現存する伝真田信繁写本『源家訓閲集』に収録の「夢想剣心法書」には、1595年(文禄4年)7月のもので署名が「外田一刀斎他二名」とある。
外田一刀斎とは鐘捲自斎の別名でもあり、自斎も経歴のよくわからない人物である。
伊藤一刀斎は出身地など確立の高い出生は大島となっているが?
事実は伊藤一刀斎景久と鐘捲自斎の両者の事績が重なっている可能性もあると考えられる。
一方、柳生氏の記録『玉栄拾遺』の注記には、一刀斎の師は「山崎盛玄」とされている。
「名人越後」と称された富田重政(富田流)の弟(兄とも)に山崎左近将監景成「山崎盛玄とのいう」(私の小説の中でも師としています)があり、剣名が高かった。
あるいはこの山崎景成である可能性もある。
以上を踏まえ、私の小説の内容にはドキュメンタリー性を重視した戦国時代を生きた他の剣豪、武将など書いてある。
又、明智光秀と南光坊天海(智楽院)大僧正は一部のいい加減な歴史評論家が同一人物と評してしるが、何を調べているのか笑ってしまう。
年齢など資料を調べていった結果、明智光秀の若いころ下女に産ませた隠し子で幼い頃より比叡山延暦寺で修行をさせている。
天海諡号は慈眼大師。徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した)一部の歴史家が明智光秀と天海(天海の前半生は不詳で随風と号して出家した後、14歳で下野国宇都宮の粉河寺の皇舜に師事して天台宗を学び近江国の比叡山延暦寺や三井寺、大和国の興福寺などで学を深めた。
織田信長により比叡山が焼き打ちに合うと武田信玄の招聘を受けて甲斐国に移住する。その後、徳川家に関わり、さらに上野国の長楽寺を経て武蔵国の無量寿寺北院(現在の埼玉県川越市。後の喜多院)に移り、天海を号したとされる。
又、明智光秀と京都吉田神社の吉田 兼見(よしだ かねみ)との関わりなど・・・
吉田兼見は堂上家(家格は半家、卜部氏)である吉田家の9代当主(卜部氏25代)である。
この人物の残した、『兼見卿記』の著者も資料として興味あるものです。
戦国時代の京都の吉田神社神主の神道家で、『兼見卿記』の著者。細川藤孝(幽斎)の従兄弟にあたるこの人物との接点が浮上している。・・・本能寺の変の前に何があったか・・・「鬼夜叉一刀斎」をどうぞ読んでください。