寛文6年12月27日(1667年1月21日)―享保20年3月26日(1735年4月18日)
常陸下館藩主。上野沼田藩の初代藩主。久留里藩黒田家初代。
旗本・中山直張の三男。母は黒田用綱の娘。正室は柳沢吉保の養女(折井正利の娘)。子に黒田直亨(次男)、娘(奥平松平忠暁正室)、娘(黒田直基正室のち黒田直純正室)、娘(九鬼隆寛正室)、娘(内藤政醇正室)らがいる。
養子は黒田直基、黒田直純。
官位は従五位下、従四位下、豊前守、侍従。墓は、埼玉県飯能市多峯主山(とうのすやま)。
寛文6年(1666)12月27日生まれ。幼名は三五郎。初名は直重。後に直邦。
外祖父・黒田用綱の養子となり、延宝8年(1680)徳川徳松の側近として仕えた。
徳松早世後、小納戸役や小姓を歴任。元禄9年(1696)には7000石に加増され、
元禄13年(1700)1万石を領して大名に列する。元禄16年(1703)に常陸下館に封ぜられ、享保8年(1723)には奏者番、寺社奉行を兼任する。
享保17年(1732)3月、下館から沼田に移封され、同年に武蔵国内で5000石を加増された。
「学を好み、欲のない人となりの良い人」 というように、名君として賞賛された。
享保20年(1735)3月26日、江戸で死去し、後を養嗣子の直純が継いだ。
この黒田直邦の墓は、多峰主山頂の近くにあって、葬った地点に石を置き石柵を設けその前に墓碑を建て、墓前右手に太宰純(春台)の撰ならびに書なる頌徳碑があります。
黒田直邦は、丹党中山氏からのでで、外祖父黒田直相に養われてその氏を弥しました。
墓銘に 「丹治直人」 と丹党の性が記されています。
若いころ5代将軍綱吉に仕え30人扶持を拝したのが仕官のはじめでした。
それから8代将軍吉宗まで、4代50余年も歴任して信任が厚く、ついに侍従となり老中にまでなって、上州沼田城3万石の大名になりました。
なお、黒田氏は二代直純のとき、上総久留里城主に転じ、飯能地方の領主に変わりなく明治維新に及んだ。黒田氏歴世の墓は能仁寺墓地にある。
飯能地方を領したのは宝永4年(1707)以後で、黒田直邦の祖先中山家勝の建てた能仁寺を中興し、寺領50石の大寺としました。