(「私はこうしてストーカーに殺されずにすんだ」遥洋子 筑摩書房)

 

 私は引っ越しをするたびに警察署に行く。警察の許可が必要な各種免許を持つ。更新時には行く頻度も高い。一日警察署長などのイベントに駆り出されたりもする。用事で警察に行ったはずが「ひったくり防止のティッシュを一緒に配って」と玄関でタスキをかけられたりするほど保安課は行き慣れた場所だ。そこでたまに見る光景がある。逮捕されたばかりの犯人とおぼしき男が警察官数人に取調室に連行される場面だ。今逮捕されたばかりと思わされるのは、男の様子がそれを物語るからだ。逮捕自体は警察官には日常だから、彼らは淡々と連行するが、犯人のほうは違う。

「もう二度と、二度としませんから。お願いします。助けてください。許してください。もう二度としません。約束します。ほんの出来心なんです。初めてなんです。お願いです」

 なりふり構わず憐れみを乞い、手錠やヒモがなければ土下座でもしただろう勢いで猛省を口走る。許してもらうためには何でもやってのけられる必死さ。身体は大きく揺れ、甲高い声を振り絞り、何度も頭を下げた。ここまで自尊心を捨てさせる断末魔「ひいいいい」という声は恐怖が吐かせる悲鳴なのか。

 警察官は冷静だ。「なにが初めてか。これだけの猥褻写真を撮っておいて。こんなにたくさんあるじゃないか。常習犯のやり慣れた手口だ。証拠だらけだ」

 そしてワーワーヒーヒー言う男を取調室に連れていく。

 今でも私は男の「ひいいいい」という声を覚えている。なぜ男がパニックになったか。いまどき拷問があるわけじゃなし、悲鳴をあげるに足る人生がそこにあったということか。男の人生(仕事や家族)が、逮捕によって壊れる絶望が悲鳴になったのか。仮に男が単身で職もなく、逮捕されようが野垂れ死しようが嘆く身内もなければパニックを引き起こすだろうか。部下や家族に見せる別の顔のある男だと仮定してみた。一人の人間の中に、上司や父の顔から「ひいいいい」という惨めな断末魔の声を出す顔まであるなら、人間というのはなんと振れ幅の大きい、ぬかるみのような闇を持つ生き物だろう。その顔を見慣れた警官というのは、死を見慣れた医師のように冷静だ。罪を犯しても自分だけは助かりたい「ひいいいい」を前に、沈鬱な表情で仕事をしていた。

 

強者が弱者に、弱者が強者に

 

 ある刑事が私に言った。

「人間はな、やってても僕はやってませんと涙まで流せる生き物なんや」

付け加えていった。

「高校生から大人までそれができるんやで。自分だけは助かりたいからな」

助かりたさが迫真の演技をさせる。だがその痛みの方向性は自分にのみ向けられ、被害者の痛みは無視できる。

 とことん冷酷なくせに極端に恐がりということが、一人の人間の中で成立する。

 

 心理カウンセラーが書いた本で似た事例を見つけた。

 男性ストーカーが女性に金銭を要求し、猥褻写真をばらまくぞと脅した。

「彼女を前歯が二本折れ、左目が一時失明状態になるほど激しくなんども殴った」(荒木創造『ストーカーの心理』講談社プラスアルファ新書、2001年)

 逮捕された男性の言葉が興味深い。

「『えっ、こんなことあり?』って感じで、ただ、意外というか、現実感がないというか。それから『困った!』と思いました。自分の仕事、家族、すべて失いかねないな」(同書)

 

 相手が自分より弱ければ残忍にも卑劣にもなれ、自分より強い者には迫真の弱者へ豹変する姿を私は警察で何度も見てきた。 

 その犯人像とストーカー加害者は違うタイプか、同類か。