五年前のあの日も金曜日でした。



私は、家族に行先も言わずに、シフトの都合で、お休みが重なった職場の同僚とさんと、


占いという、非日常な用事で、海辺の町に来ていました。


いつもなら、職場にいる私が、たまたま、その日、平日休みで。


家族を送りだしてから出かける習慣のある主婦、仕事のときも、


やはり、家族を送りだしてから、だから、


どこそこへ行ってきます~と、私が家族に告げて出かけるという習慣がなかった。


まさか、そういうところに行っているとは、家族は知らなかった。



もし、私が、津波に巻き込まれていたとしたら、


家族は、私の行先も知らず、どこをどう探していいのやら、途方にくれていたことだろう。


Hさんも、やはり、子供さん始め、ご家族に、出かける用事を詳細に伝えてはいなかったという。


いざというときに連絡を取れるアイテム、携帯やスマホ



これだって、電波が届かず、役に立たなかった。


充電が切れた携帯は、何にもならない。


家族や親戚の連絡先は、紙ベースで残しておかないと、と、この時思った。


ボタン一つで、電話がかかる時代、よくかける相手の電話番号を記憶するという習慣も


なくなりつつあった。


揺れが収まったとき、私たちは、だれもが、それなりに冷静だったと思う。


神戸の震災以来、建物は強化され、実際、この地震で、建物が崩壊したというのは、


少なかったと思う。火災もなかった。


さあ、落ち着いて、いつかくると言われていた、地震、


それなりに、準備はしていた。


みんな、その時は冷静に、そういうことを考えていたと思う。


だから、揺れが収まったあと、家の様子を見に行った人、


子供を迎えに行った人、


みんな、それなりに冷静だったと思う。


自衛隊の方々も、不測の事態の災害だけど、もう、準備万端、


着々と出動の準備をしていたはず。



だけど、誰もが予想をしなかった、想定外の津波


この、津波の情報だけは、


私たちのもとには正確に伝わらなかった。


目を疑うような、信じられない規模の津波


そして、想定外の、まさかの、原発施設の爆発



地震の直後は、みんな生きていたはず


津波、原発、と、次々に、命を飲みこみ、破壊し、生活を壊していった。



確かに、天災だから、想定外の規模の天災だから、


誰をも責めることもできないけれど、


助けられたはず、助かったはず、



多くの人が、いまだに、そういう思いに苛まれて、生きているのではないかと、


私は、思う。




天皇陛下の追悼のお言葉に、うなづきながら、



あの日と同じ、金曜日の一日を過ごしながら、何をしていても、当時のことを、


思いだし、考えざるを得ない3月11日。



あれ以来、普通の、何気ないことが、実は普通ではなく、とても大事な瞬間なんだと、


誰もが思ったはず。


行ってきます、、行ってらっしゃい、



そんな何気ないやりとりが、とても大切な瞬間なのだ、と。



ただ、ただ、


鎮魂の思いを込めて、祈るしかできない日、


そんな一日でありました。