父の職場を見学して得たことは、働くことはかっこいいということだった。

 大学生に憧れた時期もあったし、はたからは何もせずにぶらぶらしているだけに見える、何かを目指している人たちのことを羨ましく思うこともあった。
 だけど、やっぱり働くことはかっこいい。働いている人が一番かっこいいと思った。

 わたしは、かっこいい人になりたかった。

 みっともなく地べたを這いつくばっていっぱいいっぱいに生きている人たちを軽蔑したし、プライドばかりが高くて知らないことの多い田舎者を嫌悪した。
 かっこよく生きる秘訣は、わたしにとって重要なことだった。
 進路がどうこうと考えるより先に、自分に何ができるのか、どんな人になれるのかを知りたかった。
 かっこいい人になるためにすべきことが知りたかった。

 わたしは、テレビで散々にコマーシャルを流している、新しいアルバイト情報誌を買った。

 薄い雑誌の薄い紙にいくつかのコマが区切られ、びっしりと細かい文字の求人情報が印刷されている。写真を載せている大きめのコマもあった。
 野暮ったいエプロンと馬鹿みたいな帽子をお揃いでまとった人たちが楽しそうに笑う写真には、マンガの吹き出しのような枠がついていて、中には『いっしょに働こうヨ!』とある。
 別のページの同じような写真では『楽しいヨ!』だった。

 何ページかめくっていると、世の中のアルバイトとは、どのようなことをして、いくらのお金になるのか、大体のところがわかってくる。
 情報から仕事の具体的な内容を想像して、「これはいやだな」と思うような求人は、『未経験者歓迎』だの『寮完備』だの『社員旅行有り』だのと、他の何かでバランスが取れるようになっていた。

 一つ、わたしの目を釘付けにする情報があった。

『業種:飲食店、勤務地:池袋、週一日からOK、実働:2h~3h、時給:2000円(経験者優遇)(賞与有り)、制服貸与、送迎有り、初心者歓迎』とある。

 どんな仕事なのか、想像がつかなかった。
 飲食店だから、ホールのお運びか洗い場かキッチンの調理師かだろうとは思ったけれど、同じ業種の他の求人と比べて、条件と待遇が良過ぎる気がした。

 わたしは池袋に行ったことがない。
 渋谷にはないような、特別な飲食店があるのかもしれなかった。
 この待遇なら池袋も悪くないと思った。
 働く自分を想像すると、まさに、それこそが今すぐすべきことに思えた。

 わたしは、情報欄に載せられている『桃尻娘』の番号に電話をかけた。
「アルバイト情報誌の求人情報を見たのですが」と言えば話がわかりやすいと、電話のかけ方から面接のマナーまで親切に手順を説いた記事が載っていたので、そのページと、『桃尻娘』のページとを、すぐ入れ替えられるよう、指を挟んでしおりにした。
 この情報誌さえあれば、世の中のどんな仕事でも自分のものにできそうだ。

「ああ、はいはい」

 電話に出た女の声はとても気さくだった。

「まだ、求人の募集はしていらっしゃいますか」

 緊張してとろとろ馬鹿丁寧に喋る自分が間抜けに思える。

「一度、お店に来てちょうだい。履歴書持ってきてね」

「ありがとうございます。いつ、何時にお伺いすればいいでしょうか」

 思ったよりもずっと簡単にことが運ぶので、わたしは興奮した。

「いつでもどうぞ」

 歌うような声を残して、一方的に通話が切られた。
 きっと、わたしがとろとろした喋り方をしていたせいだろう…。
『R』のドアの外では、車に乗った母が待っていた。

 わたしと父が乗り込むと、

「ちょうど、岸田多喜雄が出てきたところに着いたの。背が高いのねえ」

 母が言った。

「かっこいいよなあ。テレビでやりたかったよ。タキオが、あのまんま白バックかなんかで喋るだけで、絵になるんだけどなあ」

 二人とも、あの俳優が好きなのだろう。

「ねえ、どうだったの? アリ、見てたんでしょ」

 母も、俳優が頭を掻くところや欠伸をするところが見たいのだろう。

「電話番号、聞かれたよ」

 わたしが言うと、父と母は「そりゃいい」「さすがね」などと口々に言いながら、ハンドルやダッシュボードを叩いて笑った。
 笑われると恥ずかしくなった。
 自分がかっこ悪いことをしてしまったような気がして、嫌な気分だ。

 更に嫌な気分になったのは、帰ってから電話で話した香奈が、父や母と同じような反応だったことだ。
「どうだった? 岸田多喜雄」と訊くくせに、「電話番号を訊かれた」と言うと笑い出して「イメージ作り過ぎ」と言う。

 香奈はときどき、そうやって人を小馬鹿にするような言い方をした。
 勝ち気なのは承知だが、人と張り合うために、いい加減な嘘をついて自分を大きく見せようとする癖があって、クラスにも「あの子、嘘つきだよね」と陰口を言う中島さんという同級生がいた。
 中島さんはクラスで一番の美人だけど、いつも誰かの陰口を言っていた。

「嘘なんて、誰だってつくじゃん」とわたしが言うと、中島さんは「でもさ、すぐバレる嘘つくんだから、変じゃない?」と言い返してきた。
 わたしは、女の子がよくする、自分の企みに巻き込むような押し付けがましい同意の求め方が嫌いだ。

「嘘はバレるから嘘なんじゃん。バレない嘘なら嘘じゃないでしょ」

「そうだけどさ…」

 中島さんは、それからわたしの前では香奈のことを話さなくなった。

 わたしは読書家で、屁理屈が得意だった。
 だから、「イメージどうたらこうたら」と言った香奈にも言い返した。

「イメージって他人が勝手に作るもんだから、岸田多喜雄は別に自分では意識してないと思うよ」

「違うよ。アリがだよ。電話番号訊かれたりしたらどうしよう、ってイメージがさ」

 頭が悪いと言われているような気がして、ムカついた。
 香奈は、わたしの話を信じていなかった。
 どうしてそんなことで嘘をつくと思うのかが不思議だ…。

 わたしには、ひとの気持ちがわからなかった。
 香奈だけでなく、父や、母や、他の友達や、これまでに付き合った男の子たちの気持ちのすべてが、わたしにはさっぱりわからないのだった。
 わたしは、ソファーの部屋に戻って、ティーバッグの紅茶を淹れた。
 紅茶は薄かった。

「アリ。岸田さんにも淹れて差し上げて」

 奥からわたしに声をかけた父に頷いて、もう一つ、ティーバッグを開ける。

 ブースのドアから出てきた岸田多喜雄に、わたしは「お湯が温いのかも」と、言った。
 岸田多喜雄は、立ったまま紅茶のカップを手に取って、「ありがとう」と言った。
 わたしは小さく頭を下げて、自分の紅茶を飲んだ。

「どういう字、書くんだ、アリって。有る里か」

 言いながら、カップをテーブルに戻し、わたしが腰掛けているソファーに並んで座る。

「里がつかない『有』です。なんでも有りとか、麻雀の、有り有りとか」

 カップはすでに空っぽになっていた。
 やっぱり温かった…。

「お父さん、天才だな」俳優が笑った。

「モハメド・アリのファンで」

「いや、なんでも有りのアリがいいよ」

 笑っている俳優の顎が持ち上がって、太い喉が見えた。

「電話番号、教えろよ。電話するから」

「父のですか、わたしのですか」

「アリのだよ。お父さんの番号聞いてどうすんだ。電話が別なのか」 

「部屋に、電話があるから」

 ソファーの隅に置きっ放しだったハンドバッグを取った。

「グッチじゃないか」

 言われてみると、バッグの留め金が『G』の形だった。

「母から借りました」

 メモ帳を開いて、自分の番号を書き、丁寧に破いて俳優に渡した。

「お父さんの電話じゃないよな」

「わたしのです」

 俳優は、紙片をコートの内ポケットにしまって、ブースに戻って行った。

 わたしは、二杯目の紅茶を飲んだ。
 紅茶は、さっきよりも温くて薄かった。

 ガラスドアの向こうで、父やジョニーさんが、顔を上げたり下げたり、何かを喋ったりする姿を眺めているのは、面白かった。
 ブースの中の俳優をガラス越しに見ている彼らを、わたしがここからガラスドア越しに見ていて、そのわたしを、リカちゃんハウスの人形みたいにうんと高いところから見ている誰かがいて、その誰かを、映画を観るように遠い宇宙のどこかから見ている何かがいて…。

 三十分ほどで録音ブースから出てきた俳優はガラスドアの部屋に入って行き、父が譲った社長椅子の前で十分ほど何かをして、また出てきた。

「じゃあな」とわたしに頷いて、大きな扉を開ける。
 わたしは、ソファーに座ったままで「さようなら」と言った。

 開けたままの扉から見える廊下に、黒いコートの端っこが消えていった。
 しばらくすると、大きな重い扉が押し開けられた。

 黒いコートを着てサングラスをかけた大きな男の人が、頭を屈めるように中を覗き込んでいる。
 道に迷った殺し屋のようだ。

 わたしはソファーから立ち上がった。
 男の人は、コートのポケットに手を入れたまま中に入ってきて、どふっと音を立ててソファーに座った。

「どうぞ」 

 奥の部屋の方をちらちらと見ていたわたしに、男の人が声をかけてきた。
 その声で俳優とわかる、低くて太くて柔らかい声だった。

「ありがとうございます」と、小さな声で答え、恐る恐るで隣にお尻を置く。

 男の人の体重で半分が沈み込んでいるソファーの上で、体がそちらへ傾いてしまわないよう、座ってからも足を踏ん張っていた。
 男の人が、座ったまま上半身をひねってわたしの方を向き、コートのポケットから抜き出した手でサングラスを外す。

「僕は、俳優の、キシダ・タキオです」と言った。

 やっぱり、岸田多喜雄だ。

 わたしも、岸田多喜雄の方へ向き直って、
「ナカガワ・アリです。中川佑司の、娘です」と頭を下げた。

 わたしたちは、誰かに何かを言われるのを待って、そのまま黙って並んで座っていた。
 ガラスドアの奥の部屋で、ジョニーさんがこちらを見た。
 ジョニーさんは、慌てたふうに、父の背中を突ついていた。

 父から手渡された数枚の紙を手に、岸田多喜雄が、もう一つのドアを開ける。
 彼の姿が見えなくなってようやく、思い切り空気を吸い込むことができた。
 ジョニーさんがわたしをガラスドアの部屋に入れてくれたので、わたしはガラスの窓から岸田多喜雄を見ることができた。
 わたしは、安全なガラス窓のこちら側で、ブースの中の岸田多喜雄が頭を掻かないかなとか、欠伸しないかなと、期待した。
 俳優が好む餌があればあげてみたいとも思った。

 ジョニーさんが大きな台の何かのスイッチを押すと、「がさごそ…」と、マイクロフォンを通した物音が大きく流れ出した。
 岸田多喜雄の鼻息が、猛獣の寝息のように聞こえる。

「過ぎた時間は戻らない」

 聞こえてきた声に顔を上げると、俳優が、手元の紙を見ながら喋っていた。

「過ぎた時間は戻らない」

 まったく同じ口調で繰り返している。

「過ぎた時間は戻らない」…

「かっこいいっすねえ」
 ジョニーさんが呟き、父が「そりゃ、かっこいいに決まってるだろ」と笑った。

 ブースの中には、その会話が聞こえていないようだった。
 俳優は、何度も「過ぎた時間は戻らない」を繰り返していた。
 何度聞いても、わたしには、違いがわからない。そこから先の台詞はないのだろうか。

「大事だろ? 金も時間も、あんたのもんなんだからさ」

 急に話しかけられて驚いたが、俳優は紙に目を落としたままだ。
 台詞らしいとはわかったけれど、その言い方は、さっき話しかけられた口調とまったく同じ感じで、紙に書かれた台詞を読んでいるようには思えなかった。

「自分の手で、取り戻せよ」

 とても自然な口調だ。
 何が台詞で、何が岸田多喜雄の言葉なのか、区別がつかない。

「いいねえ。大正解」

 今度は、父が嬉しそうに呟いた。 

 大きな台で何かが光り、俳優がガラス窓越しにこっちを見た。

「よかったよ、俺、東京都からのお知らせです、とかやるのかと思ってさ」

 今度は、はっきりと父やジョニーさんに向かって言っているとわかった。

「そりゃないでしょう、お互い、天才なんだから」

 父が体を乗り出すようにして、台のボタンを押し、突き出している小型のマイクロフォンを掴んで答え、ガラス窓の向こうの俳優が無音のまま笑った。
 信濃町のスタジオまでは、母が車でわたしたちを送った。

 うちの近所にもありそうな小さなビルの正面に、『R』と、ドアから大きくはみ出した白い文字が描かれていた。わたしは、何かに騙されたような気がした。
 父が『R』のドアを押す。ドアの中には真っすぐ長い廊下が伸びていた。
 誰の姿もなかった。

 父とわたしは、廊下の奥まで黙って歩いた。
 廊下のところどころにソファーと灰皿が置かれていたが、灰皿はどれも光るほどきれいで、煙草を吸う場所ではないように見える。

「緊張するなあ」

 小さな声で呟いたのは、父だ。
 わたしは緊張していなかった。長い廊下にはあまり興味が持てなかった。

 廊下の突き当たりの大きな黒い扉には、これまでに見たことがないほど巨大な取っ手がついていた。
 父が、扉の取っ手に両手で思い切り体重を乗せて押し下げる。
 ごごっ、という音に空気が漏れる気配が混じって、中の明かりが見えた。
 扉はわたしの腰回りほど分厚く、開いた扉の足下にも、扉の分厚さの分だけ凸凹した黒い枠がある。
 わたしは、一度両足をきちんと揃えて、利き足を大きく出した。

 わたしはいつも転ぶ。何もない平らな道でも自分の足に躓いて転ぶ。
『エックス脚』というやつで、小学校に上がるまでは、両脚全体を覆う重たいギプスをつけて寝ていた。脚のかっこうは今もよくないが、自分がエックス脚であると知ったわたしは用心深くなった。
 だが、用心するほど、よく転んだ。

 よろけて飛び出した右足が踏んだのは、柔らかい絨毯だった。
 落ち着かない気分だ。

 目の前には、ふかふかに膨らんだ大きなソファーと広い天板の低いテーブルがあった。 
 テーブルの上には銀の丸いトレイがあって、大きなポットと、ティーカップのセットと、ティーバッグと袋入りの砂糖とスプーンと銀色のミルク入れが載っていて、その横には、二時間ドラマで殺人者が誰かの頭を後ろから殴るときによく使うような、ガラス製の大きな灰皿がある。

「こんにちは。いつもお父さんに御世話になっています」

 部屋の中にある別のドアから現れた男の人が、わたしに向かって礼儀正しく頭を下げている。

「こんにちは」

 わたしは泣き出しそうだった。
 知らない人に会うと恥ずかしくなる。
 父は、その人が出てきたドアから、消えてしまった。

「どうぞ、座っててください。紅茶でいいですか。ジュースがよければ買ってくるけれど」

 男の人がなんという名前なのか、最初に名乗ってくれていたから耳には入っているはずなのに、わたしは一瞬で忘れてしまっていた。

「大丈夫です」

 わたしは、その男の人をジョニーさんと呼ぶことにした。
 髪型が、そんな感じだったから…。

 ソファーの上でひっくり返らないように注意しながら腰を下ろし、紺色のハンドバッグを膝の上に置く。
 ジョニーさんは、にこにこしながらそれを眺めていた。
 しばらく、気まずかった…。

「あっちは、今、録音の準備をしてるんですよ」

 ジョニーさんが、開けっ放しになっている奥のドアを見ながら言った。
 ドアの向こうには、大きな黒っぽい台が見えている。
 父は、その台の前にある背もたれの高い椅子に座っていた。

「社長みたい」

 わたしが言うと、ジョニーさんも振り向いて父を見た。

「社長とは違うけど」

 ジョニーさんが答えた。ジョニーの髪型なのに、生真面目な人だ。
 わたしは黙っていた。
 つまらないことを言ったせいで、さっきよりもっと気まずくなった。

 しばらくすると、父が奥からわたしを呼んだ。
 わたしは、ほっとして奥の部屋に向かった。

「こんなの、見たことないだろう」

 父の前にある大きな台には、びっしりとボタンやスイッチやメーターや小さなダイアルのようなつまみがついていて、そのどれもが少しずつ動かされ、複雑な表情を作っていた。
 黙っているわたしに、父が「また仏頂面して」と言った。

「すごいなと思って」

 言い訳をして顔を上げると、仏頂面のわたしがぼんやり見えた。
 台に向き合った壁の部分がガラスを填めた窓のようになっていて、こちらを映し出している。
 室内の他の壁は一面に均等な間隔で穴が空いていて、父やわたしやジョニーさんが通ったドアも、ガラスが填められて見えるようになっていた。

「そこ、なに」と父に窓のことを質問した。

「あっちは、レコーディング・ブース」

 ガラスの向こうの空間は真っ暗で、様子が見えなかった。

「どこから入るの?」

「あっち」

 父が指した方へ顔を向けようとしたとき、窓の向こう側がぱっと明るくなった。
 見ると、窓の向こうでジョニーさんが手を振っていた…。

 わたしは手を振り替えして、父に「ありがとう」と言い、その部屋を出てふかふかのソファーに戻った。

 その空間には、確かにドアが二つあって、一つはガラス張りになって中が見える。
 もう一つは、その空間に入るときに開けた扉と同じ造りで、いくぶん小さい扉だ。
 父とジョニーさんがガラスドアの奥の部屋で録音の準備をしている間、わたしはソファーの上でもじもじしていた。
「どうしてそんな野暮ったい格好するのよ」
 その日の朝の母は苛立っていた。

「そんな格好って」
 わたしは水色のシャツのボタンを留めているところだった。ベッドの上には薄茶色のボックス型スカートを出してある。足下には、すでに紺色のハイソックスを履いていた。

 何がいけないというのだろう。
 肩をすくめた母が部屋から出て行くと、わたしは今留めたばかりのシャツのボタンを外していった。

 お洒落にはあまり関心がなかった。
 年上の友達が古い映画の影響で腕にラインの入ったカーディガンを欲しがったりするのを真似てはいても、自分にどんなものが似合うのかがわかっていなかった。

 ぶかぶかだけれど柔らかく馴染んで着心地がいいセーターを頭から被って、膝の生地が擦れて薄くなっているジーンズを穿く。
 すると、また母が部屋に入ってきて、「さっきのシャツでよかったのに!」と、悲鳴のような声を上げた。
 けれど、わたしはもう着替えたくなかった…。
 仁王立ちした母が、ベッドの上にハンドバッグを放り投げた。
 外出するときの母がよく使っている、紺色の台形のハンドバッグだ。

「これを合わせて」
 わたしはバッグを手にして鏡の前に立った。
「靴は学校用のローファーでいいから」
 鏡の中で、腕組みをした母がわたしの横に並ぶ。

 どう見ても変だと思った。
 ショートカットの髪はひよこのようだったし、ぶかぶかのセーターの首から痩せた肩が覗きそうになっていて、太すぎるジーンズと紺色のハンドバッグは、子供のオカマみたいで、みっともない。

「いやだ」
 わたしは、バッグを放り投げた。
「他のバッグを貸してよ」

「他のバッグは、あんたには高級すぎる」
 母は怒っていた。
「そのみすぼらしいセーターを今すぐ脱いで、さっきのシャツにもう一度アイロンをかけなさい」
 母は冷酷な軍事司令官そっくりの足取りで、わたしの部屋を出て行った。

 それからしばらく、わたしは身につけていたすべてを脱ぎ捨て、灰色の縞の入った小さな下着一枚の姿で、ベッドの上に寝転んでいた。
 そうしていれば、時間を気にする母が、渋々にアイロンを引っ張り出すとわかっていたからだ。

 やがて、居間からしゅうう、とスチームの音が聞こえた…。
 冬休み、進路指導の準備にと、『皆さんのお父様やお母様の職場を見学してきて下さい』という宿題が出された。

「いいテーマだな」と父が言った。

「お母さんの仕事は専業主婦で、このうちがお母さんの職場なんだから、わざわざ邪魔しに行かなくてもいいじゃない」
 母は、自分が迷惑しているような顔だ。

「邪魔ってことはないだろう。小さい子供じゃあるまいしな」と父が笑顔を向ける。
 自分がそれを面倒臭く思っていると言える雰囲気じゃなかった。

 父の仕事の予定表を見ながら、大体の内容の説明を聞かされた。

「この日は制作会社との打ち合わせだから、だらだら長い」
 潜水艦の艦長が作戦を打ち明けるように、予定表の小さな四角い枠を、とんとんと指差して睨みつける。

「こっちの撮影は、朝が早い」

「途中から行くんじゃだめなの?」
『7:00入り』と書かれている枠に指を置いたままの父に訊ねる。

「それはだめ」と母が答えて、わたしは黙った。

「お父さんに気を使わせないようにして」

「それなら、来週のこれ」
 別の枠の中で父の人差し指が跳ねる。『15:00入り 信濃町Rスタジオ』と書かれていた。
「ナレーションの収録だから、すぐ終わる。ラジオ・コマーシャルだしな」
 わたしは、深夜放送の合間に流れる、大げさな演技でバカバカしい台詞のやり取りをする寸劇のようなものを思い浮かべた。

「なんのコマーシャルなの」
 母が訊ねた。

「役所のキャンペーンだけどね。ナレーションは岸田多喜雄だよ」
 父が、自慢げに口にしたのは、テレビや映画によく出ている中年俳優の名前だった。

「岸田多喜雄が『東京都からのお知らせです』ってやるの?」
 母はテーブルについた肘から先を乗り出して、目を丸くしている。

「まさか」父が笑った。「確定申告だよ」

 税金というだけで退屈な感じだったけれど、つまらないコントみたいな騒々しいコマーシャルを生で見るよりは、ずっとましだと思ったし、その俳優がやるとヤクザの取り立てみたいになるんだろうと想像して、面白そうだと思った。

「そうねえ。今年は早めに出さないと」
 それから、父と母はわたしの宿題のことをすっかり忘れて、税金のややこしい話をし始めた。

「じゃあ、その日に、見に行くけど」
 わたしが声をかけても、母は見向きもしなかった。
父が、ちらりとこちらを見てかすかに頷いた。
 大ちゃんが不意に来なくなった。

 ゲームセンターに行って「大ちゃんちの電話番号とか、知らないよね」と店員に訊いた。「弟、そこにいるよ。大ちゃんの」と、店員が顎をしゃくる。
 店の隅で、表紙の破れたマンガ本を読んでいた少年が、顔を上げて、
「知ってる。アリでしょ」とわたしに言った。きっぱりした言い方だった。

「同い年だよね、あたしと」

「そう」
 またマンガに視線を戻して、勢いよくページをめくる。

「学校、鉢山だっけ」

「やめた」

「うそ」

「やめた」
 今度は覗き込むようにゆっくりとページをめくる。

「なんで」
 せっかく大ちゃんが一生懸命に働いているのに。

「大樹、捕まったから」
 弟は、マンガから顔を上げなかった。

「うそ」

「ほんと」

「うそでしょ」

「ほんと」
 言葉尻だけが大きな声になり、とうとう弟はマンガを閉じた。

「なんで」
 わたしは冷静でいようとした。だけど、そうするまでもなかった。
 心臓はばくばくと駆け出していたけれど、実際のところ、頭の中はいつもと変わらずにすっきりしていた。

 弟は、店員を見て、わたしを見て、少しだけ首を傾げてから、口を開いた。
「エレベーターの中で、小学生にいたずらしたから」

 わたしは言葉を失った。店員は「ええーっ」と声を上げた。

「ほんと、しんどいよ。新聞配達とかさあ」
 弟が両腕を目一杯に伸ばしながら立ち上がり、マンガ本が床に落ちた。
 わたしは、弟について店を出た。

「じゃあ、代わりに働くの」

「そう」

「大変だね」

「大変だよ、まいっちんぐだよ、ほんと」

 わたしは、大ちゃんよりもっと陽気な弟が気に入った。

 大ちゃんの弟は、わたしの部屋で、大ちゃんの代わりをした。
 わたしは、目を閉じて、大ちゃんのことを考えた。
 大ちゃんの弟の指が、わたしの中に入れられたり、まだ小さいおっぱいの先を、両方いっぺんにつままれたりすると、息苦しくなる。

 何かおかしいと気づいた。
 目を開けると、弟は、大ちゃんとは違う格好で、わたしの体の上にのしかかっていた。 
 弟の両手は、わたしの肩をしっかりと押さえ込んでいる。
 わたしの中に入っているのは、指ではないようだった。
「あっ」と思ったときには、もう終わっていた。
 弟は飛び退くようにわたしの体から下り、むっつりと不機嫌そうに、白いお尻を振って、パンツに脚を通していた。 

 大ちゃんの弟の名前は広樹なので、広ちゃんと呼ぶことにしたが、その後、彼の名前を呼ぶ機会は二度となかった。

 処女を失ったことに気づかなかったと言えば、広ちゃんは一生涯わたしを恨むほどに傷ついただろう…。
 悔しかったから、言えばよかった。
 わたしは、大樹を「大ちゃん」と呼ぶことになり、大ちゃんはわたしを「アリ」と、ボクサー風にきっぱりした言い方で呼んだ。
 大ちゃんは、学校に行っていれば高校二年だけど、一年の冬休みで自主的に退学した。「中学んときは生徒会長だったんだから。二年になったら生徒会に立候補しようと思ってたんだけどさあ」と、熱心に弁解した。
 
 大ちゃんの父親が、お正月に事故で亡くなった。
 まだ弟が中学生で、母親は耳が聞こえない。大ちゃんが働かなければならなかった。
 それから、学校を辞めて、新聞配達とデパートの荷物の仕分けの仕事をしている。
 時々はゲームセンターの店番を大学生と変わってやる。

「ただでやらせてもらってるのは、バイト代なんだね」と言ったら、大ちゃんは「あれはミカジメだよ」と真面目な顔で答えた。
 
 初めのうち、大ちゃんと会うのはゲームセンターだけだったが、わたしが駅からの帰り道で痴漢につけられたとき、ゲームセンターに逃げ込んだわたしを大ちゃんが家まで送ってくれてからは、わたしのうちに頻繁に立ち寄るようになった。

 大ちゃんは、新聞を配り終えた早朝に来る。
 わたしの部屋がある方の玄関は、鍵をかけていないことが多かった。
 鍵をかけていても、あらかじめ電話で来ることを知らせる誰かがいれば、眠る前に鍵を外し、そのままにしていた。
 音を立てずに入ってくるから、わたしも気づかない。
 わたしは、大ちゃんが眠っているわたしのベッドに潜り込んできてから、大ちゃんが来たことに気づく。
 だけど、玄関の鍵は、いつも開けていた。

 わたしは、大ちゃんが来たことに気づいていた。
 ベッドにいても、油が切れた自転車のブレーキの音で、大ちゃんだとわかる。
 わかっていて、気づかないふりをしているだけだった。

 ベッドに潜り込んでわたしの体を覆うように腕を回す大ちゃんに気づいても、眠ったふりをしていた。
 わたしが眠ったふりをしていると、大ちゃんは自由にわたしの腕や脚を撫でたり、額や鼻の頭を舐めたり、パンツの中に手を入れて、その奥まで指を入れたりする。
 だから、わたしはいつも眠ったふりをした。

 わたしはそうされるのが気に入っていたのだ。
 三十分ほど、おっぱいの大きな女の子の着ている服を脱がしたり、また着せたりしていると、お客さんが入ってきた。

「暇だねえ、相変わらず」
 大きな声で言いながら、わたしと同じくらいか、それより少し上くらいの年格好の痩せた男の子が、居眠りをしていた店員を足で蹴った。

「なんだよぅ」
 店員の眠そうな声が聞こえた。やっぱり声が低い。首が長過ぎるのだ。

「暇だと思って来てやったんじゃん」
 客の男の子は、明らかに自分より年上の店員を、同い年かそれ以下に見ているとわかった。

「とりあえずさ、やらしてよ」

「だめだよぅ」

「いいじゃん。ほら、鍵貸してみな」

「俺が怒られるんだからさぁ」

「黙ってりゃバレないだろ」

「そうだけどさぁ」 

 今にも店員が「いい加減にしろよ」と怒り出すのではないかと、わたしは、気もそぞろで、麻雀に集中できなかった。

 痩せた男の子は、店員からまんまと鍵を取り上げ、ゲーム台の鍵穴に差し込んでいる。
 わたしは、上目遣いをやめて、顔を上げた。
 かがみ込んだ男の子が、ゲーム台のガラス板を持ち上げて中の何かをどうにかすると、けたたましい音楽が鳴り始めた。

「うるさいんだよなあ、それ」
 店員が顔を顰めて笑っている。

「いいじゃん、なんか盛り上がんないじゃん」
 店の雰囲気が暗いのは、ゲームセンターらしい賑やかなゲームの音がないからだ。
 爆撃の効果音が響き渡った。
 男の子は、硬貨を入れずにゲームをやっているのだ。

 わたしは、自分のゲーム台についたまま、煙草を出した。
 男の子が顔を上げて、わたしの煙草に火がつくのを見ていた。
 ぼぼぼーん、と、宇宙船がやられる音が聞こえているのにも構わず、男の子は立ち上がってこちらに向かってくる。
 わたしは、俯いた。

 ぼぼぼぼーん。
 操縦士を失った宇宙船が、また燃え上がっている。

「ちょっといい?」どけ、という仕草をする。

 わたしはゲーム台とスチールパイプの丸椅子を奪われ、ぼんやりと立ち尽くした。

「お金出してやることないよ」
 ガラス板を持ち上げた男の子が、わたしに言う。

「ありがとう」と言うべきか、「困ります」と言うべきか、迷っていた。
 だが、別に困ることはなかった。
 男の子は、ゲーム台から鍵を抜き取ると丁寧に丸椅子の位置を直して、「どうぞ」と、わたしに向かって恭しく手を広げた。意外と紳士的なのだ…。
 麻雀も、女の子の服を脱がすのももうやめたかったのだけど、彼の善意を受けて、もう一度椅子に腰掛けた。

 彼は、ゲーム台を挟んでわたしの向かい側に座り、「うちどこ」と訊いてきた。
 『START』と点滅するボタンを押さないまま、「すぐそこ」と答える。

「何年?」

「三年」

「うそ、高校?」

「中学」

「広尾? 鉢山じゃないでしょ」

「私立」

「俺、鉢山中学だった」

「今は?」

「ひみつー」「退学だろ、退学」
 男の子と同時に、店員が答えた。

「自主退学だから」
 ちらっと店員を振り返ったあとに、わたしを見て言った。
 わたしは少し笑った。
 男の子は、なんだかほっとしたようだった。

 店員は、またマンガを読みはじめている。
 きっと毎日同じマンガを読んでいるのだ。