剣聖塚原ト伝には愛妻家の一面があったようです。 | かねこよういち

NHKの塚原ト伝をみておりますが、平成NKHの演出でしょうか・・・

鹿島の像



かねこよういち



塚原ト伝の愛妻ぶりを少々記してみます。


茨城県鹿島町の須賀というところにある塚原ト伝の墓には、「宝剣高珍居士ドと「仁甫妙宥大姉」の二つの戒名が刻まれていますが?……というのは、その墓が苔むし、風化して、刻銘が判然としないからであり、前者は、いうまでもなくト伝の法名だし、後者はその本妻のものである。夫婦が合葬されるのはめずらしいことではないが、生涯を回国修行におくったト伝を知っているわれわれは、ちょっと奇異な感じを受けるのである。

 塚原ト伝は三度、郷里を飛び出している。最初は十七歳のときで、このときは三、四年間の武者修行ののちに帰郷している。二度目は、新当流をおこした三十四歳のときからの回国修行である。

 この期間がどれくらいにわたったか定かでないが、ともかく五十六歳のときに帰郷していることが史料によって明らかである。三度目はその後から六十八歳まで。そして元亀二年(一五七一)生地の鹿島でかれは八十三歳で歿した。まさに生涯の半分を他国で暮らした男であった。

 このような男を亭主にもった妻が幸福だったか不幸だったか、それは他人の詮索することではない。

 今日、伊勢の松坂の近くの山上には塚原公園というのがある。そこに「ト伝屋敷跡」かおる。門人の伊勢国司北畠具敷からあたえられた屋敷だそうで、かれはここに永く妾と同居したということである。しかし一夫一傍訓でないそのころの慣習を考えれば、これも本妻にとって必ずしも不幸の材料になったとはいえないようである。

 だが本妻の幸不幸はともかく、永く家を留守にすることの多かったト伝は、自分の妻に対して深くざんげするところがあった。

 前に五十六識のときにはすくなくとも郷里鹿島にいたことを証明する史料があるようである。実はこの年かれの本妻が亡くなり、ト伝はその永代供養のために根本寺へ田畑を一反歩寄進しているのである。

 しかもかれは、このとき自らの法名も受けている。墓に刻まれた法名はその時のものである可能性がある。

 このことを、ト伝のその本妻に対する罪ほろぼしでは・・・


かねこよういち