8月9日は、長崎に原爆が投下された日。

広島とならんで忘れてはならない日である。

広島は、人類史上初めての核爆弾の投下をうけた街であり、

長崎は、最後の投下にして欲しいと願う街である。

その長崎の高校生による、核廃絶の署名運動と、長崎を語っていく平和運動が10年を迎えた。ジュネーブの国連欧州本部を尋ねて世界の高校生へ平和の署名を訴える。

しかも、長崎の核による悲劇も伝える役目もあり、原爆投下によって終戦を迎えられたのだからよかったのではないかという、無知と偏見への挑戦をしている。高校生平和大使には、今回はじめて外国の高校生が採用された。

特に外国人の被爆者 故・李康寧(イ・カンニョン)さんの孫である韓国・釜山培正高二年の李建雨(イ・コンウ)君。また、ペルー人のオルテガ、マリアさんは、「小さなころからいろいろな国の人とかかわってきたので、日本に限らず、世界に被爆の悲惨さを伝えたい」と、語った。

韓国でも原爆で終戦になったのだからよかったのでは、という誤解があるという。

李君は、そんな友人達に被爆の悲惨さを伝え、決して過去のことではないと現実の核の脅威を訴えたいとしている。

原爆が終戦を呼んできたわけではない。当時の軍部には原爆を理解できる知識や情報などもっていなかった。もっていたら、おそらく戦争を始めることはしなかっただろう。

広島と長崎に新型爆弾が投下されたことだけではなく、徐々に襲ってくる本土へのB29の焼夷弾による攻撃に、国民は苦しめられていることと、マスコミによって、宣揚されていた神風の伝説や、まだ勝っていたころの勇ましい話や、アメリカ本土へ攻撃などの威勢のいいいいまわしに、国民は憧れそれを信じていた。

それがなぜか日本の空に敵機がやってきて、焼夷弾を落としていく。強い日本軍がそれをやっつけてくれるものと信じていたのに、裏切られていく。

そのことによって、国民はこの戦争は日本は負けているのでは、と感じ始めていた。それを口にすると、国民の士気が落ちると思ったのか、そのような発言をすると憲兵によってとらえられる恐ろしい時代であった。

軍への批判を公然と口にできないのだ。

そんな背景があったればこそ心ある指導者は、終戦への道を模索していた。ポツダム宣言がでたのは、1945年5月であった。

主要都市には空襲が毎日のように行われていた。国民生活は極度の貧困と疲弊に達していたのだった。

そこへ、原爆である。

それで終戦への道が付いたのかというと、それは違う。

前日のソ連の南下があった。

ヤルタ会談で、参戦すれば樺太はじめ北方の日本領土をソ連のものをするという取り決めがあった。

ソ連の南下に驚くまもなく、長崎に、二つ目の原爆が落ちた。

日本はアメリカにてこずっていた。ソ連まで相手にできない。ソ連の仲介をたのみに終戦を模索していた軍部は、大打撃をうけた。

それが終戦への流れである。

愚かしい指導者による、国民への裏切りは、多くの国民の人生や、その子孫にまで悲劇は及んでいる。

およそ人間扱いされない冷酷な仕打ちの人生が彼らを襲った。

苦しい生活、健康の不安、結婚や就職上起こりうる偏見、差別。

「お国のため」に人生を棒に振った国民がどれほどいたか。

この季節、平和への訴えは年毎に大きなうねりになっていく。直接の語り部がお元気なうちにその体験を聞こう。

子供たちへの平和教育は、続けられている。それを聞いた子供たちが立ち上がる。

戦争は一瞬にして始まる。始まれば止める事は出来ない。国家が戦争を始めたら、それを支持しなければいけない。協力しなければいけない。

それが軍隊に入隊であり、また近代戦にあっては核兵器の使用である。

核兵器を使うことは、一国を滅ぼすことになる。

いな、世界の多くの民衆は知らないだろうが、いまの核兵器はどれほどの規模か、わかっていない。広島、長崎の原爆が、一都市を破壊したにとどまったが、今の兵器は、地球を滅ぼす力を持つ。

そのイメージを持つことが出来るかどうか。

それは広島、長崎を知らなければ、イメージングができない。できなければ「終戦になったのは原爆のおかげ」という考えが国家的な策略にハマっている事にも気が付かない。

だから、広島 長崎を知って欲しいと、願う。かつて原爆が落ちたというだけではなく、その実態はどうだったのかを知って欲しいわけだ。

それを伝える高校生平和大使。

長崎から発信される平和への訴えが、地球の隅々にまで届きますように。

参考ページ;久間氏「原爆はしょうがない発言」