常子、花山と断絶する1
あなたの暮らしは三万部売れた。
経理に水田を採用し
庶務に岡緑を採用した。
岡は、編集長の花山が苦手の様子
だった。
常子は仕事の進行表を花山にとどける
岡が不安そうにしているので
一緒に行ってあげると言って
ふたりは、編集長室へいった。
花山は相変わらず知恵の輪であそんでいた。
常子は大好評だった創刊号にひきつづき
二号はどんな特集にするのか
と考えていた。
花山も考えていた。
そして岡に君はどんな家に住んで
いるのかいと聞く。
焼け出されることがなかったため
普通の一軒家に住んでいるという。
この時代、家を失った人が多く
家を作りたいと願う人も多かった。
しかし、建築材の不足により
国は、12畳以上の家を作っては
いけないといった。
それゆえ、かなりの手狭な家にすむ
ことになり、生活の環境はなかなか
いいものではなかった。
花山は水田君はどんな家だと聞く。
水田は焼け出されたのでバラックにすんで
いるといった。
常子は、花山は住宅を特集したいのか
もと思った。
そこへ、東堂チヨから、常子に手紙が
きていた。
あなた暮らしをみて
常子を見つけたという。
あの服のモデルである。
東堂は、会社の住所を見て
手紙をくれた。
常子は、その手紙の住所をもって
東堂を訪ねた。
いまもなお教師をやっている東堂で
あるが、焼け出されて、家を失い
親戚の物置小屋に住んでいた。
なんと6畳一間である。
台所もなく親戚の家の台所を
貸してもらっている。
トイレもそうだろう。
ひさびさの恩師との再会に常子は
喜んだ。
だが、東堂は家の
あまりの狭さと居心地の悪さ
をなげいていた。
以前は、友人たちを招いたり
夫婦で楽しくお茶菓子を食べながら
その日にあったことや
感じたことを話し合ったりと
楽しい時を過ごしていたのにという。
何もかも焼けてしまった。
常子は会社に戻って東堂の家の悩みを
考えていた。
花山が二号の表紙のイラストをかいて
もってきた。
いい絵です・・と常子は言った。
そして、恩師が住んでいる
住宅環境の話をした。東堂の
家は特別ではない。
みんな、生活に追われている。
そんな人を救いたいと
常子は言った。
次の日曜日
常子は鞠子と美子とともに
東堂の家を訪ねた。
東堂が常子たちを呼んだのだった。
********************
バラックです。
水田が答えた。
水田が住んでいる家はバラックだという。
不法建築というが
戦後、そんな家があちこちにあった。
多くは、川のそばによくあって
川では水を汲んでいたのだろう。
ただ、もともと焼けた家の
水道が使える場所には
簡単な廃材で家を作って人が住んでいた。
トタンの屋根とか
石を積み上げた壁とか
廃材の材木で立てた
家である。
それでも立派な家だった。
昭和30年台半ばだが
私の家に家政婦さんが来ていた。
どこで彼女を見つけてきたのか
わからないが、その人が
わたしの世話をしてくれた。
阿川さんといった。
ある日、阿川さんの家に泊まりに
行くことになった。
うちから2キロばかり
離れていた。
はじめて、お邪魔したが・・
まさしく、バラックというか・・・
バラックよりはいいかもしれないと
思った。
夜寝るときはなぜか、天井から空が見える。
雨が降ったら雨漏りがするんだろうなと
わかった。
こんな家びっくりするだろうねと
おばさんが笑っていう。
嫌な顔をするのも気の毒なので
必死で平気な顔をした。
どんな家だろうとあっちこっちみて
見ようと思ったが
見るほど部屋がなかった。
畳も十分ではなかったような気がする。
ござだったか、むしろだったか・・・
家の外は土手になっていて
小さな畑が点々とあり
花を植えたり
野菜を植えたりと、活用されていた。
そこを通り越すと
川に出る。
大きな川だった。
わたしは、おばさんには申し訳
ないけど、面白いと思ったのは
最初だけ。
あとは、自分の家に帰りたいと
思った。
きっちり敷かれてある畳の上が
安心と思ったのだった。
母は、そんな話に、戦争で焼け出された人がたちが
いまだに、バラックに住んでいるという
話を私にした。
バラックとは・・・懐かしい言葉だが
なんだか、悲しい。
中学の時の友達の
家も、廃材で作った簡単な家だった。
天井を見上げると
小さな丸い、空が見えた。
夏はいいけど
冬は嫌だなと
思った。
あなたの暮らしは三万部売れた。
経理に水田を採用し
庶務に岡緑を採用した。
岡は、編集長の花山が苦手の様子
だった。
常子は仕事の進行表を花山にとどける
岡が不安そうにしているので
一緒に行ってあげると言って
ふたりは、編集長室へいった。
花山は相変わらず知恵の輪であそんでいた。
常子は大好評だった創刊号にひきつづき
二号はどんな特集にするのか
と考えていた。
花山も考えていた。
そして岡に君はどんな家に住んで
いるのかいと聞く。
焼け出されることがなかったため
普通の一軒家に住んでいるという。
この時代、家を失った人が多く
家を作りたいと願う人も多かった。
しかし、建築材の不足により
国は、12畳以上の家を作っては
いけないといった。
それゆえ、かなりの手狭な家にすむ
ことになり、生活の環境はなかなか
いいものではなかった。
花山は水田君はどんな家だと聞く。
水田は焼け出されたのでバラックにすんで
いるといった。
常子は、花山は住宅を特集したいのか
もと思った。
そこへ、東堂チヨから、常子に手紙が
きていた。
あなた暮らしをみて
常子を見つけたという。
あの服のモデルである。
東堂は、会社の住所を見て
手紙をくれた。
常子は、その手紙の住所をもって
東堂を訪ねた。
いまもなお教師をやっている東堂で
あるが、焼け出されて、家を失い
親戚の物置小屋に住んでいた。
なんと6畳一間である。
台所もなく親戚の家の台所を
貸してもらっている。
トイレもそうだろう。
ひさびさの恩師との再会に常子は
喜んだ。
だが、東堂は家の
あまりの狭さと居心地の悪さ
をなげいていた。
以前は、友人たちを招いたり
夫婦で楽しくお茶菓子を食べながら
その日にあったことや
感じたことを話し合ったりと
楽しい時を過ごしていたのにという。
何もかも焼けてしまった。
常子は会社に戻って東堂の家の悩みを
考えていた。
花山が二号の表紙のイラストをかいて
もってきた。
いい絵です・・と常子は言った。
そして、恩師が住んでいる
住宅環境の話をした。東堂の
家は特別ではない。
みんな、生活に追われている。
そんな人を救いたいと
常子は言った。
次の日曜日
常子は鞠子と美子とともに
東堂の家を訪ねた。
東堂が常子たちを呼んだのだった。
********************
バラックです。
水田が答えた。
水田が住んでいる家はバラックだという。
不法建築というが
戦後、そんな家があちこちにあった。
多くは、川のそばによくあって
川では水を汲んでいたのだろう。
ただ、もともと焼けた家の
水道が使える場所には
簡単な廃材で家を作って人が住んでいた。
トタンの屋根とか
石を積み上げた壁とか
廃材の材木で立てた
家である。
それでも立派な家だった。
昭和30年台半ばだが
私の家に家政婦さんが来ていた。
どこで彼女を見つけてきたのか
わからないが、その人が
わたしの世話をしてくれた。
阿川さんといった。
ある日、阿川さんの家に泊まりに
行くことになった。
うちから2キロばかり
離れていた。
はじめて、お邪魔したが・・
まさしく、バラックというか・・・
バラックよりはいいかもしれないと
思った。
夜寝るときはなぜか、天井から空が見える。
雨が降ったら雨漏りがするんだろうなと
わかった。
こんな家びっくりするだろうねと
おばさんが笑っていう。
嫌な顔をするのも気の毒なので
必死で平気な顔をした。
どんな家だろうとあっちこっちみて
見ようと思ったが
見るほど部屋がなかった。
畳も十分ではなかったような気がする。
ござだったか、むしろだったか・・・
家の外は土手になっていて
小さな畑が点々とあり
花を植えたり
野菜を植えたりと、活用されていた。
そこを通り越すと
川に出る。
大きな川だった。
わたしは、おばさんには申し訳
ないけど、面白いと思ったのは
最初だけ。
あとは、自分の家に帰りたいと
思った。
きっちり敷かれてある畳の上が
安心と思ったのだった。
母は、そんな話に、戦争で焼け出された人がたちが
いまだに、バラックに住んでいるという
話を私にした。
バラックとは・・・懐かしい言葉だが
なんだか、悲しい。
中学の時の友達の
家も、廃材で作った簡単な家だった。
天井を見上げると
小さな丸い、空が見えた。
夏はいいけど
冬は嫌だなと
思った。
