教会では「ミサ」の他に、
冠婚葬祭の様々な儀式も行われます。

今日は、主日ミサの後に
「追悼ミサ」のような感じのものが予定されていたようで
私たちが、ミサ後の聖書勉強会をやっている間、
聖堂ではその準備が行われていました。

おそらく仏教でいう「法要」のようなものだと思います。

勉強会のお部屋は教会の2階にあるのですが
一部がガラスの窓になっていて
1階にある聖堂の様子が見える造りになっているので、
勉強会が終わった後、何気なく様子を見てみたら・・・

そこにあったのは小さな子どもの遺影と骨壺だったのです・・・。

2階の部屋からも、遺影の表情がしっかり見えたのですが
外国人の小さな子どもが、あどけない笑顔を向けていて
その後ろには、その子のものと思われる小さな小さな骨壺が。

 

主日ミサの中で、時々、
亡くなった方のお名前が読まれることがあります。
ミサの中でご冥福を祈る時間があります。

そのお名前の感じを聞いていると
私が参加したミサで読まれているのは

おそらくご高齢の方ばかりで、

きっと天寿を全うされたのだろうな

と思われる方々ばかり。


だけど、今日の遺影の中にいたのは
どう考えても義務教育を修了していない年齢の小さな子。
きっと娘の半分にも満たない年齢なのだと思われます。

44年生きてきて、
これまでに何度か、ご葬儀や法要に出席する機会がありました。

だけど、その中で一番若かったのは
私が大学生の時に亡くなった祖父(70歳くらいだったと思います)で
それ以外はほぼ全員「大往生」と言ってもいいくらい
長生きされた方のものばかりでした。

なので、
生前に面識が全くなかったとはいえ、
幼くして天に還ってしまった小さな命を目の当たりにして
とても強い衝撃を受けたし
そこから数時間経った今も、言葉にならない想いを抱いています。

 

日常生活を送っていると
生きていることが当たり前になりすぎてしまって
そこに思いを馳せることは多くないけれど
幼くして亡くなってしまった子に出会って

生きていることは決して当たり前のことではないのだ

悩み苦しみながらも「日常」を送れるのは幸せなことなのだ


と、
改めて教えられたような気がします。


遺影の中にいたあの子は、
もっともっと、この世で生きていたかったのだと思います。

悩んだり、苦しんだり、葛藤したりしながらも
「当たり前の日常」を歩んでいきたかったのだと思います。



これまで、いろんなことがあったし
「生きていたくない」と思ったこともあったけれど、
 

私は今、生きています。
悩むことも、苦しむことも、葛藤することもできます。


それがいかに尊いことなのか、
それを「遺影の中のあの子」に教えてもらった気がするし、
私の寿命がどれだけ残っているのかは神様しか知らないことだけど
 

「その日」が来るまで、精一杯生きていきたい

 

と思いました。


幼くして亡くなられたこのお子さんが
神様の光に包まれて、永遠の安らぎが与えられますように

 

 

 

 

 

 

 

 

今日のひとことブログ

 

 

 

 

 

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