松本備前守政信の弟子塚原卜伝と上泉伊勢守秀綱の関係は・・・ | かねこよういち

鹿島神流は飯篠長威斎家直の高弟、松本備前守政信が創始した流派である。
松本備前守政信は、鹿島神宮の祝部(ほふりべ)で(神官であり一武将として家臣を束ねる)ある。
鹿島家には、松本、小神野、額賀、吉川の四宿老が設置されていた。
鹿島氏の内紛の折り、松本備前守政信は宿老のの責任から最前線に出て四尺二寸の大太刀で八人の敵を倒した後、壮絶な討死を遂げた。(大永三年、1523年57歳)
松本備前守政信は、薙刀、十文字槍、杖、さらに各種の鎌などの武具に熟達しており、師の飯篠長威斎から学んだ天真正伝香取神道流に独自の工夫を加えて、塚原土佐守安幹(塚原ト伝の父)、ト伝に伝授したのが松本備前守政信である。
鹿島神流の正統は政信の死後、息子の松本右馬允政元に受け継がれた。

松本備前守政信は初名は守勝、のちに尚勝と改めた。飯篠長威斎の門人で、鹿島神宮に祈願して源義経が奉納した秘書を手に入れてから鹿島神流を開創した。一に鹿島神陰流、俗に鹿島流ともいう。


松本家は塚原卜伝の実家吉川氏とともに、鹿島神宮の神官であったともいうがそれを否定する説もある。いずれにしろ、吉川氏・小神野氏・額賀氏の三家とならんで常陸大掾鹿島家の四宿老の一家であった。

政信は長享二年(1488)に上洛して将軍義尚に謁し、諱の一字を賜って名を尚勝と改めた。長享二年は尚勝二十一歳のときで、この年、師の長威斎が死去し、翌延徳元年に塚原卜伝が生まれている。


剣法の流儀は京に発した京八流に対して、関東に古伝した剣法は関東七流、すなわち鹿島七流があった。鹿島七流は、鹿島神宮の神官七人の家伝であったともいわれるが、元来、一つの流れであったものが、神官七家に分かれて伝統され、さらに七家から世間へ流布したものと考えられる。


仁徳天皇の時代、国摩大鹿島命の後裔、国摩真人が高天ケ原の西にある鬼ケ城に神壇を築いて祈った結果、神の啓示によって神妙剣と称する刀術を創業した。これが「鹿島の太刀」という刀法の始まりと伝えられる。そして、真人四十二代目に吉川左京覚賢という人があり、本姓名を卜部呼常といって鹿島神宮の神官であり、鹿島家の四宿老の一家であった。この覚賢の二男朝孝が塚原家へ養子にいった、のちの新右衛門高幹であり塚原卜伝である。


卜伝は、実父覚賢から家伝の鹿島古流を学び、養父の塚原土佐守から飯篠長威斎の香取神道流を学び、さらに飯篠長威斎の門人松本備前守政信の創案した「一つの太刀」を学んだ。このように卜伝の極意といわれる「一つの太刀」は、元来、松本政信の創意があり、政元より塚原卜伝に伝えられたものであった。


政信は師の長威斎が考慮した兵法を、剣法の格式に案出し、陣鎌・薙刀・十文字などの術技はすべて松本政信が完成したものといわれている。


このような松本政信が近隣の諸豪と結んで主家鹿島氏に叛乱を企てたのは、理由はどうあれ政信もまた下剋上の横行する戦国時代を生きる人物であったということだろう。


鹿島神宮の祝(はふり)部で、小神野、吉川、額賀と並ぶ鹿島氏の四宿老の一人で鹿島香取周辺の合戦で数多くの武功を上げ、天真正伝香取神道流の開祖である飯篠長威斎家直に師事し、神道流の技を大成。

その上、鹿島神宮に参籠し、源義経の奉納した伝書を授かる。「一つの太刀」を発案。大永年間、高天原の戦いで奮戦の後討死。

ここで、事実を記してみる。

上泉伊勢守秀綱「永正五年(1508年)」は10代で兵法を松本備前守政信や塚原ト伝高幹「延徳元年(1489年)」に、それぞれに鹿島・香取などの兵法を学び、その後、念阿弥慈恩にはじまる念流をも学び、その流派の名でも察せられるように、愛洲移香斎久忠にはじまる陰流を中心に諸流を勘案して神陰流としたのではないかと思われる。


陰流を誰から学んだかについては、享禄二年(1529)秀綱二十二歳のとき、七十八歳の移香斎から陰流の皆伝されたという説(「正伝新陰流」)と、陰流二代の小七郎から学びはしたが、それはヒントを得たにすぎず、松本備前守政元の鹿島神陰流(神流)を主流としたもの、とする説(「上毛剣客史」) がある。もし伝書史料によって判断するならば、「正伝新陰流」の説をとらざるをえない(「日本剣豪史」)。




鹿島神流「五ヶ之法定」と称される基本原理の各真理(動静一体・起発一体・攻防一体・虚実一体・陰陽一体)の均等なバランスの上に結晶した剣術の極意技と見なすことができます。さらに形而上学的なバランスをも導入した鹿島神流の武術の真髄は、第十二代師範家の國井大善源栗山によって編み出された「無想剣」に見て取ることもできます。一之太刀が五ヶ之法定を「新当の理法」に照らして洗練した技であるのに対して、無想剣は五ヶ之法定を「気当之事」に照らして洗練した技だと言えるのです。このような、神武の精神を希求してひらめきと工夫の下に産み出された技が突出することなく他の技と共に武術体系の一部として内包されているのが、鹿島神流なのです。


また、哲学的基本原理としての五ヶ之法定と並んで、物理的基本原理としての「方円曲直鋭」が鹿島神流の重要な要素であることも指摘しておかなければなりません。それは、全ての技を螺旋運動として操るための基本法則だとも言えます。究極的に「宇宙創元の理」へと収斂すべき鹿島神流の教義では、武術をも発顕・還元・推進を繰り返す無始無終の自然現象として捉えているのです。鹿島神流の構を例にとれば、それは技の起こりの形であると同時に技の最終形であり、動きを内在した静止状態だということになります。
現在の鹿島神流は、第十八代師範家の國井善弥が能力の極限まで武術の修練を重ねつつ、代々伝承されてきた技の各々を五ヶ之法定の下に再検討し、日本神武の精神の中核をなす「武甕槌命の包容同化の剣」に再び昇華させたものです。この武術内容は、第十九代師範家の關文威が護持・継承してのち、現代教育に適した形態で次世代へと講武されています。鹿島神流武術の特長は綜合武術であることです。その技のすべてが表裏一体の性質を持っており、表業は剣術・懐剣術・抜刀術・杖術・薙刀術・槍術などに、裏業は柔術・棒術などに分類することができます。そして、表業を遣っている場合でも、相手との状況変化に応じて裏業へと転ずることになります。それらすべての技は同じ基本原理で具現されるため、基本的な技の熟達が剣術と柔術で達成されれば、長物やそれらへの対処を含む武芸十八般にわたる自在な技の操行が可能になるのです。