一つは近江石部城の攻略があり、長年にわたって信長に抵抗してきた六角承禎・義治父子も遂に本国を追われるに至り、羽柴秀吉による今浜城の普請、長浜への改称と合わせて近江一国の支配固めが進んでいた。また、山城でも将軍足利義昭追放後に帰服した三淵藤英の伏見城を廃城とし、細川昭元も槙島城から本能寺に移してしまい塙直政を山城守護に任じて、その槙島城に入れている。
しかし、正月以来不安定な越前の情勢はさらに悪化し、前年八月に従兄義景を自殺に追い込み、信長に帰順した朝倉景鏡(改名後は土橋信鏡)は一向一揆との戦いで敗死し、同じく信長に従っていた朝倉(篠河)景綱も敦賀に逃れた。武田勝頼は二月の美濃攻めから一転して遠江に鉾先を向け、高天神城を包囲した。このほか、足利義昭も島津義久を誘うなど、反信長勢力の活動も活発化していた。
この戦国時代の男たちは何よりも強くなくては生きることができなかった。当然のこと国主領主も強い戦力を持つ者の配下についた。また、多くの国主は身分に関係なく強い「もののふ」を求め、技量に応じた石(大名・武士などの知行高を表す単位)を与え、指南役として戦いに勝つための武芸を任せていた。
ここに「もののふ」を目指す武芸の道、生きる手段としてのひとつ動機があったのである。
武芸とは弓術・馬術・槍術・剣術・水泳術・抜刀術・短刀術・十手術・手裏剣術・含針術・薙刀術・砲術・捕手術・柔術・棒術・鎖鎌術・もじり術・隠形術をいい、一般にこれらを武芸十八般といっている。
この主人公である伊藤一刀斎景久は四国から大島へ流された武士伊藤入道景親の後裔で、伊藤弥左衛門友家の子として永禄三年(一五六〇)に伊豆大島で生まれ伊藤孫六友景と名付けられたが、両親は幼少の頃、無頼の族に殺され、その後は前原という養親に預けられ、前原弥五郎友景と名乗り、『天下一の剣豪』になるという己の生る糧を求め、その強い意思と信念を持っていた。
この『弥五郎』とは厄を負わせて送り出したり、焼き捨てたりする藁人形の一種の呼び名であった。
十四歳になった弥五郎は意を決し、六月の梅雨入り間もない頃、伊豆大島野田浜から舟に乗り下田の湊へ向かったが、突然のしけに遭い舟は大破、大海に投げ出された弥五郎は積んでいた椿木の木に夢中でしがみつき風と潮流の赴くまま流されてたどり着いたのが伊豆伊東宇佐美の浜であった。
汚い褌姿、赤
銅褐色した体には筋肉が隆々と波打ち、全身ずぶ濡れにも拘らず頭の毛は逆立、眼光は鋭く、辺り一面に殺気を漂わせている。この時すでに身長五尺六寸(一七一㎝)もあり、この時代の男としては大きく、大島ではいつも棒切れを持ち歩き、気に障ることがあれば見境無く暴れ廻って人に危害を及ぼし、その異様な風貌をした厄介者の弥五郎を『鬼夜叉』と呼んでいた。