常子、大きな家を建てる4
「小さな幸せというものなの
かしら。その積み重ねで今の幸せが
あるのね。
本当にありがとう。あなたたちは私の
一番の娘よ」
そういった君子が・・・
昭和40年1月
君子は73年の生涯を閉じた。
いただきます。
あさの食事は、竹蔵のころと
同じく、家族で食べる。
そこに君子がいない。
常子は、何を見ても君子を思い出す。
お椀の中のもみじ型の人参
に・・・
あのとき、君子がこれをつくって
「すごい」といったら
「見た目も楽しいほうがいいと思って」と
いった。
ふとみると
真由美がハンカチをおっている。
「こうすれば、きれいにおれるのよ」と
手ほどきをしていた君子をおもった。
『小さな幸せというものかしら
その積み重ねで今の幸せが
あると思うのよ・・・』
常子は、はっとして思いついた。
会社へ行ったとき
さっそく花山に
話しにいった。
それは、以前花山が何か書いてみないか
といったことの返事だった。
君子の葬儀のときは花山にも随分と
世話になり、そのお礼を言ってから
「じつは・・・
書くものを見つけた」といった。
君子から教わった小さな幸せを
書いてみたいという。
「何気ない日常の幸せをかきたい。
誰にもあって、でも気にもならない
だから
それをそっとお知らせするような・・・。」
「私は母から習ったことを伝える子供が
いません。
その代りに読者にそれを伝えたい」と
いうと
花山は「すぐに書け」と言った。
「何より私が読みたい・・・」と。
常子は笑って、机に向かい
原稿を出してペンを走らせた。
これはのちに小さな幸せという
記事になり、単行本になるほど
読者の支持をえた。
このころ日本は奇跡ともいえる
経済発展をなしとげ
世界第二位の経済大国と
なった。
あなたの暮らし出版は
多くの社員が女性であり
主婦である。
子育てをしながらの仕事も
制限があったりするが常子は
一人一人に配慮した。
そして女性の目線を大事にした。
1970年から
女性のファッション誌が多く
発刊された。
それは既製服であり、小物も
アクセサリーも、多くが
既製品だった。
この服には、このバッグ。
この靴をあわせるというファッション誌
であり、またブランドの紹介も
ある。
物がなくて手作りで
工夫して作る生活はどんどん変わって
いった。
あの戦争を知らない世代が
増えていく。
このころの働く女性の悩みと
いうと、時間のやりくりばかりでは
ない。
大塚澄子や、康江、綾は
母親が働いているというだけで
世間から
悪口を言われるという。
旦那の稼ぎが悪いから
貧乏だから
小銭がほしいから
だからあの奥さん働いて
いるのね
という感じである。
偏見があるのだ。
大塚は子供の母親として
働く母として
子供にいいものを作ってやる
時間がなくて、既製品が多くなる
のは、助かるという。
そんな時代である。
そんな昼すぎに
大学生になったたまきが
常子の会社へやってきた。
常子の仕事の忘れ物を届け
にきたという。
そして、スチームアイロンの
商品試験の現場を見て
目を輝かせた。
******************
昭和40年代・・・
私の記憶にも残っている時代
です。
新幹線やオリンピックは
あまり身近に思えなかった
けど、
昭和48年という背景の
シーンでは学生街の
喫茶店というガロの
歌が流れていました。
あのころの若者のファッション
といえば、ぼさぼさ
の頭に
すそがひろがった
パンタロンと呼ばれた
パンツ、ジーパン
大きなたった襟
に、柄のたくさん入った
ミニベスト。
でした。
ガロの学生街の喫茶店が
時代の象徴の歌として
チョイスしましたか・・・
昭和40年代といっても
・・・
流れが速くて
フォークソングブームのまえに
GSブームがありまして
エレキギターで
テケテケテケテケ・・・っていうのが
流行りまして・・
ブルーコメッツとか
ザ・タイガースとか
テンプターズとか・・・
たくさん出てきました。
それから、フォークブームで
した。学生フォークが
ややあって
昭和40年代の終わりごろに
吉田拓郎が登場します。
スター登場というのでしょうか。
自分で歌を作って自分で
歌うスタイルです。
学生フォークは、貧乏くさいのですが
吉田拓郎は素敵でした。
貧乏くさいで思い出しましたが
女性の敵は女性といわれていました。
うちの母も働いていました。
小学校の教師でした。
その職業を言わずに
母は働いていますというと
すごく、偏見にみちた反応がありました。
学校では、おまえんちは貧乏なんだなと
決めつけられました。
おそらく、お母さんが働いている
お家は貧乏なのよと
母親が教えるのでしょう。
ところがなぜか、女の子の友達は
「なにいうてんねん
この子のお母さん
がっこうのせんせんやねんで!!!!」
といってくれます。
私の代わりにです。
すると、わけのわからない
悪がきどもは
だまります。
「へえ???」っていって。
「お代官様~~~~~~」って
感じですね。
しかし、母が教師でなかったら
かなり、シビアな言われ方を
したと思います。
「貧乏なんやね」とか
「お母さん小銭を稼いで
いるのね」とか
「子供をほったらかして
いるのね」とか。
年に一回か、警察が家庭訪問
をして、家族の状況などを
聞きに来ます。防犯のためとか
いっていたような気がします。
もちろん、平日の昼間です。
メモを取りながら話すのですね。
「うちは母は働いています」という
と・・・
すごく横柄な雰囲気になり
「何だつまらん」と
いう感じで横目で私を見て
直立でメモを取っていたのが
ヤスメの姿勢に変えて
「それでぇ???お母さんは
帰って来る時間は何時ぃ???」
「夕方の六時かな。」
「ふんふん・・・でぇ???
何の仕事してるのやぁ???」
「小学校の教師です。」
「・・・・・・・!!!」
それを言ったとたん
やつは
背筋を伸ばして
しゃきんとして
敬礼までして
「それは
それは
失礼しましたっ!!!!」
っていうのです。
笑い話ですよ。
こっちは子供だから。
大人の横柄な態度は
よく見ることですので
かまわないけど
敬礼まですることないでしょ。
私は警視総監ではないの
だから・・・
これ・・・・
また次の年、人事異動で
警察官が変わると・・・
毎年繰り返されましたね。
「ご家族は何人ですか?
お父さんとお母さんと
あなたですか。
お父さんのご職業は?
お母さんは今日は
お留守ですか?」
「母は働いています。」
「なに?お母さん働いて
いるのぉ??
ふ~~~~ん・・(この辺で直立が
ヤスメになるのです)
・・・それでぇ?
何の仕事してるんやてぇ???」
「学校の・・・」
という具合に
これをいうと必ず
「失礼しましたっ」と言って
敬礼します。
田舎ですからね。
中には
「同じ公務員ですね」
といって
愛想笑いをする
やつもいました。
んなこと
子供に言うてもわからへん
やんか。
「小さな幸せというものなの
かしら。その積み重ねで今の幸せが
あるのね。
本当にありがとう。あなたたちは私の
一番の娘よ」
そういった君子が・・・
昭和40年1月
君子は73年の生涯を閉じた。
いただきます。
あさの食事は、竹蔵のころと
同じく、家族で食べる。
そこに君子がいない。
常子は、何を見ても君子を思い出す。
お椀の中のもみじ型の人参
に・・・
あのとき、君子がこれをつくって
「すごい」といったら
「見た目も楽しいほうがいいと思って」と
いった。
ふとみると
真由美がハンカチをおっている。
「こうすれば、きれいにおれるのよ」と
手ほどきをしていた君子をおもった。
『小さな幸せというものかしら
その積み重ねで今の幸せが
あると思うのよ・・・』
常子は、はっとして思いついた。
会社へ行ったとき
さっそく花山に
話しにいった。
それは、以前花山が何か書いてみないか
といったことの返事だった。
君子の葬儀のときは花山にも随分と
世話になり、そのお礼を言ってから
「じつは・・・
書くものを見つけた」といった。
君子から教わった小さな幸せを
書いてみたいという。
「何気ない日常の幸せをかきたい。
誰にもあって、でも気にもならない
だから
それをそっとお知らせするような・・・。」
「私は母から習ったことを伝える子供が
いません。
その代りに読者にそれを伝えたい」と
いうと
花山は「すぐに書け」と言った。
「何より私が読みたい・・・」と。
常子は笑って、机に向かい
原稿を出してペンを走らせた。
これはのちに小さな幸せという
記事になり、単行本になるほど
読者の支持をえた。
このころ日本は奇跡ともいえる
経済発展をなしとげ
世界第二位の経済大国と
なった。
あなたの暮らし出版は
多くの社員が女性であり
主婦である。
子育てをしながらの仕事も
制限があったりするが常子は
一人一人に配慮した。
そして女性の目線を大事にした。
1970年から
女性のファッション誌が多く
発刊された。
それは既製服であり、小物も
アクセサリーも、多くが
既製品だった。
この服には、このバッグ。
この靴をあわせるというファッション誌
であり、またブランドの紹介も
ある。
物がなくて手作りで
工夫して作る生活はどんどん変わって
いった。
あの戦争を知らない世代が
増えていく。
このころの働く女性の悩みと
いうと、時間のやりくりばかりでは
ない。
大塚澄子や、康江、綾は
母親が働いているというだけで
世間から
悪口を言われるという。
旦那の稼ぎが悪いから
貧乏だから
小銭がほしいから
だからあの奥さん働いて
いるのね
という感じである。
偏見があるのだ。
大塚は子供の母親として
働く母として
子供にいいものを作ってやる
時間がなくて、既製品が多くなる
のは、助かるという。
そんな時代である。
そんな昼すぎに
大学生になったたまきが
常子の会社へやってきた。
常子の仕事の忘れ物を届け
にきたという。
そして、スチームアイロンの
商品試験の現場を見て
目を輝かせた。
******************
昭和40年代・・・
私の記憶にも残っている時代
です。
新幹線やオリンピックは
あまり身近に思えなかった
けど、
昭和48年という背景の
シーンでは学生街の
喫茶店というガロの
歌が流れていました。
あのころの若者のファッション
といえば、ぼさぼさ
の頭に
すそがひろがった
パンタロンと呼ばれた
パンツ、ジーパン
大きなたった襟
に、柄のたくさん入った
ミニベスト。
でした。
ガロの学生街の喫茶店が
時代の象徴の歌として
チョイスしましたか・・・
昭和40年代といっても
・・・
流れが速くて
フォークソングブームのまえに
GSブームがありまして
エレキギターで
テケテケテケテケ・・・っていうのが
流行りまして・・
ブルーコメッツとか
ザ・タイガースとか
テンプターズとか・・・
たくさん出てきました。
それから、フォークブームで
した。学生フォークが
ややあって
昭和40年代の終わりごろに
吉田拓郎が登場します。
スター登場というのでしょうか。
自分で歌を作って自分で
歌うスタイルです。
学生フォークは、貧乏くさいのですが
吉田拓郎は素敵でした。
貧乏くさいで思い出しましたが
女性の敵は女性といわれていました。
うちの母も働いていました。
小学校の教師でした。
その職業を言わずに
母は働いていますというと
すごく、偏見にみちた反応がありました。
学校では、おまえんちは貧乏なんだなと
決めつけられました。
おそらく、お母さんが働いている
お家は貧乏なのよと
母親が教えるのでしょう。
ところがなぜか、女の子の友達は
「なにいうてんねん
この子のお母さん
がっこうのせんせんやねんで!!!!」
といってくれます。
私の代わりにです。
すると、わけのわからない
悪がきどもは
だまります。
「へえ???」っていって。
「お代官様~~~~~~」って
感じですね。
しかし、母が教師でなかったら
かなり、シビアな言われ方を
したと思います。
「貧乏なんやね」とか
「お母さん小銭を稼いで
いるのね」とか
「子供をほったらかして
いるのね」とか。
年に一回か、警察が家庭訪問
をして、家族の状況などを
聞きに来ます。防犯のためとか
いっていたような気がします。
もちろん、平日の昼間です。
メモを取りながら話すのですね。
「うちは母は働いています」という
と・・・
すごく横柄な雰囲気になり
「何だつまらん」と
いう感じで横目で私を見て
直立でメモを取っていたのが
ヤスメの姿勢に変えて
「それでぇ???お母さんは
帰って来る時間は何時ぃ???」
「夕方の六時かな。」
「ふんふん・・・でぇ???
何の仕事してるのやぁ???」
「小学校の教師です。」
「・・・・・・・!!!」
それを言ったとたん
やつは
背筋を伸ばして
しゃきんとして
敬礼までして
「それは
それは
失礼しましたっ!!!!」
っていうのです。
笑い話ですよ。
こっちは子供だから。
大人の横柄な態度は
よく見ることですので
かまわないけど
敬礼まですることないでしょ。
私は警視総監ではないの
だから・・・
これ・・・・
また次の年、人事異動で
警察官が変わると・・・
毎年繰り返されましたね。
「ご家族は何人ですか?
お父さんとお母さんと
あなたですか。
お父さんのご職業は?
お母さんは今日は
お留守ですか?」
「母は働いています。」
「なに?お母さん働いて
いるのぉ??
ふ~~~~ん・・(この辺で直立が
ヤスメになるのです)
・・・それでぇ?
何の仕事してるんやてぇ???」
「学校の・・・」
という具合に
これをいうと必ず
「失礼しましたっ」と言って
敬礼します。
田舎ですからね。
中には
「同じ公務員ですね」
といって
愛想笑いをする
やつもいました。
んなこと
子供に言うてもわからへん
やんか。
