「いじめ」、あってはならないし、もしあっても、人は自分を守らないといけない。
命の尊さなどと教育の現場ではあたりまえのように、言われている。
個性を認めることなど、教育の基本である。多少個性や見かけが違っていても認めることの大切さを教えないでなにが教育なのかと聞きたい。
亡くなった男子生徒は一学年一クラスで、同じ顔ぶれで進学進級して、小学校三年生のときからいじめがあったという。
先生方はわかっていたはずだ。わかっていて、見過ごしたのである。命の尊さを教える学校が、子供の命を守れないばかりか奪ってしまった。
たった一クラスしかないのであれば、対処は簡単ではないか。
命がけでこの子を守ろうとした先生がいなかった。友人もいなかった。父兄もいなかった。なにより、その学校に正義は存在しなかった。
貧乏だの泥棒だの、それは差別用語であると、なぜ教えられないのか。子供のころ黒人に向かって黒ン坊といったら差別だった。小児麻痺の子供に向かって、かたわ!といったら、差別だった。
同じクラスの仲間を貧乏とか泥棒といったらもちろん差別である。教育は平等なのである。古今東西の偉人はみな貧乏だった。清貧が人格を作るのである。
いじめで亡くなったこの男子生徒は、いじめを受ける中で家庭環境がどうあれ、人格を形成していく途上だったのである。しかも同級生より一段と早く成長していったのである。あまりにも早すぎて失速したのである。
彼には頼るべき何者もないのに絶望したのである。もう、がまんができないと覚悟したのである。それゆえ、見えるところで自殺したのである。死をもっての、いじめに対する壮絶な訴えである。
教師はこれをもって何を思うものか。おしえご一人救うことが出来なかった無力さを大いに反省してもらいたい。責任をとるべきである。担任、学年主任、教頭、学校長・・・みんな、教師不適格者である。
民間企業なら、辞職ものである。なにしろ、職場で事故が起こり、人が亡くなったわけである。そこを管理している者はみんな責任をとってやめるというのは、常識なのである。
なのに、なぜ、教育界ではそうならないのか!不思議でたまらない。
この子供の死をかけての訴えも、時の中にうずめてしまうつもりなのだろうか。命は何ものにも代えられない、なくなったものは元に戻らない。
教育関係者は、辞表を出し、罰金として、退職金全額をこの生徒の墓前にささげるべきである。いじめた生徒より、それをみのがした教師の罰則をもうけるべきだと私は訴える。
