(みこて)たちと、にわばん(にわばんる)をご紹介いたすので」
言葉を残し、神官は社殿の方へともどっていった。
井戸端に座り、体を洗う弥五郎は一年ぶりだった。真水はやや冷たいが海水を浴び汚れた体にはたまらなく気持がよい。目の前が開けたようだ。頭の上から粘土の粉をたっぷりとふりかけ、頭をガサガサとかきまわし、小顔で整った顔をゴシゴシと擦って体の垢を取ると赤銅褐色した体のつや(つやか)が落ち、筋肉はたくましい男の体つきに戻った。ふんどし(ふんどし肉)を解き、粉をふりかけ久々の洗濯である。頭、体を拭き、逆立った髪は柔らかく顔を隠している。
その時、
「キャー」
女の声が辺りに響き渡った。弥五郎は慌てて手ぬぐいの一編を歯で引きちぎ(ちぎが)ると髪を後ろに束ねて結んで前をみた。目の前に美しい美女が立っているではないか。
そこへ神官がすばやい身のこなしで巫女の側に近づいた。この神官はただの老人ではない。
「どうかしたか」
巫女は顔を両手でおお(おお顔)っている。神官は弥五郎の方に目をやるとそこには大きな一物をさらけ出し丸裸の弥五郎が口を開け立っているではないか。
「前原殿、当神社の巫女の彩です。はよう褌をしめなされ、巫女とは言っても女であるからのう」
慌てて褌をしめた。神官をみて、
「生き返った」
神官は大声を出して笑いだした。その左手には下駄と紺色の袴を持っている。
彩の方をみた。
「目をそ(そを)らせるのはもうよいぞ、彩、こちらはわしの知り合いで前原弥五郎殿と申して、三嶋に行くのだがしばら(しばらて)く、この地で剣術の稽古と学問を学ぶので面倒をみてやってくれ」
ほのかに顔が赤いままで彩は、
「はい、わかりました。彩と申します。何なりと申し付けてくださいませ」
顔をみた彩は素直な気持で、
「美しいお顔立ちをしていらっしゃいますね」
こんなことは言われたことがない。恥ずかしいのであろう。
小声で答えた弥五郎は、
「宜しく願う」
彩は十三歳、目は大きくひだりほお(ひだりほお目)にえくぼ(えくぼほ)がある色白美人である。
「神官さま、あさげ(あさげま)の用意ができております」
「前原殿一緒にあさげ(あさげ一)をいただこう」
「いいえ、おれは鯵の開きを持っているのでいらない」
「何を遠慮している。成長盛り、この神社は飯には困らんので、好きなだけ食べればよい。前原殿、素足ではこの神社内を歩くのには不都合が生じるでのう」
下駄とはかま(はかま慮)を差しだした。
「この神社では、これを使こうてくだされ」
言われるままにはかま(はかまま)を着け下駄を履いた。
神官は彩に目配せした。彩はすばやく弥五郎の右手首の間接をつかみ利き腕を封じ込んだ。
「前原さま。お腹の虫が先ほどから泣いておられるようですね」
離れの住まいに連れてこられた。
広い二十畳には膳が五つ並んで上座に一膳、左右に各二膳が用意してある。
「さあ、前原さま左奥の膳の所にお座りください」
その膳の上には豆腐、煮豆、山菜の煮付け、味噌汁(現代の味噌汁とは異なっていて味噌を水で溶いた汁である)など弥五郎の大好物が膳の上にあるではないか。
殆ど口にしていなかった米(古代米の赤米である)が椀に盛られている。
外から騒がしい女たちの声がしてきた。一人、二人、三人と、それは彩と同じ巫女である。
巫女たちが座るのを待って神官は、
「こちらはわしの知り合いで前原弥五郎殿と申して、三嶋に行く途中だが暫くこの地で剣術の稽古をするので、宜しくたのみますよ」
先ほどの彩に言った言葉とは違っていた。
「前原殿、お手前に居るのが一番年上の巫女で十七のかがりといい、その隣が十五のさつき(さつき、)、そして前原殿の隣にいる巫女は六歳に成ったばかりの鈴です。これからはわしがその名の厄を落としてさしあげるので、弥五郎と呼ばせてもらうぞ」
「はい」
「さあー弥五郎、先ずは腹ごしらえして下され」
神官と巫女たちは合掌。その姿をみた弥五郎は慌てて合掌に加わったが、彩の姿が見当たらない。気になって右目を開けて様子をみていると勝手口の扉が開き、彩が膳を持ってこちらにくるのがみえた。彩は台所で賄いを任されていたのだった。
ホッとした。この目の前にある膳は彩の分だとおもい気にかけていたのである。合掌に加わり済んだとみるや、すぐさま赤米をか(かあ)きこんで、煮豆、豆腐、山菜の煮付けの順に口に運んではまた赤米、味噌汁、・・・こんなに美味い物を食べたのは生まれて初めてである。
和みの時間が過ぎようとしていたその時、外から男の声。
「神官さま、大変だ」
神社の庭番で四十前のまさきち(まさきちで)が血相をなくし慌てて中に入ってきた。
「神官さま、えれーことです。二人の武者たちがさいせんばこ(さいせんばこれ)から銭を盗っています」
「またか、よし、わかった。お前たちはこの場を動くではないぞ」
「弥五郎よい機会ですぞ、一緒に」
神官は入り口に積まれている薪を選んで一尺(三〇・三㌢)ほどの太いものを手にした。
早足で賽銭箱の置かれている場所につくと、
「そこで何をされている」
すると武者の一人が刀を抜いて、
「何をやろうがお前の知った事か」
余りにも非常識な言動に、
「ここは神の地、汚すのではない」
右手に持った薪を首筋に叩きつけた。骨の砕ける鈍い音を発しその場に崩れた。その様子をみていたもう一人の武者が刀を抜いた。古い血のりがついて、少々錆びがついた刃こぼれのある無名の刀である。多分相当数の人を殺めたのであろう。
「この爺」
上段に構えた刀を神官の頭めがけ振りおろしてきた。
「ぎゃぁー」
悲鳴がこだま(こだまー)した。神官は武者の後ろにすばやく回りこみ、尻をおもいきり叩いていた。息ができないほど強烈である。暫く呼吸ができないでいた。体を震わしている。やっとのおもいだったのか武者は息を始めた。その様子をみて、
「武士ならば他にやることがあるだろう。仲間を連れこの神社から立ち去れ」
神官の身のこなし、手首の使い方、相手を先に見切っている眼、すべてみていた弥五郎。痛みを堪えていた武者は仲間を背負い去って行った。
「神主さまは相手のうごきが先にみえたのですか」
すると、
「相手の気にふれただけ。弥五郎は気を吸収しておられたようですな」
弥五郎は暫く考えていたが、その意味が理解できない。
「なぜ二人とも倒さなかったのですか」
「それは二人とも倒せばこの神社で介抱せねばならぬので、一人だけは無傷で残しておいただけのこと」
この神官、矢田部景久は三嶋大社代々宮司を務める矢田部家の長男であったが剣術の道を選択して勘当となった身で、名を変え山崎盛玄と名乗り、中条流、とだごろうさえもんせいげん(とだごろうさえもんせいげん社)と同門である。歳は景久が上で、柳生家記の『玉栄拾遺』に一刀斎の師としてあり、中条流免許皆伝の腕前を持っている。
また勢源は眼病を患っていたためかとく(かとくは)を弟景政に譲り、永禄三年(弥五郎の誕生の年)、美濃にいた朝倉成就坊のところに寄寓していた。また、後に関わる鐘巻自斎は勢源の弟景政の弟子である。
なぜこの神社の宮司となったのか。それは長年、数多くの武芸者と戦い、命を奪うことで剣の頂点を極めた強い剣聖と呼ばれる人間の悟りの境地である。その過去の罪を償うために刀を捨て、年を老い初めて感じる償いを神仏にすがったのである。
その刀は現在、三嶋大社で宮司を務めている弟、谷田部織部に預け、ご神木(スダイジ)の樹洞に油紙で包み供養している刀が後の瓶割刀で、弥五郎(一刀斎)にさずける刀である。
「剣術の稽古をする良い場所があるので、ご案内しよう」
社殿の奥の石段を上り始めた。目の前に大きく開けた場所(三百坪)にきた。高さ十五間(二七.三㍍)はあるしめなわ(しめなわる)で捲かれたおおくす(おおくする)の木(樹齢一五〇〇年のご神木)が真中に祭ってあった。
「ここじゃ。ここなら誰もくることはないで自由に稽古ができますぞ。午前中は薪わりをして、午後は就寝、夜半からここへきて稽古するとよいであろう。さあー、戻ろうか」
弥五郎は疑問を感じた。なぜ夜半に稽古しなければならないのか理解できない。その理由は後でわかること。
戻ってみると巫女たちはすでにあさげ(あさげる)を済ませ、神官と弥五郎の膳を残して片付けられていた。勝手口が開いている。そこには彩と鈴が器を洗っている様子が伺えた。
(あんな事があったのに、平気で朝餉を食べたのか)
「さあ弥五郎、朝餉を続けよう。巫女たちも済ませたようだ」
「神主さま、荒くれ者の武者たちは多いのですか」
「そうじゃのう、月に数回ほど現れるかのう、巫女たちの尻を追い掛け回すことが多いのだが、わしはみているだけでのう」
笑っている。
「巫女たちは単なる武者よりは強いのでのう。かなわぬ時は、神官さまー助けてと叫ぶだろうから、だが一度も呼ばれたことはないが、この廣瀬神社は参拝者が修善寺や三嶋宿からやってくるが、盗賊やひとさら(ひとさらは)いも多いのでのう・・・先ほどのようなことが起きたら弥五郎がおるので、この老体は楽ができそうですな」
「今のおれでは、できません」
「弥五郎はみつき(みつきは)もしたらわしなんぞ敵わなくなるのではないか。毎日夜半にご神木のおおくす(おおくすし)の木のところへいけばわかること・・・剣術の稽古に励むことでじゃ。まきわり(まきわりろ)が済んだら、よい物を差し上げますからな」
神官は朝餉を終えた。
弥五郎は先ほど盛られた量とは違うのに気付きながらも山盛りになっていた煮豆を平らげた。
(天国にものぼる気持だ)
膨れている腹を右手で擦っているその様子を彩と鈴に見られた。
笑っている鈴は小鳥のようなかわいいらしい女の子である。
微笑みながら彩は、
「弥五郎さまお済になりましたか」
「はい」
「神官さまが、少し休んでから、薪を割ってくださるようおっしゃっていました。そこの陽だまりのところでお休みください」
「はい」
弥五郎は背を向け、左半身を下にして横になった。体裁が悪いのか、その姿勢のまま、
「彩さま煮豆ありがとうございました」
彩はことばを返そうとおもったが、もう吐息をたて寝入っている。
膳を片付けていた彩と鈴はクスクスと笑いながら顔を見合わせていた。
パッと目を開け、椿の枝を右手に握りしめる。あぐら(あぐらを)をといたその場から三尺ほど飛び上がりさいせんばこ(さいせんばこか)の上ににおうだち(におうだちこ)した。もや(もやう)の中に真白な影。音もたてずに近づいてくる。視界が開けてはっきりとしてきた。
「そこでそなた何をされている」
静かなものごし(ものごしな)と品のある白い髭をたくわ(たくわる)た面長で目の鋭い老人。
大きな漂う気に弥五郎は威圧された。
「ここで寝かせてもらった」
「このもや(もやで)が出ている所でか、体には良くないの」
「こちらへご案内する」
社殿から一町ばかり離れた住まいに導かれ、
「さあ、中にお入りなされ」
そこは一尺ほど高くなった床に二十畳の畳が敷かれている。
「あんたは誰だ」
「この神社の神主でござるよ」
「お尋ねになるときは、まず己から名乗るのが筋だと心得ますが」
弥五郎は祖父に付けてもらった伊藤孫六友景とは名乗れず、養父が付けた名を告げた。
「まえはらやごろうともかげ(まえはらやごろうともかげと)だ」
「はて、武士でござるか、お歳は」
「十四」
神官は荒々しい言葉遣いにも驚いた様子もなく。
「立入ってきょうしゅく(きょうしゅく言)だが・・・訳を聞かせてくれないか」
ためら(ためら・)ったが、感じたこともない大きな気に包まれて、今まで人を信用し、頼ること、話すことすらなかったが、この神官は弥五郎の心の扉を開けていた。
「大島から下田に渡る途中、大波で舟が大破して・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
時の経つのを忘れ、すべて話し終えた。すると神官は
「そうか、やっかい(やっかいを)ばら(ばらか)いのおにやしゃ(おにやしゃ))だったか」
と笑いながら、
「そうじゃのう、慌てて三嶋に行くこともないじゃろう、当分の間この神社にとうりゅう(とうりゅうう)なされてからたてばよかろう。ここは剣術の稽古にはよい場所じゃ、ついでに学問と言葉遣いを学びなされ・・・神もおられるでのう」
冗談を言っているそののうり(のうりっ)で、弥五郎の持つ天性の気の鋭さを見抜いている。
考え込んでいる弥五郎。読み書きは出来るが・・・
「おれは金がない。何か手伝いさせてくれないか」
この神官の名はやたべかげひさ(やたべかげひさ。)(やまざき(やまざきげ)せいげん(せいげんげ))、歳は七十歳である。
「金はいらん。好きなだけとうりゅう(とうりゅう。)されればよいぞ・・・先ずは全身を清めてからまき(まきば)でも割ってもらおうかのう」
井戸へ案内した。
「さぁ、こちらで旅のあか(あか、)を流され、そこにある粘土の粉で髪を洗い、ぬかぶくろ(ぬかぶくろこ)(綿袋中にこめぬか(こめぬかろ)を入れてあるもの)で、体をこするとよいぞ。終わったらみこ(みこて)たちと、にわばん(にわばんる)をご紹介いたすので」
言葉を残し、神官は社殿の方へともどっていった。
井戸端に座り、体を洗う弥五郎は一年ぶりだった。真水はやや冷たいが海水を浴び汚れた体にはたまらなく気持がよい。目の前が開けたようだ。頭の上から粘土の粉をたっぷりとふりかけ、頭をガサガサとかきまわし、小顔で整った顔をゴシゴシと擦って体の垢を取ると赤銅褐色した体のつや(つやか)が落ち、筋肉はたくましい男の体つきに戻った。ふんどし(ふんどし肉)を解き、粉をふりかけ久々の洗濯である。頭、体を拭き、逆立った髪は柔らかく顔を隠している。
その時、
「キャー」
女の声が辺りに響き渡った。弥五郎は慌てて手ぬぐいの一編を歯で引きちぎ(ちぎが)ると髪を後ろに束ねて結んで前をみた。目の前に美しい美女が立っているではないか。
そこへ神官がすばやい身のこなしで巫女の側に近づいた。この神官はただの老人ではない。
「どうかしたか」
巫女は顔を両手でおお(おお顔)っている。神官は弥五郎の方に目をやるとそこには大きな一物をさらけ出し丸裸の弥五郎が口を開け立っているではないか。
「前原殿、当神社の巫女の彩です。はよう褌をしめなされ、巫女とは言っても女であるからのう」
慌てて褌をしめた。神官をみて、
「生き返った」
神官は大声を出して笑いだした。その左手には下駄と紺色の袴を持っている。
彩の方をみた。
「目をそ(そを)らせるのはもうよいぞ、彩、こちらはわしの知り合いで前原弥五郎殿と申して、三嶋に行くのだがしばら(しばらて)く、この地で剣術の稽古と学問を学ぶので面倒をみてやってくれ」
ほのかに顔が赤いままで彩は、
「はい、わかりました。彩と申します。何なりと申し付けてくださいませ」
顔をみた彩は素直な気持で、
「美しいお顔立ちをしていらっしゃいますね」
こんなことは言われたことがない。恥ずかしいのであろう。
小声で答えた弥五郎は、
「宜しく願う」
彩は十三歳、目は大きくひだりほお(ひだりほお目)にえくぼ(えくぼほ)がある色白美人である。
「神官さま、あさげ(あさげま)の用意ができております」
「前原殿一緒にあさげ(あさげ一)をいただこう」
「いいえ、おれは鯵の開きを持っているのでいらない」
「何を遠慮している。成長盛り、この神社は飯には困らんので、好きなだけ食べればよい。前原殿、素足ではこの神社内を歩くのには不都合が生じるでのう」
下駄とはかま(はかま慮)を差しだした。
「この神社では、これを使こうてくだされ」
言われるままにはかま(はかまま)を着け下駄を履いた。
神官は彩に目配せした。彩はすばやく弥五郎の右手首の間接をつかみ利き腕を封じ込んだ。
「前原さま。お腹の虫が先ほどから泣いておられるようですね」
離れの住まいに連れてこられた。
広い二十畳には膳が五つ並んで上座に一膳、左右に各二膳が用意してある。
「さあ、前原さま左奥の膳の所にお座りください」
その膳の上には豆腐、煮豆、山菜の煮付け、味噌汁(現代の味噌汁とは異なっていて味噌を水で溶いた汁である)など弥五郎の大好物が膳の上にあるではないか。
殆ど口にしていなかった米(古代米の赤米である)が椀に盛られている。
外から騒がしい女たちの声がしてきた。一人、二人、三人と、それは彩と同じ巫女である。
巫女たちが座るのを待って神官は、
「こちらはわしの知り合いで前原弥五郎殿と申して、三嶋に行く途中だが暫くこの地で剣術の稽古をするので、宜しくたのみますよ」
先ほどの彩に言った言葉とは違っていた。
「前原殿、お手前に居るのが一番年上の巫女で十七のかがりといい、その隣が十五のさつき(さつき、)、そして前原殿の隣にいる巫女は六歳に成ったばかりの鈴です。これからはわしがその名の厄を落としてさしあげるので、弥五郎と呼ばせてもらうぞ」
「はい」
「さあー弥五郎、先ずは腹ごしらえして下され」
神官と巫女たちは合掌。その姿をみた弥五郎は慌てて合掌に加わったが、彩の姿が見当たらない。気になって右目を開けて様子をみていると勝手口の扉が開き、彩が膳を持ってこちらにくるのがみえた。彩は台所で賄いを任されていたのだった。
ホッとした。この目の前にある膳は彩の分だとおもい気にかけていたのである。合掌に加わり済んだとみるや、すぐさま赤米をか(かあ)きこんで、煮豆、豆腐、山菜の煮付けの順に口に運んではまた赤米、味噌汁、・・・こんなに美味い物を食べたのは生まれて初めてである。
和みの時間が過ぎようとしていたその時、外から男の声。
「神官さま、大変だ」
神社の庭番で四十前のまさきち(まさきちで)が血相をなくし慌てて中に入ってきた。
「神官さま、えれーことです。二人の武者たちがさいせんばこ(さいせんばこれ)から銭を盗っています」
「またか、よし、わかった。お前たちはこの場を動くではないぞ」
「弥五郎よい機会ですぞ、一緒に」
神官は入り口に積まれている薪を選んで一尺(三〇・三㌢)ほどの太いものを手にした。
早足で賽銭箱の置かれている場所につくと、
「そこで何をされている」
すると武者の一人が刀を抜いて、
「何をやろうがお前の知った事か」
余りにも非常識な言動に、
「ここは神の地、汚すのではない」
右手に持った薪を首筋に叩きつけた。骨の砕ける鈍い音を発しその場に崩れた。その様子をみていたもう一人の武者が刀を抜いた。古い血のりがついて、少々錆びがついた刃こぼれのある無名の刀である。多分相当数の人を殺めたのであろう。
「この爺」
上段に構えた刀を神官の頭めがけ振りおろしてきた。
「ぎゃぁー」
悲鳴がこだま(こだまー)した。神官は武者の後ろにすばやく回りこみ、尻をおもいきり叩いていた。息ができないほど強烈である。暫く呼吸ができないでいた。体を震わしている。やっとのおもいだったのか武者は息を始めた。その様子をみて、
「武士ならば他にやることがあるだろう。仲間を連れこの神社から立ち去れ」
神官の身のこなし、手首の使い方、相手を先に見切っている眼、すべてみていた弥五郎。痛みを堪えていた武者は仲間を背負い去って行った。
「神主さまは相手のうごきが先にみえたのですか」
すると、
「相手の気にふれただけ。弥五郎は気を吸収しておられたようですな」
弥五郎は暫く考えていたが、その意味が理解できない。
「なぜ二人とも倒さなかったのですか」
「それは二人とも倒せばこの神社で介抱せねばならぬので、一人だけは無傷で残しておいただけのこと」
この神官、矢田部景久は三嶋大社代々宮司を務める矢田部家の長男であったが剣術の道を選択して勘当となった身で、名を変え山崎盛玄と名乗り、中条流、とだごろうさえもんせいげん(とだごろうさえもんせいげん社)と同門である。歳は景久が上で、柳生家記の『玉栄拾遺』に一刀斎の師としてあり、中条流免許皆伝の腕前を持っている。
また勢源は眼病を患っていたためかとく(かとくは)を弟景政に譲り、永禄三年(弥五郎の誕生の年)、美濃にいた朝倉成就坊のところに寄寓していた。また、後に関わる鐘巻自斎は勢源の弟景政の弟子である。
なぜこの神社の宮司となったのか。それは長年、数多くの武芸者と戦い、命を奪うことで剣の頂点を極めた強い剣聖と呼ばれる人間の悟りの境地である。その過去の罪を償うために刀を捨て、年を老い初めて感じる償いを神仏にすがったのである。
その刀は現在、三嶋大社で宮司を務めている弟、谷田部織部に預け、ご神木(スダイジ)の樹洞に油紙で包み供養している刀が後の瓶割刀で、弥五郎(一刀斎)にさずける刀である。
「剣術の稽古をする良い場所があるので、ご案内しよう」
社殿の奥の石段を上り始めた。目の前に大きく開けた場所(三百坪)にきた。高さ十五間(二七.三㍍)はあるしめなわ(しめなわる)で捲かれたおおくす(おおくする)の木(樹齢一五〇〇年のご神木)が真中に祭ってあった。
「ここじゃ。ここなら誰もくることはないで自由に稽古ができますぞ。午前中は薪わりをして、午後は就寝、夜半からここへきて稽古するとよいであろう。さあー、戻ろうか」
弥五郎は疑問を感じた。なぜ夜半に稽古しなければならないのか理解できない。その理由は後でわかること。
戻ってみると巫女たちはすでにあさげ(あさげる)を済ませ、神官と弥五郎の膳を残して片付けられていた。勝手口が開いている。そこには彩と鈴が器を洗っている様子が伺えた。
(あんな事があったのに、平気で朝餉を食べたのか)
「さあ弥五郎、朝餉を続けよう。巫女たちも済ませたようだ」
「神主さま、荒くれ者の武者たちは多いのですか」
「そうじゃのう、月に数回ほど現れるかのう、巫女たちの尻を追い掛け回すことが多いのだが、わしはみているだけでのう」
笑っている。
「巫女たちは単なる武者よりは強いのでのう。かなわぬ時は、神官さまー助けてと叫ぶだろうから、だが一度も呼ばれたことはないが、この廣瀬神社は参拝者が修善寺や三嶋宿からやってくるが、盗賊やひとさら(ひとさらは)いも多いのでのう・・・先ほどのようなことが起きたら弥五郎がおるので、この老体は楽ができそうですな」
「今のおれでは、できません」
「弥五郎はみつき(みつきは)もしたらわしなんぞ敵わなくなるのではないか。毎日夜半にご神木のおおくす(おおくすし)の木のところへいけばわかること・・・剣術の稽古に励むことでじゃ。まきわり(まきわりろ)が済んだら、よい物を差し上げますからな」
神官は朝餉を終えた。
弥五郎は先ほど盛られた量とは違うのに気付きながらも山盛りになっていた煮豆を平らげた。
(天国にものぼる気持だ)
膨れている腹を右手で擦っているその様子を彩と鈴に見られた。
笑っている鈴は小鳥のようなかわいいらしい女の子である。
微笑みながら彩は、
「弥五郎さまお済になりましたか」
「はい」
「神官さまが、少し休んでから、薪を割ってくださるようおっしゃっていました。そこの陽だまりのところでお休みください」
「はい」
弥五郎は背を向け、左半身を下にして横になった。体裁が悪いのか、その姿勢のまま、
「彩さま煮豆ありがとうございました」
彩はことばを返そうとおもったが、もう吐息をたて寝入っている。
膳を片付けていた彩と鈴はクスクスと笑いながら顔を見合わせていた。