子在川上


子(zi)在(zai)川(chuan)上(shang)曰(yue):
“逝(shi)者(zhe)如(ru)斯(si)夫(fu) !
不(bu)舎(she)昼(zhou)夜(ye) ! “

子、 川の上(ほとり)に在りて曰く、
逝(ゆ)く者は斯(か)くの如きか
昼夜を舎(や)めず。

The Master, standing by the river, said, “That which goes by
is like this, without stopping day and night


孔子が川の畔で仰った。”過ぎ去った光陰はなんと川の流れのようではないか。昼夜を分かたず流れ続ける。”
【Yoshiのつぶやき】
論語の中で、最も名言とされる1句です。先に、論語を語ったとき、今回子供用のテキストを用いますと云いました。一旦論語を中断したとき。とても気になる本句の前で繋ぐことにしたときも大変気になった1句です。今にして思えば、前回は、井上靖の「孔子」を読んだあとで、靖の話が頭のなかに残っていたからだとも思います。
子供のテキストで抜粋された中にこの句があったことは、著者が子供のも読ませたいと思ったからに違いありません。でも子供の絵本に残すには難し過ぎる気がしませんか。
今回、ご本人が、ご自分で孔子の子孫だと仰る、孔祥林氏の解説によって中国人だどう思うか考えました。結論は、論語に忠実に文章そのまま、読む人に考えてもらおうということのように思いました。
「舎(や)めず」は、「舎(お)かず」と同じです。
この句は、時間・場所・対話者が特定されてないので、後の人々が想像する訳ですが、
「孔子が理想に到達することなく、故郷の川の畔で、ずいぶん努力をしたけれど結局川の流れのように何も変わらないまま自分も年を取ったものだ。」
とするやや弱気の解釈と、
「何が起ころうと関係なく、川は滔々と流れて、気にする様子もない、人間昼夜を分かたずただ前進するのみ」
とする強気の解釈だ。
吾が尊敬する吉川幸次郎先生は、逝(ゆ)く者を「過ぎゆく者」と読むか「進む者」と読むか、時代が変わると違う解釈が出て来ると考察されているとのこと。
中国の地図を見て、孔子のたどった道を見て考えた、川は「黄河」か「泗水」だ。泗水のような気がした。黄河はいかにも大きすぎる。中国で、カラマイ油田に行った時、黄河を見たいと中国人に所望した。道をそれて3時間も走っただろうか、とても遠くて行けやしない。明あめた時、中国人が言ったもんだ。「君は幸せものだ。黄河がもう一度来いと言っているのだと。」帰りの飛行機で、黄河を探した。大きい、大きい。孔子が畔で流れを見たって、海のようなものだ。泗水の方がそれらしい。泗水だって淮河の支流で大河であるのは間違いない。