人が生きていくことへの絶対的な肯定 | アリス高崎障がい者就労継続支援

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群馬県高崎市にある障がい者就労支援施設です。
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悩みをゆっくり話せる個人相談の時間も大切にしています

 

 

 

人が生きていくことへの絶対的な肯定

(前回の記事からの続きの想いです)



アリス高崎
ブログ担当Nです

(ちょっと長い文章になってしまいますが、
僕が本当に今書きたい、
心の奥深くからの声です)



前回の記事で、もう半月ぐらい経ってますけど、


『見つけ出してもらうことを願われている存在』

 


という記事を書きました、



私たち人間一人一人は、


「この世界からその世界の素晴らしさを見つけ出してほしいと『願われている存在』なんだと思うよ」


ということを僕が話した言葉を書いた記事なんですけど、

比較的やんわりふんわりと書いた記事だったので、特に何かを主張するような事はしなかったんですけど、

今回はその言葉の中に込められている、僕なりの想いを真面目に書かせてもらいたいなぁと思います。


なので今回はふんわりやんわりあったかいような感じの記事ではないと思います。





私たち人間は、

この世界から


『その素晴らしさを見つけ出してもらいたいと【願われている存在】だと思う』


と書きましたが、


もし私たちが

【願われている存在】

だとしたら、


もしそうであるならば、


私たち人間というものが、生きていくという事は、

【絶対的に肯定されること】

になると思うのです。



人間がこの世界に生まれて存在して生き続けていくという事は、


【絶対的に肯定されていること】


になると思うのです。



だって人間はこの世界から

【願われている存在】

なのですから。



「この世界の素晴らしさを見つけ出してほしい」

と、この世界から

【願われている存在】

なのですから。



だからいかなる人のいかなる人生も、

この世界から


【願われた存在】


の人生として、

それは


【絶対的に肯定されているもの】


であると思うのです。




……こんなことをこうしたブログの場で書いていいものかどうか迷いはありますが……
やけにリアルな話をしてしまいますと……


こうした精神の病を深く患った人たちが通う施設において

…それまでの人生の中で、一度以上…自殺未遂をした経験のある人というのは……大抵どこの施設においても、深く話を聞いていけば…

結構な割合でいると思います。


どれぐらいの割合かというと

一般の人たちが聞いたらびっくりする位の割合だと思います。


そういう非常に痛々しい過去の経験を持っている人たちがたくさんいるということです。



実際には、さいわいにもそれらは失敗に終わって、死ぬことができなかったので生き続けることができて、

今、こうしてそれぞれの施設で、人と出会いながら暮らしていけているのだと思うのですが、


では、それらの人たちが、一体なぜにそこまで追い込まれて自死しようということを実行にまで移してしまうほどになってしまったかといえば、


それぞれの人によって、

まったく固有のそれぞれの辛く追い込まれた背景があると思うのですけど、

その固有の体験の奥にある感覚を、

1つの言葉として表現してしまうのならば、

おそらくそれは


「自分はこの世界で、もういらない存在なんだ…」


と痛切に感じてしまったのではないのかと思います



もっと言えば


「この世界から拒まれた」


「この世界から見捨てられた」


そういった感覚を個人個人の固有の痛みの体験として痛切なまでに感じ、


「もうこれ以上生きていけない」


と生きることを諦めざるを得ないような心境に追い込まれてしまったのではないかと思います。



世界という言葉を『社会全体』という言葉に置き換えてもいいと思います。



この世界や社会全体から


「あなたはいらない人間だよ」


と言われているように痛切に心が感じてしまったとしたら……それは確かにもう生きていけなくなってしまうでしょう…


日々日々、施設の中でそうした背景を持った心に触れ続けていくと、


人間がこの世界に生まれて、生きていく、

ということの意味を

しゅうし考えずにはいられないのです。




「あなたはもういらない人間だよ」



と、社会全体から言われてしまっているように感じるような残酷な現実があるということもよく理解できます


またそうした体験が小さく小さく積み重なっていったとしたら

生きていけばいくほど、抱え切れないような重荷になってしまうという現実もよく理解できます



だから…だから…


「あなたはもういらない人間だよ」


と言われてしまっているようなその感覚に対して


【人間の生きることへの絶対的な肯定】


を感じたいのです。



道徳的な心で感じたいのではなく

確かな実感として、僕自身がそれを感じたいのです。




「あなたはこの世界からこの世界の素晴らしさを見つけ出してもらうことをいつでも

【願われている存在】

なんだよ」



この世界から発せられているそのメッセージを、


大地が伝えてきてくれている

風の揺らぎが伝えてきてくれている

緑の木々が伝えてきてくれている

このメッセージを僕は実感として感じたいのです。


そして…70億の小さなひとつひとつの心の彩りから響いてくる

「見つけ出してほしい」

というメッセージを感じたいのです。




そして

人がこの世界に生まれて生きていくということを

絶対的に肯定したい想いが僕の胸のうちにあるのです。



だってわれわれはこの世界から

【願われている存在】

なのだから。





先日あるドキュメンタリーの番組を見ました。

難民問題に関する番組です。


世界中の中で、今、難民が1億人を突破してしまっていると言っていました

恐ろしい現実だと思います


世界人口のうち80人に1人が難民となっているという現実があるそうです


難民になった人たちが背負わされているその現実は、

到底…「個人の努力で人生が切り開かれていく」…などという、そんな世界とは無縁の現実でしょう…


なぜそんなに多くの多くの人々が難民となって苦しまなければならないような現実がこの世界に生まれてしまったかといえば、

それはこの世界全体が歪んでしまっているからでしょう…


では、その世界の歪みはどこから来ているかと言えば…それはやはり僕たち一人ひとりの

『自分さえよければいい』

という愚かな人間の感覚や

『とにかく自分さえ豊かであればいい』

という、そういう愚かな人間の心が集約されて、

この世界を歪ませてしまっている面が多々あると思います。


だからあの難民の人たちは、

我々一人ひとりの自我欲望のその被害者でしょう…



難民の状況に置かれた人たちが

この世界を恨んだとしても

僕らはそれに対して否定する事は全くできないでしょう


難民の人たちが、

「この世界から見捨てられた」

と感じたとしても、

僕らはそれを説得する事は全くできないでしょうし、そんな権利すらないでしょう


僕自身がその難民の立場に置かれたら、そのように感じると思うからです。



しかしそれとは別に、その番組の中で強く強烈に僕の心に残った場面がありました。


難民キャンプの悲惨な状況の中においても赤ちゃんが生まれてくるわけです


その悲惨な状況の難民キャンプで生まれた子供がもう大きくなって、その子のお母さんがその時のことを振り返ってこう言っていました



「あの子が生まれた時の幸福感は今でも忘れることができません」



僕はこの言葉を聞いた時、なんとも不思議な気持ちになりました…


どう捉えていいかわからなかったのです…


そしてしばらくしてから、

その言葉が衝撃となって僕の心の奥に響いてきました。



おそらくこの世界で最も悲惨な現実を突きつけられているその状況の中で生まれてきた子供、生まれてきた命、


その命は、今のこの世界の最も悲惨な状況の中で生きていかなければならないわけです


我々の自我欲望が作り出した歪みの世界が集約された場所で、

何の責任もないのに、

この世界の歪みと悲惨な現実を一手に担って暮らしていかなければならない、

そういう現実の中で、

何の罪もないこの新しく生まれたきた命は生きていかなければならないわけです


それは僕からしてみたら恐ろしい現実のように感じます


悲惨な現実のように感じます


その子がこれから悲惨な状況下の難民キャンプで生まれて育っていかなければならないという現実に対して、そういう人生に対して


「生まれてきて良かったね」


などとはとても言えない自分自身の気持ちが、

外部の人間の僕としてはあるというのが正直な想いです



それなのに…それなのに…


その最も悲惨な難民キャンプの中で生きる当事者のその女性は言うのです



「あの子が生まれたときの幸福感は今でも忘れることができません」



その子が生まれてきた時、

お母さんは自分を取り巻く環境がどんなに悲惨な状況であったとしても、


理屈を超えて


何十年たっても忘れることのできない幸福感が湧き上がってきたと言うのです。



これはどういうことだろう…



この女性の言った言葉の意味する事はなんだろう…


この女性が感じたこの実感が、今、僕に伝えてきてくれている事はなんだろう…



世界がどんなに自分たちを虐げているように感じる現実の中であったとしても


世界がどんなに自分たちを見捨てたかのように感じる現実の中にあったとしても


理屈を超えて


理屈を超えて


その女性は、その命の誕生に、消えることのない幸福感を感じたのです。



これは…

人間がいかなる状況の中にあろうと、

この世界に生まれ、生きていくということの


【絶対的な肯定の響き】




全く理屈を超えて

私たちに伝えてきてくれたような気がするのです



アフリカの難民キャンプで暮らす黒い肌をした女性の

この実感を持った一言が語られる一場面を

スクリーン越しに見ながら

僕は涙を流していました






例えば


「今の世界の平和の度数は何%位と感じるか?」


と問われたとしたら、

おそらくそれはその人が今置かれている環境、国によってずいぶん変わってくるかと思います。


「今の世界の幸せ度数は何%かと思うか?」


と聞かれたとしても同じだと思います。



現実的に世界がどうかということよりも、

やはり我々人間は、

自分が直面して置かれている状況の中でしかものごとが感じられないという面があるからだと思います。


「自分に降りかかってこない火の粉は所詮どっかで他人事」…という感覚が、人間という生き物の中には否応なくあるというのは認めざるを得ないと思います。



人間と言う存在は、

「そのような悲しい存在だ」

ということを大前提にして考えていかなければならないところがあるなぁと思います。



だから

世界が今、平和の度数として、幸福の度数として、何%位か?

どれぐらい高いか低いか?

ということを問うていったとしても、


それは……

それぞれその人が、どれぐらい自分自身に直接、火の粉がかかっているかという、その感覚の中でしか測れない、

実にあやふやな、相対的なものだと、

そんな感覚の中でしか計れないものだと思うのです。



でも、そうした相対的なパーセンテージとして計られるような感覚とはまた全く別の次元で


理屈を超えて


理屈を越えて


絶対的な感覚の中で語られていくものがあると思うのです



【人間がこの世界に生まれて、生きていくということの絶対的な肯定】



それは理屈を超えて


相対的なパーセンテージを超えて


絶対的な感覚として、

この世界が訴えているものだと思うのです。





『どうかこの世界の素晴らしさを見つけ出して欲しい』


と、この世界が願っていて


【願われている存在】

として生きている


【その願いを託された存在】

として生きている






「あなたはいらない存在だよ」


という響きが、この世界の虚無の闇の奥から誰かの胸に伝わってきてしまったとしても


その虚無の闇を超えて確かめ合いたい、


確かめ合いたい、


「われわれはこの世界からその素晴らしさ見つけ出してもらうことを

【願われている存在】

なんだよ」


と。





【絶対的に人間がこの世界に生まれてきて、生きていくということへ肯定】


この実感も

悲しみの世界を越えて

虚無の闇を越えて

この世界に生み出された命として
私たち人間一人一人が

この世界から


「見つけ出してもらいたい」


と願われている大切な真実でしょう


理屈を超えて


理屈をこえて