花山、常子に礼を言う2
突然花山が広島へ取材に出かけて
しまい、四日後に帰って来ると
いったため、花山の仕事が
たまっていた。
常子は今日は来てもらえるだろう
という。
そのとき、花山の妻三枝子から
電話があった。
東京駅で花山が倒れたという。
驚く常子はさっそく、病院へ
美子とともにかけつけた。
すると、花山はベッドの上で
原稿を書いていた。
どういうことなのかと
驚く常子に、三枝子は説明した。
「倒れたと聞いたときは気が動転
して、大げさに言ってしまった。」

花山は妻の心配も無視して
仕事をしている。
茜は常子に「急ぎの仕事が
あるのですか」ときく。

常子は「ないです」と答えた。
美子は花山が広島へ取材へ行く
話は聞いてなかったという。
なぜ広島へ行ったのかと
みんなが思ったのを察したのか
花山は「あの戦争の日々の暮らしを
残したいからだ」という。
「記録として、人々の暮らしがどれほど
悲惨なものだったのか、また工夫
されていたのかということを
企画したい」といった。
人々が普段の暮らしをだいじに
思うようになればもう二度と
戦争は起こらないだろうと
いう。
戦争は暮らしをめちゃめちゃにした。
当時は
何を食べ
何を着て
どんな暮らしをしていたのか・・・
其れを残したい。
忘れないように・・・
戦争を知らない世代にも伝えたいという。
しかし、広島へ行って取材をしていると
みんな話をしてくれなかったという。
もう忘れたい、とか
思い出したくないとか、
話したくないとか・・

しかし、花山は諦めないという。
美子が代わりに取材に行くというと
「実際戦地へ行った自分しかできない」
と断られた。
三枝子は「お体に障ります」と
いうが、花山は「死んでもいい、私は
死ぬ瞬間まで編集者でいたい」といった。
「取材をし
記事を書き
写真を撮り
校正で指を赤くした
現役の編集者でありたい、
わかるだろう。常子さん。」

常子は、三枝子や茜の気持ちを
思って、「認めるわけには
いかない」といった。
重い空気になった。

その夜、小橋家では
水田や姉妹たちたまきが
花山の話をしていた。
たとえ一週間で退院できても
大事を取らなければいけない。
広島などとんでもないと
医者は言ったという。
たまきは、それでも花山は
取材をしたいだろうと
いった。
常子は、どうすればいいのか、
あの時あの場所では
反対したけど・・・と
考えた。

私は現役の編集者でありたいという
言葉が引っ掛かった。

次の日、常子は花山に会いに行った。

そして、取材ではなく
読者のかたに戦争の体験を
募集しましょうと言った。
商品試験の騒動の中でも
雑誌を買ってくれた頼もしい読者を
信じましょうと
いった。
花山はそれで、質が高い記事になるのか
という。
常子は、自信をもって
「読者を信じましょう」と言った。
取材は必要なくなった。
だが、花山は「募集の文章は
私がかく」といった。

『その戦争は昭和16年から20年
まで続きました。それは言語を絶する
暮らしでした。
その言語に絶するあけくれの中で
人々はやっと生きてきました。
親、兄弟、夫や子供、大事な人を
失い、そして青春をうしない
それでも、生きてきました。

そして昭和20年8月15日
戦争はすみました。
うそみたいで
バカみたいで
それから
28年たってあの苦しかった
思い出は一辺の灰のように
人々の心の底に沈んでしまって
どこにもありません。

いつでも、戦争の記憶という
ものは、そういうものなのです。
あの忌まわしいく空しかった
戦争のころの記憶を
私たちは残したいのです。
あのころまだ生まれていなかった人
たちに戦争を知ってもらいたくて
まず、一冊に残したいのです。
もう二度と戦争をしない世の中
にしていくために、もう二度と
だまされないように
どんな短い文章でもかまいません。
ぺんをとり
私たちのもとへお届けください。』


二か月後
常子が出社した。
「おはよう」と
明るく、挨拶を交わした。
そこへ島倉という男性社員が
「大変だ~~~」と
いって
常子のもとにやってきた。
「どうしたの?島倉さん??」
なにがあったのだろうかと
常子は思った。
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常子のアイディアはすごいです。
読者に募集をするのは
もっともっと読者が
あなたの暮らしを身近に感じて
くれるし、一緒に
考えてもくれるという
読者がいてこその雑誌に成長すると
思いました。

なにしろ、読者はあなたの暮らしを
信用しています。

花山が編集者として
戦争の話を聞きたいと
取材をかけても
なかなか口を開かなかった
のは、口下手ではなく
何から話したらいいのか
そのまえに、この人は信用
できるのかと
思ったことでしょう。

でも、顔が見えないからこそ
匿名でも
ペンネームでも
本名でも

自分の原稿が役に立つ
のであればと
書いてくれるのではと
そこに気が付いた常子。

彼女の発想は
どんな人も必要な人に
かわります。
大塚が家事と育児と仕事に
悩んでいるのを知れば
大塚が必要なので
働く女性の気持ちや
職場での実態を
企画すれば
大塚の当事者としての能力が
行かされると思ったことでしょう。
たまきもそう思ったからこそ
大塚に取材を一緒にしてほしいと
頼んだと思います。

今度は花山があたらしいあなたの暮らし
の企画を考えています。
人々の戦争中の暮らしを
残して伝えたいとは
この雑誌ならではのことです。

働く女性の応援もさることながら
戦争の悲惨さを伝えることも
あなたの暮らしのありかたと
思ったことでしょう。
今日の放送で
「暮らしを考えることは
身近な平和運動である」と
・・・
花山からのメッセージでした。