ハルピン市の地図をみよう。1930年のハルピンだ。

しばらく生活していたハルピンだが、この図から女学校を探すのは容易ではない。さすがに、もう一度ハルピンに戻って探す気力も無い。
ハルピンは、1896年帝政ロシアが目を付けシベリアから鉄道を引き開発を始めた所である。西北の満州里から引き込み、南東へ出、中国から韓国へ出る計画である。此の地には、大河松花江(ロシア名スンガリー)があり、南西から東北へ抜ける。大河で船による物流が古くから行われていた所で、鉄道と大河が直角に交わる所に建設され、ペテルブルグなどを真似たロシア風の街である。上の地図で、右肩に松花江がある。記憶の中に第二松花江というのがあるが、調べてみると、松花江は一つしかなく、同じ河だそうである。大河で沢山の支流があるのが混乱の原因のようだ。この地図ではこれも右肩から入る鉄道がご覧いただけるだろう。
今回改めて、思い起こす事実は、ハイラルはソ連の空港から飛行機が飛び立ち、見えなくなるときにはハイラルで機影を見ているとはかねて聞いていたことではあるし、そんなことをしなくても、満州里から汽車で国境を超すこともできるような所である。

現在のハルピンは人口1,000万人の大都会だ。
【Yoshiのつぶやき】
当時ハルピンに住んでいた人の話も見つかって、色んなことが判ってきたが、ハルピン以外から避難してきた日本人のための収容所も10か所近くあり、当然の事としてハルピンに住んでいた人々の生活があったのである。誰が支配していたかは判らないが、中国人と日本人とソ連人などの社会があって、その中で中国人が最も強くなり、時々来るソ連兵達の略奪などが日常茶飯事だったらしい。やがて元々ハルピンに住んでいた日本人も街中では住めなくなり、新たな収容所ができ、集まって日本へ帰る準備をすることになったらしい。床屋をしていた人、食堂をしていた人なども、やがて店も中国人に奪われ商売もできなくなったとのことだ。そんな中で、二度とできない経験を、いくつか思い出した。
日本人の男狩りと日本人男の夜盗?
冬のある日、避難所に居る大人の男たちを全員、ソ連兵がどこかへ連れて行った。特高・軍人狩りだ。特高とは特別高等警察のことで、憲兵のことだ。男達を一人一人取り調べ
元憲兵を見つけ出し、捕まえた。中国人で日本人と仕事をしていた人も加わり、尋問し大方の人はバレタようだ。この人達は二度と収容所には帰らずシベリアへ連れていかれた。
父は、軍人ではなかったが、2週間ぐらい経っても帰って来ない。上の姉が、取り調べ所へ行って掛け合ったがはっきりしない。数日して帰ってきたときは本当に嬉しかった。父の話では独房のような所へ入れられ、取り調べを受けたそうだ。殴られるわけではないが色々聞かれ夜は独房へ戻り、着の身着のまま、零下数十度は本当に大変だったとのこと。釈放の理由は、中国人で父を知っていた人が居て説明してくれ相手が納得したとのことだ。
ある夜、男達が全員居なくなった。しばらくして帰って来たが聞くと、近くの山へ薪を盗みに行ったとのことだった。避難所のストーブの燃料が不足して寒いので燃料調達に行ったものだ。事なきを得たが気になったことだった。避難所で、女は全て丸坊主、ソ連兵の略奪を恐れて男の格好をしていた。
ハルピンで何度か民衆裁判を見、また別の場所で連日、日本兵の処刑があったという噂を聞いた。民衆裁判というのは、ちょっとした広場に数台のトラックが来て、人だかりができる。
一度は、とんがり帽子をかぶった女性(中国人だと思った)を前に出し、鉄砲を持った八路軍の兵士が、集まった民衆に向かって罪状を叫び、どうするか意見を聞く、この時は「丸坊主!」との声が多かった。すぐさま近所から床屋を連れてきて髪を丸坊主にした。その時はそれで解放したと思う。
もう一度は、とんがり帽子を被った中国人の男だった。とんがり帽子に亀と兎の絵が描いてある。亀兎は日本で言う馬鹿と同じ意味だ。この時の罪状は「盗み」だった。さっそく民衆裁判が始まった。100人以上の民衆が集まっており、その中に、なぜか日本人の子供が混じっていた。
収容所の出入りは比較的自由で、時々辺りを出歩いていた記憶がある。この時は「殺せ!」の声が多かった。やおら、その男をトラックから降ろし、民衆に広場を開けさせて、隊長らしき兵士が男に「歩け!」と叫んだ。5,6人の兵士がトラックから降り、銃を構えた。隊長が「撃て!」と命じた。4,5m駆けていた男は一斉射撃を受け、その場に倒れた。数台のトラックは何事もなかったように引き上げた。男の遺体は広場に数日、放置してあったが、そのうち無くなった。
ハルピンは、1945-8-9ソ連兵が乱入し、日本の主要設備のほとんどがソ連軍に撤収されたが、ソ連軍からハ路軍の管理下に移った。この時既に、満州ではハ路軍と、国民党軍との激しい攻防が始まっていたのである。
【豚の鳴き声】収容所近くに屠殺場があった。簡単な囲いで簡単な造りだが、朝豚がぞろぞろ入っていく。時に大声で泣き叫ぶものだからこっそり覗きに行った。見ると屠殺した豚の足の爪と皮の間にナイフで切れ目を造り、管を差し入れて口で空気を入れ膨らせている。そのうち豚が風船のように膨らむが、膨らみきったところで、皮を裂き豚を赤裸にしていた。びっくりして見ていたが子供と言うものは変なことに関心を持つものだ。今でも時々思い出す。

しばらく生活していたハルピンだが、この図から女学校を探すのは容易ではない。さすがに、もう一度ハルピンに戻って探す気力も無い。
ハルピンは、1896年帝政ロシアが目を付けシベリアから鉄道を引き開発を始めた所である。西北の満州里から引き込み、南東へ出、中国から韓国へ出る計画である。此の地には、大河松花江(ロシア名スンガリー)があり、南西から東北へ抜ける。大河で船による物流が古くから行われていた所で、鉄道と大河が直角に交わる所に建設され、ペテルブルグなどを真似たロシア風の街である。上の地図で、右肩に松花江がある。記憶の中に第二松花江というのがあるが、調べてみると、松花江は一つしかなく、同じ河だそうである。大河で沢山の支流があるのが混乱の原因のようだ。この地図ではこれも右肩から入る鉄道がご覧いただけるだろう。
今回改めて、思い起こす事実は、ハイラルはソ連の空港から飛行機が飛び立ち、見えなくなるときにはハイラルで機影を見ているとはかねて聞いていたことではあるし、そんなことをしなくても、満州里から汽車で国境を超すこともできるような所である。

現在のハルピンは人口1,000万人の大都会だ。
【Yoshiのつぶやき】
当時ハルピンに住んでいた人の話も見つかって、色んなことが判ってきたが、ハルピン以外から避難してきた日本人のための収容所も10か所近くあり、当然の事としてハルピンに住んでいた人々の生活があったのである。誰が支配していたかは判らないが、中国人と日本人とソ連人などの社会があって、その中で中国人が最も強くなり、時々来るソ連兵達の略奪などが日常茶飯事だったらしい。やがて元々ハルピンに住んでいた日本人も街中では住めなくなり、新たな収容所ができ、集まって日本へ帰る準備をすることになったらしい。床屋をしていた人、食堂をしていた人なども、やがて店も中国人に奪われ商売もできなくなったとのことだ。そんな中で、二度とできない経験を、いくつか思い出した。
日本人の男狩りと日本人男の夜盗?
冬のある日、避難所に居る大人の男たちを全員、ソ連兵がどこかへ連れて行った。特高・軍人狩りだ。特高とは特別高等警察のことで、憲兵のことだ。男達を一人一人取り調べ
元憲兵を見つけ出し、捕まえた。中国人で日本人と仕事をしていた人も加わり、尋問し大方の人はバレタようだ。この人達は二度と収容所には帰らずシベリアへ連れていかれた。
父は、軍人ではなかったが、2週間ぐらい経っても帰って来ない。上の姉が、取り調べ所へ行って掛け合ったがはっきりしない。数日して帰ってきたときは本当に嬉しかった。父の話では独房のような所へ入れられ、取り調べを受けたそうだ。殴られるわけではないが色々聞かれ夜は独房へ戻り、着の身着のまま、零下数十度は本当に大変だったとのこと。釈放の理由は、中国人で父を知っていた人が居て説明してくれ相手が納得したとのことだ。
ある夜、男達が全員居なくなった。しばらくして帰って来たが聞くと、近くの山へ薪を盗みに行ったとのことだった。避難所のストーブの燃料が不足して寒いので燃料調達に行ったものだ。事なきを得たが気になったことだった。避難所で、女は全て丸坊主、ソ連兵の略奪を恐れて男の格好をしていた。
ハルピンで何度か民衆裁判を見、また別の場所で連日、日本兵の処刑があったという噂を聞いた。民衆裁判というのは、ちょっとした広場に数台のトラックが来て、人だかりができる。
一度は、とんがり帽子をかぶった女性(中国人だと思った)を前に出し、鉄砲を持った八路軍の兵士が、集まった民衆に向かって罪状を叫び、どうするか意見を聞く、この時は「丸坊主!」との声が多かった。すぐさま近所から床屋を連れてきて髪を丸坊主にした。その時はそれで解放したと思う。
もう一度は、とんがり帽子を被った中国人の男だった。とんがり帽子に亀と兎の絵が描いてある。亀兎は日本で言う馬鹿と同じ意味だ。この時の罪状は「盗み」だった。さっそく民衆裁判が始まった。100人以上の民衆が集まっており、その中に、なぜか日本人の子供が混じっていた。
収容所の出入りは比較的自由で、時々辺りを出歩いていた記憶がある。この時は「殺せ!」の声が多かった。やおら、その男をトラックから降ろし、民衆に広場を開けさせて、隊長らしき兵士が男に「歩け!」と叫んだ。5,6人の兵士がトラックから降り、銃を構えた。隊長が「撃て!」と命じた。4,5m駆けていた男は一斉射撃を受け、その場に倒れた。数台のトラックは何事もなかったように引き上げた。男の遺体は広場に数日、放置してあったが、そのうち無くなった。
ハルピンは、1945-8-9ソ連兵が乱入し、日本の主要設備のほとんどがソ連軍に撤収されたが、ソ連軍からハ路軍の管理下に移った。この時既に、満州ではハ路軍と、国民党軍との激しい攻防が始まっていたのである。
【豚の鳴き声】収容所近くに屠殺場があった。簡単な囲いで簡単な造りだが、朝豚がぞろぞろ入っていく。時に大声で泣き叫ぶものだからこっそり覗きに行った。見ると屠殺した豚の足の爪と皮の間にナイフで切れ目を造り、管を差し入れて口で空気を入れ膨らせている。そのうち豚が風船のように膨らむが、膨らみきったところで、皮を裂き豚を赤裸にしていた。びっくりして見ていたが子供と言うものは変なことに関心を持つものだ。今でも時々思い出す。