
子曰(zi yue):゛ 賢(xian)哉(zai),回也(huiye)。一箪食(yidansi)、一瓢飲(piao)、在(zai)陋巷(louxiang)、人(ren)不堪(bukan)其憂(qiyou);
回也不改(bugai)其(qi)楽(le)。賢哉,回也。“
子曰く、”賢なるかな回や。 一椀を食べ、一杯の水を飲み、路地裏に住んでいる。人はそんな辛さには堪えられないものだ。; 回はそうじゃない。其れを楽しみに変える。賢なるかな回や。”
回:願回,孔子の一番弟子
Te Master said, “How worthy Hui is ! Eating out of a bamboo container, drinking out of a gourd ladle, and living in a narrow shack—others would be utterly dejected but Hui never alters his delight. How worthy Hui is! ”
【Yoshiのつぶやき】
短い文で意を尽くす。この点で、日本語も中国語に及ばないと実感する。昔寺子屋で日本人が論議を学んでいたことは良く耳にするが、日本では、お寺で坊主がしていた説教もそんなようなものだ。昨今、20歳の大学生の男子が、「人を殺して見たかったから、殺した。」 50歳4近くの独身男が、子供の後っを付けて殺すとか、これまで全く考えられなかったことが起きるのは、世代を超えて話す機会が無いことに起因すること大と思うがどうだろう。ひょっとして
ブログがその穴を埋めてくれると良いとも思うけれど、どんなものだろう。