【Yoshiのつぶやき】
ハルピンで貨車から降り、収容所へ移動した。といっても、この辺の事で覚えていることはほとんどない。女学校というところへ着き行動へ落ち着いた。大きな講堂1部屋が世界で、貨車に乗っていた人全てか、一部かも判らない。200人ぐらいだったかしら。1家族が一つの敷物を確保し、これから寝たり食べたりしたのだ。
8月15日、召集が掛かった。
校庭に出ると大勢の人が集まっており、重大な放送があるという。しばらくして、「忍び難きを忍び、・・・・・」と昭和天皇の声が聞こえた。
校庭で父と再会した。奇跡のような話だ。家族が元の4人に戻った。
今思うと、判らないことがある。
校庭で前に立って仕切っていた人は一体誰だったのだろう?
避難民を仕切って(支配して)いたのは誰だったろう?
敗戦って何だ?
ということだ。

8月9日までは、日本国は天皇の国で、ハイラル市には日本人の市長が居たのではないだろうか。市は関東軍が守っていた筈だ。迷彩服を着た軍人が戦車に乗ってやってきて逃げろと指示し、逃げて来た。そして、ハルピンの女学校に避難した。
ハイラルに攻めて来たのはソ連軍だ。ロ(ろ)すけと呼んでいた。

1945-8-15時点で、ハルピンはソ連兵の支配下だった筈だ。1945-8-9、174万人のソ連兵が、中立の約束を破って大挙して満州に攻め込んだ。ソ連に抑留された日本兵は57万人(2014-8-15 NHK TV)と言うから、この時点で、武装解除した日本兵が57万人いた筈だ。恐ろしい話だ。

八路軍って知ってる。
この地に中国軍が居た。

中華人民共和国の建国は1949-10月。
1945年時点で、毛沢東率いる中国共産党の八路軍の陣容は60万人ぐらいだった。
八路軍はソ連軍の援助を受け、対抗する蒋介石率いる国民党軍はアメリカの援助を受けていた。装備は国民党軍のものが八路軍のそれよりより優れていた。八路軍と国民党軍との内戦が1945年11月再開されるが、この時点で国共の左境はハルピンぐらいだったようだ。
八路

蒋介石は1949年⒑月1日に内戦に敗れ、台湾へ逃れた。
将介石
敗戦ってどういうこと。此の地の支配者は、日本人ではなく、ソ連軍の筈だ。広場で真ん中に立っていた人は、ソ連兵でなければならない筈だ。もしくはソ連兵の許可を得た日本人の筈だ。60万人いる八路軍の内、何人がハルビンに居たのだろう。1945-8-9のハルビンに居たのは関東軍だけだろうから、侵入したソ連兵を除けば、八路軍など一人も居なかった筈ではないか。周りの中国人が一夜にして寝返ったのか。何とも恐ろしいことではある。周りは全て敵兵の中で、これからしばらく囲いの中で住むことになる。主食の高粱(コウリャン)は誰がどこから持ってくるのだろう。敗戦と言うのはこういうことだ。国の為政者はこういうことを片時も忘れてはいけない筈だが、現在の日本為政者にそんな気持ちがあるとはとても思えない。