花山、常子に礼を言う3
『その戦争は昭和16年から20年
まで続きました。それは言語を絶する
暮らしでした。・・・・・・・・
あの忌まわしく空しかった
戦争のころの記憶を
私たちは残したいのです。
あのころまだ生まれていなかった人
たちに戦争を知ってもらいたくて
まず、一冊に残したいのです。
・・・・・・・・
どんな短い文章でもかまいません。
ぺんをとり
私たちのもとへお届けください。』
花山は雑誌に戦争体験募集の
文章を書いてのせた。
その二か月後・・・
朝、常子たちが出社すると
島倉が大変ですと言って
常子に二階に来るように言った。
そこには、花山がでてきていた。
まだ、悪いと聞いていたので
常子はご自宅に帰ってくださいという。
花山は仕事をしなくてはいけないと
いいきるが、常子は「ご家族の思いも
さっしてお帰り下さい。部下にまかせる
事もしてください」といった。
花山は、納得した様子だったが、
美子たちが読者の戦争体験の
手紙が入った箱をもってきた。
かなりの量である。
花山はそのうちの一通を
手にとり文章を読んだ。
死にゆくわが子の様子が
書かれたものだった。
骨と皮になった幼いわが子
に、お手玉をもたせると
よわよわしく笑ったことが
書かれている。
何もしてやれない親の悲しみが
伝わってくる。
美子は「どれも胸が締め付けられる
ような内容です」といった。
常子は
「全部持って帰ってよんでください・
編集会議を開いて、その内容もお知らせしま
すのでご安心ください」という。
会社と花山宅の往復は大変だが
やると常子は言った。
花山は手紙を読みながら
「できれば、全部雑誌に載せたいな・・」
とつぶやいた。
常子は、「だったらそうしましょう」という。
「雑誌まるまる戦争の暮らしをテーマに
しましょう。」
花山は反発があるのではというが
常子はやるという。
新しい試みに社員は笑顔になった。
こうして、戦争特集の雑誌を作り
はじめた。
写真も集めた。
戦争を伝えられるように工夫をした。
そうこうしているうちに
花山は体調を崩して入院することに
なった。
美子が
病室へ原稿を届けにいった。
「誰かこの原稿を私より先に
みたのか?」と花山が聞くと
美子は常子が、読んで
チェックを入れたという。
花山は「なるほど」と
納得したが、「まだまだだな」と
赤鉛筆を
もって、校正をはじめた。
その夜、常子は仏間で
仕事の資料を読んでいた。
鞠子がお茶をもって入って
きた。
鞠子は
家で常子が仕事をするのは
花山と喧嘩して花山が出ていった
時以来だという。
「手伝えるところは手伝いますよ」と
いった。
美子が帰ってきて花山の様子を伝えた。
そして原稿を常子に渡すと
赤ペンだらけの原稿に
常子は苦笑いをした。
さっそく、鞠子に手伝ってもらい
ながら、三人はそれぞれ同じちゃぶ台
で仕事をした。
やがて戦争特集のあなたの暮らし
32号が
発売された。
写真がふんだんにあり
わかりやすい文章だった。
会社には注文の問い合わせの
電話がなり、増刷がかかった。
たまきは
「常子さん==」と
常子に、読者からの感想の電話を
伝えた。
「後世に残せる一冊だ」といったという。
反発があるかと思ったら
大評判だった。
常子は
うれしいというよりほっとした。
この時のあなたの暮らしは
100万部を超えた。
********************
終戦の8月15日のことを
花山は常子に語ったことが
あった。
病気にかかり
戦地で戦えなくなった花山は
帰国後なにか戦争のお手伝いが
できる仕事はないかとさがした。
そんな時内務省の仕事が
きまった。
国民に進め火の玉・・とか
欲しがりません、勝つまではと
いう標語を発表したり
鬼畜米英といってののしることを
教えたりの仕事が内務省だった。
花山は言葉で国民を戦争にかりたて
悲惨な思いをさせてしまったと
後悔した。
焼夷弾は怖くない。
バケツリレーで火を消せばいい
と教えたので
逃げ遅れて焼け死んだ人が
たくさんいた。
この戦争がいいのか
悪いのかを議論するような
社会でもなく
国が決めたことを
ちゃくちゃくと
進めていくために言葉を
つかって国民を戦い
の場に送り込んだことを
花山は悔しく思った。
そして、言葉の恐ろしさを
しり、二度と編集の仕事は
しないと決めたといった。
それから、20年以上たって
花山は戦争は反対だという
自分の気持ちを伝えられる
あなたの暮らしという雑誌に
自分が考えていた
企画を乗せることができた。
花山はある意味
罪滅ぼしをしたと
おもえただろうか。
100万部も売って
買った人は
みんな戦争の残酷さを感じて、
戦争はしてはいけないと
心に刻んだに違いないと
おもう。
内務省では、戦争に勝つため
に国民をたきつけるような
言葉の仕事をしたが
戦後、花山があなたの暮らしで
かかわった仕事は
日本の暮らしが豊かになる
ようにという目標と
二度と戦争はおこしては
ならないというメッセージを
残すことができた。
32号は後世に伝わる一冊だと
思った。
『その戦争は昭和16年から20年
まで続きました。それは言語を絶する
暮らしでした。・・・・・・・・
あの忌まわしく空しかった
戦争のころの記憶を
私たちは残したいのです。
あのころまだ生まれていなかった人
たちに戦争を知ってもらいたくて
まず、一冊に残したいのです。
・・・・・・・・
どんな短い文章でもかまいません。
ぺんをとり
私たちのもとへお届けください。』
花山は雑誌に戦争体験募集の
文章を書いてのせた。
その二か月後・・・
朝、常子たちが出社すると
島倉が大変ですと言って
常子に二階に来るように言った。
そこには、花山がでてきていた。
まだ、悪いと聞いていたので
常子はご自宅に帰ってくださいという。
花山は仕事をしなくてはいけないと
いいきるが、常子は「ご家族の思いも
さっしてお帰り下さい。部下にまかせる
事もしてください」といった。
花山は、納得した様子だったが、
美子たちが読者の戦争体験の
手紙が入った箱をもってきた。
かなりの量である。
花山はそのうちの一通を
手にとり文章を読んだ。
死にゆくわが子の様子が
書かれたものだった。
骨と皮になった幼いわが子
に、お手玉をもたせると
よわよわしく笑ったことが
書かれている。
何もしてやれない親の悲しみが
伝わってくる。
美子は「どれも胸が締め付けられる
ような内容です」といった。
常子は
「全部持って帰ってよんでください・
編集会議を開いて、その内容もお知らせしま
すのでご安心ください」という。
会社と花山宅の往復は大変だが
やると常子は言った。
花山は手紙を読みながら
「できれば、全部雑誌に載せたいな・・」
とつぶやいた。
常子は、「だったらそうしましょう」という。
「雑誌まるまる戦争の暮らしをテーマに
しましょう。」
花山は反発があるのではというが
常子はやるという。
新しい試みに社員は笑顔になった。
こうして、戦争特集の雑誌を作り
はじめた。
写真も集めた。
戦争を伝えられるように工夫をした。
そうこうしているうちに
花山は体調を崩して入院することに
なった。
美子が
病室へ原稿を届けにいった。
「誰かこの原稿を私より先に
みたのか?」と花山が聞くと
美子は常子が、読んで
チェックを入れたという。
花山は「なるほど」と
納得したが、「まだまだだな」と
赤鉛筆を
もって、校正をはじめた。
その夜、常子は仏間で
仕事の資料を読んでいた。
鞠子がお茶をもって入って
きた。
鞠子は
家で常子が仕事をするのは
花山と喧嘩して花山が出ていった
時以来だという。
「手伝えるところは手伝いますよ」と
いった。
美子が帰ってきて花山の様子を伝えた。
そして原稿を常子に渡すと
赤ペンだらけの原稿に
常子は苦笑いをした。
さっそく、鞠子に手伝ってもらい
ながら、三人はそれぞれ同じちゃぶ台
で仕事をした。
やがて戦争特集のあなたの暮らし
32号が
発売された。
写真がふんだんにあり
わかりやすい文章だった。
会社には注文の問い合わせの
電話がなり、増刷がかかった。
たまきは
「常子さん==」と
常子に、読者からの感想の電話を
伝えた。
「後世に残せる一冊だ」といったという。
反発があるかと思ったら
大評判だった。
常子は
うれしいというよりほっとした。
この時のあなたの暮らしは
100万部を超えた。
********************
終戦の8月15日のことを
花山は常子に語ったことが
あった。
病気にかかり
戦地で戦えなくなった花山は
帰国後なにか戦争のお手伝いが
できる仕事はないかとさがした。
そんな時内務省の仕事が
きまった。
国民に進め火の玉・・とか
欲しがりません、勝つまではと
いう標語を発表したり
鬼畜米英といってののしることを
教えたりの仕事が内務省だった。
花山は言葉で国民を戦争にかりたて
悲惨な思いをさせてしまったと
後悔した。
焼夷弾は怖くない。
バケツリレーで火を消せばいい
と教えたので
逃げ遅れて焼け死んだ人が
たくさんいた。
この戦争がいいのか
悪いのかを議論するような
社会でもなく
国が決めたことを
ちゃくちゃくと
進めていくために言葉を
つかって国民を戦い
の場に送り込んだことを
花山は悔しく思った。
そして、言葉の恐ろしさを
しり、二度と編集の仕事は
しないと決めたといった。
それから、20年以上たって
花山は戦争は反対だという
自分の気持ちを伝えられる
あなたの暮らしという雑誌に
自分が考えていた
企画を乗せることができた。
花山はある意味
罪滅ぼしをしたと
おもえただろうか。
100万部も売って
買った人は
みんな戦争の残酷さを感じて、
戦争はしてはいけないと
心に刻んだに違いないと
おもう。
内務省では、戦争に勝つため
に国民をたきつけるような
言葉の仕事をしたが
戦後、花山があなたの暮らしで
かかわった仕事は
日本の暮らしが豊かになる
ようにという目標と
二度と戦争はおこしては
ならないというメッセージを
残すことができた。
32号は後世に伝わる一冊だと
思った。
