それが去年の9月。重体のまま、今年1月になくなった。自殺した場所は教室。教卓のうえには、7通の手紙があった。
その手紙が公開された。いじめで自殺をしたと両親は、学校に訴えた。教育委員会は調べるといいつつ、そのような事実はなかった、とか、気が付かなかったとか、あるいは、手紙に「いじめ」という言葉がなかったからいじめによる自殺ではないとも、言い始めた。
女児が学校で無視されたこと、心無い言葉を浴びせられたこと、キモイといわれたことが、手紙に綴られていた。
これがいじめでなくて、なんというのだろうか。
この間、愛媛県の今治市で中一男子生徒がいじめで自殺をした。かれもまた「貧乏」とか「泥棒」とかいわれ、「無視」もされた。
この北海道滝川市の教育委員会の会見で、わかったことは、「いじめ」とは暴力をいうものであって、嫌がらせ行為は、「よくあること」なのであるらしい。
さて、なぜに学校関係のかたは、「いじめ」に鈍感なのだろうか。対処できないのであろうか。ふせごうという意識はあるのだろうか。子供達がかわいくないのだろうか、と考えたりする。
話は変わるが、我が家の屋根、裏庭などに、よくレジ袋にはいったお菓子のクズや、からになったジュースのペットボトルが転がっていた。
なぜなんだ???裏庭・・・・・屋根の上・・・・・・
どうしてそんなところにゴミが?と、不思議だった。近所の製作会社の駐車場と隣接しているので、若い社員さんが、ゴミを投げ込んでいるのかと思っていた。その会社の社長に話しに行った所、社員ではないという。その根拠は、駐車場にやはりゴミが転がっているのを発見することがあるが、休み明けの朝なのである。
その正体が、ばれた。
我が家と会社が同じく隣接する某家の娘さんの名前が入ったものが、ゴミ袋のなかからでてきたそうな。よくよく見るとお菓子といっても子供が口にする駄菓子に近い種類だった。そのこともあって、社長さんは某家に問い合わせをしたという。
娘さんは12歳。いい悪いの区別ぐらい付く年令である。特別問題のありそうな家でもない。どうやら、3階の窓から、お菓子を食べた後のゴミを袋に入れて投げていたらしい。
奥さんは、恐縮して謝りにこられた。
びっくりしたものの、受け入れるしかなかった。ただ・・・・なぜそんなことを・・・と思った。なにか、不満でもあるのだろうか?
なかなか難しい年頃だけに、疑問だらけである。この自殺した女児もその年頃だった。「難しい」では、すまされないのだ。大人として、どうむきあったものかと、悩んだ。
親同士が仲良くするしかないのだろう。
もうひとつ、われわれが、家庭で語らなくなった話がある。
「罰が当たる」とか、「死んでから地獄におちる」という類の話である。私の子供のころ、悪さをしておこられる時そんな話を大人はした。
「嘘をついたら、死んでから閻魔様に針を千本飲まされる」または、「嘘をついたら、閻魔様に舌をぬかれる」
「泥棒をしたら地獄に落ちて、血の池地獄で苦しむ」「悪い事をしたら、地獄に落ちて、際限のない苦しみを味わう」
これって、仏教に説く死後の世界の地獄の話である。つまり信仰するしないにかかわらず、生活に宗教があったことを感じる。ぎゃくにいいことをしたら、もちろん極楽へ行くわけである。
この宗教心が、生活の中に根付いてないのだ。「悪い事をしたら、警察に捕まって、牢屋に入れられる・・・・」
そんなぐらいでは・・・「でも少年法で守られる」って言われるのが落ちである。法律で犯罪をふせごうとするから無理がある。それもいやだが、誰が見ている見ていないにかかわらず、自分の良心に恥じる生き方をすること自体、天から仏様に見られていて、悪い事をすれば地獄の世界に落とされるという恐怖感を持つことが必要なのではないか。
人間としてのほこり、人間としてのあり方を考えるにはどうしても宗教を避けて通ることが出来ない。
この自殺した女児にしても、中一の男子にしても、このような死に方をすることは、本来の人間とは何か、どう生きるべきかのあり方から大きく外れる。かわいそうだが、天からもらった人生、生命を無断で断ち切ってしまうこと、生んで育ててくれた両親に恩返しをすることなく、先にあの世にいってしまう最大の親不孝を行ったこと。また、それに加担した「いじめ」をやった子供達。止めれなかった教師。彼らにその罪の自覚はないかもしれない。
彼らはよってたかって一人の人間の殺人をやったという結果に対して法律では罰せられないが、人道上あってはならない罪を作ってしまったことを、大いに後悔し、反省するべきである。
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の話し。生前悪いことばかりしてきた大罪人カンダタが、地獄の釜のそこで苦しんでいた。死ぬほどの苦しみというが、最早死んでいるので、苦しくても死ねない苦しみにもだえながら、生前行った犯罪に対する罰を受けている。
しかし、カンダタは、小さな蜘蛛をふんずけそうになった時、思いとどまってよけて通ったことを極楽から見ていたお釈迦様は思い出した。その小さな人間性に免じて、その大罪人カンダタを救おうと思った。
そして、するすると、遠い高い天の国から、細い一本の糸を、気の遠くなるようなはるか下にある地獄に下ろされたのであった。(以下略)
短編物であるので、読みやすい。興味があれば読んで欲しい。学校では読み聞かせなどというプログラムを実行しているところもあるらしい。本は、特に古典は、このような人の生きる道を教えてくれる素晴らしい作品が多いので、子供達ばかりでなく、先生方も(勉強ばっかりして、読書をせずに社会にでた先生が多いのではないか?)しっかり読書をするべきである。
特に、北海道滝川市の、教育委員会の方々っ!!
