出てくると思いましたよ、後出しジャンケン的なこういう記事。

 

昭和天皇の御写真はこのコラージュ作品だけではなく、馬上の御写真もありました。

複数の御写真が燃やされて、その灰を靴底で踏みにじるその映像のどこが、誤解なんでしょうか。

 

日本人の質がここまで下がってきていたとは、開いた口が塞がりません。

批判が出たら言い訳、見苦しいったら!

そういう作品を作ったのなら、最後まで堂々と主張すればいいわ。

ただの頭の可笑しな人としか思いませんけどね。

自由をやりたい放題と履き違える馬鹿に、芸術だ表現だ語る資格はない。

 

【「表現の不自由展・その後」中止事件と「天皇の写真を燃やした」という誤解】

https://blogos.com/article/397354/

(一部抜粋)

「天皇の写真を燃やした」という誤った情報

 抗議の大きな矛先は、慰安婦問題をテーマにしたいわゆる「平和の少女像」をめぐってで、韓国との緊張関係が続いている時にけしからんという政治的反発が起き、河村たかし名古屋市長や菅官房長官ら政治家の発言がそれに火をつけて抗議電話が殺到するという状況になったわけだ。そこに天皇の写真を燃やす映像も流れていたらしいという話が加わって騒動が大きくなったのだが、でも天皇の写真を燃やしたというのは誤解で、そういう事実はない

 少女像と並んで、「昭和天皇の写真を燃やした」と抗議の対象になっていた美術家の大浦信行さんとは以前からの知り合いで、もともと「表現の不自由展」に出品することになったきっかけは、私が『創』に書いた記事だ。その記事を収録した私の新刊『皇室タブー』を大浦さんに送付し、8月3日に電話でそれについて話したのだが、まさにその電話の最中に、名古屋で大村愛知県知事が会見、中止を発表したのだった。

 私はウェブNHKで中継映像が流れるのを見ながら大浦さんと話していたのだが、その日までは「少女像の展示中止か」という話だったので、大浦さんもその前提で話していた。そして私が「大浦さん、これ少女像だけでなく企画全体が中止という発表だよ」と話すと、大浦さんは「え、それはありえない」とショックを受けていた。

 その後、8月4日か5日に津田さんから中止を説明する電話があったようだが、8月7日に議員会館での抗議集会で発言した別の出展者・中垣克久さんも、中止について出展者に事前説明がなかったことを問題にしていた。

 ちなみにこの7日の集会は、「九条俳句」の支援活動をやってきた市民らが中心となって発足した「表現の自由を市民の手に 全国ネットワーク」などが主催したもの。8月17日にも文京区民センターで映画上映と集会を開催する予定だ。

芸術作品を政治的文脈で矮小化

 さて大浦さんについて言えば、8月4日付産経新聞は、こう報道している。

《元慰安婦を象徴する「平和の少女像」のほか、昭和天皇の写真を燃やすような動画作品に批判が殺到するなど議論を呼んだ》

《軍歌や朝鮮民謡などが流れ、昭和天皇の肖像写真がメラメラと燃えていくーー。今回の展示で、批判の多かった動画作品のひとつだ》

 会場で見た客に話を聞いて記事にしたのだろうが、その動画で燃やしていたのは大浦さんの作品で、そこに確かに昭和天皇もコラージュされているのだが、「天皇の写真を燃やした」というのとは意味合いが違う。正確な報道にするために、せめて作品について説明する時に関係者に確認取材くらいはしてほしいと思う。

 なぜならば産経を見て4日に抗議電話を行った人もいたはずで、4日には抗議の約4割が大浦さんの作品に対してだったという。大浦さんはこう言っている。

 私は大浦さんの主な作品は、映画も含めてほぼ見ているが、今回会場で流した動画は、来年公開の新作の映画の一部も含まれていたという。大浦さんの映画はなかなか難解で、単純な天皇制批判といったメッセージ性の強いものを期待して観に行くと、期待と異なることになる。代表作である版画「遠近を抱えて」を含め、単純に政治的文脈で捉えてはいけない芸術作品なのだ。

 大浦さんの作品とそれがどんなふうに受け止められてきたかを紹介するのは、今回の中止事件を考えるうえで参考になると思うので、ここで以前の『創』記事を収録した新刊『皇室タブー』の一部を引用しよう。

大浦作品に登場する昭和天皇の意味

 《大浦さんは若い頃から美術家を志し、ニューヨークへ渡る。10年ほどに及ぶニューヨーク滞在中の32~33歳の頃に描いたのが「遠近を抱えて」の連作だった。そこで昭和天皇がどんなイメージとして浮かび上がったのか、本人に改めて聞いた。

 「昭和天皇は、子どもの頃、学校から国体を観に行った時に実際に目にしたことがありました。僕は駒沢に住んでいたんですが、駒沢競技場で開催された国体を観に天皇・皇后夫妻が来ていたんです。でもそれに限らず、僕は戦後生まれですが、天皇は新聞とか雑誌で身近に見ている存在でした。学生運動をやってて、反権力の観点から天皇制を批判したとか、そういうイデオロギー的な関心じゃないんです。むしろニューヨークへ行っていたことで、子どもの頃とまた違う意味で天皇を相対化して見れたと思うんですよね。

 そもそも僕は、社会や現実と向き合わないところがある日本の美術界に疑問を感じて、ニューヨークで美術家をめざそうとしたのです。でも見知らぬ土地へ行って作品を描いていてのれんに腕押しみたいな感じがあって悩んでいたんですね。

 そうしたなかで、ある時、自分自身を描けばいいんじゃないかと思いついた。もちろんただ自分の顔を描くという意味ではなくて、自分の内なるものを描いてみたいと思ったのです。『心の問題としての自画像』ですね。なんかこう、心の中の変化・変遷してゆく自分を描きたい、と。

 そう考えている時に、天皇と自己を重ね合わせることを思いついたんです。自分の中に無意識にあるだろう“内なる天皇”というイメージですね。自分の中に無意識に抱え込んでいた“内なる天皇”を自画像を描くなかで描いてみたいと思ったんです」

 あなたにとって昭和天皇とは何ですか? その問いをもう私は何度も大浦さんに投げているのだが、自画像だ、天皇も自画像だ、とわかったようなわからないような返事が返ってくる。しかし、話を総合すると、海外へ行って自分のアイデンティティを模索するなかで天皇に行き着いたということらしい。確かに天皇、特に昭和天皇というのは、一定以上の世代の日本人の深層心理に影を落としている可能性がある。我々にとってそういう存在なのかもしれない。

 戦前の人たちにとっては、天皇の写真は「御真影」だった。しかし、戦後生まれの我々の世代には、それとは別の意味で天皇の像が自分たちの中に埋め込まれている気がしないでもない。

 「遠近を抱えて」の14点の版画の中には、昭和天皇の若い頃のコラージュも登場する。たぶん平成以降の世代の人たちにとっては、それは昭和天皇であることもわからない。「これは誰?」という存在でしかないだろう。天皇のイメージはそんなふうに、同じ日本人でも世代によって異なる。》

 《その天皇のイメージと、それを畏怖するという皇室タブーとが密接に関わっていることは間違いない。それは本書がテーマにしている「皇室について日本人の持っているタブー意識とは何なのだろう?」という問いにも通じているような気がするのだ。

 右翼の抗議を受け、危険な目にあいながら、なおも作品の中に昭和天皇を登場させる大浦さんのこだわりはいったい何なのか、改めて考えてみたいと思った。》

「天皇制を批判するために天皇の写真を燃やしたという、そういう政治的な文脈で受け取られたのかもしれませんが、それは全く違います」

(以下略)

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コラージュに使うこと自体が頭おかしいですがね。

昭和天皇の御写真のある作品を燃やし、そのお顔を意図的に拡大している時点でアウト。

言い訳が見苦しすぎる。

きっとここまで日本国民が嫌悪感を抱くとは思ってなかったんでしょうね、天皇制反対のパヨクには。そこが浅はかなのよ。

 

>自分の中に無意識に抱え込んでいた“内なる天皇”を自画像を描くなかで描いてみたい

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恐れ多いにもほどがあるわ!自分を天皇陛下と同一視するって?

表現の自由飛び越してますよ、芸術家なんて名乗ったもん勝ち。最低だわ。