柳生の里
正統新陰流継承につきましては尾州(尾張)徳川家指南役、柳生利厳(兵庫助)が印伝を得ています。有名なのは三男の柳生厳包(連也斎)がいる。柳生家の中で一番の使い手ではないか思います。
宮本武蔵につきましては、吉川英治氏の小説のイメージがあり、ほとんどが作り上げられた人物である。
武蔵については三人の武蔵と名乗った人物がおり、その一人が細川家で最後に書き残したとされる五輪の書がある。
剣術の歴史からこの人物に剣豪とか剣聖など呼んでいただきたくない。
宮本武蔵は、天正12年、(1584年)豊臣秀吉と徳川家康が、小牧長久手で戦かっているころ、美作の国吉野郡宮本村に生まれた。(諸説の一説)
トビ色の目をして、色白で、鼻が高く、骨太の長身であり、頭も髷を結わず総髪にしていて、バテレンの血を引いているような風格をしている。そして、想像以上に教養があっただけでなく絵や彫刻に優れている。(西欧ルネッサンスの天才に通ずる。)
細川家に仕官した時には、 身分 は”客分” 扶持は”17人扶持 玄米300俵”。 席次は、”大組がしら格”” 殿(細川忠利)に拝謁 随時”という資格です。忠利が、病床で武蔵に、『己の兵法の奥義、古今伝授(忠利の祖父、細川藤孝公が大和文化の神髄=古今和歌集の奥儀を、後陽成天皇の弟である八条宮智仁親王に伝授した)をしたためたらどうか』という勧めに従い、《兵法35ヶ条》を書き上げて、忠利公に言上した。
忠利死後、武蔵は寂寥感の中、熊本城西方金峰山の有明海に臨む金峰山支峯である岩戸山の霊巌洞に篭り、《兵法35ヶ条》をもとに、《五輪書》を書き始める。
(注) 五輪 密教で、物質構成の要素である五大要素を円輪に擬していう語。地輪・水輪・火輪・風輪・空輪)から取ったのではないかと思われる。
トビ色の目をして、色白で、鼻が高く、骨太の長身であり、頭も髷を結わず総髪にしていて、バテレンの血を引いているような風格をしている。そして、想像以上に教養があっただけでなく絵や彫刻に優れている。(西欧ルネッサンスの天才に通ずる。)
細川家に仕官した時には、 身分 は”客分” 扶持は”17人扶持 玄米300俵”。 席次は、”大組がしら格”” 殿(細川忠利)に拝謁 随時”という資格です。忠利が、病床で武蔵に、『己の兵法の奥義、古今伝授(忠利の祖父、細川藤孝公が大和文化の神髄=古今和歌集の奥儀を、後陽成天皇の弟である八条宮智仁親王に伝授した)をしたためたらどうか』という勧めに従い、《兵法35ヶ条》を書き上げて、忠利公に言上した。
忠利死後、武蔵は寂寥感の中、熊本城西方金峰山の有明海に臨む金峰山支峯である岩戸山の霊巌洞に篭り、《兵法35ヶ条》をもとに、《五輪書》を書き始める。
(注) 五輪 密教で、物質構成の要素である五大要素を円輪に擬していう語。地輪・水輪・火輪・風輪・空輪)から取ったのではないかと思われる。
しかし、新陰流の印伝、目録などに武蔵が書き残したとされる五輪書には書き写したとされる同様の記述がある。
鹿島塚原卜伝