上野国桂萱郷上泉(前橋市上泉)、上泉伊勢守信綱(武田信玄に招聘されるも武者修行を申し立て上州からで郷した際、信玄より一字を貰い、名を秀綱から信綱と改めたという)、新陰流の始祖で陰流を誰から学んだかについては、享禄二年(一五二九)秀綱と名乗っている二十二歳のとき、七十八歳の愛洲移香斎久忠から陰流を皆伝されたという説(「正伝新陰流」)と陰流二代の小七郎から学びはしたが、それはヒントを得たに過ぎず、松本備前守正元の神道流を主流としたもの、とする説(「上毛剣客史」)がある。
ここでは伝書史料によって、「正伝新陰流」の説をとることにした。
その中には疋田豊五郎景兼(疋田陰流)とその門弟山田浮月斎そして、丸目蔵人佐長恵(タイ捨流)がいた。
将軍足利義輝、神後伊豆守(足利将軍兵法師範)、疋田文五郎(関白秀次師範)、柳生石舟斎(徳川将軍師範、尾張徳川家師範)、宝蔵院胤栄、丸田茂人佐、奥山休賀斎(徳川家康師範)など当時の剣の達人と云われた殆どの人物が彼の門人になっている事実は彼の剣術が如何に他の剣豪を超越していたのか伺えます。また柳生石舟斎を無刀取りの技で制した事からもその人格と技の超人ぶりが伺えます。
彼の神懸り的な技から剣聖と呼ばれるようになったわけです。しかしこの時代、なぜ出会っていなかったのか・・・恐らく対峙したら塚原卜伝(1489年生)も彼の門下生になったのでは・・・