【Yoshiのつぶやき】
満州の昔の地図と現在の地図を1日眺めて気になったことがある。
逃げるんだ!
ところで、何のために、どこからどこへどう逃げるの?
と言うことだ。

昨日まで、何も考えずに平和に過ごして来た町からなぜ逃げ出すのか。
攻めて来たのはソ連兵だ。日ソ和平条約があるから、ソ連に攻め入る大義はない筈だ。
自分の今居るところは、満州だ。日本人が満州に居ることの正当性が問題だろう。
ソ連の侵攻とともに、昨日までの通貨、円が紙屑となったところをみれば、ここは中国人の国だった筈だ。とすれば、ここは中国人の国だった筈だ。
廻りの中国人が一日にして敵に変わった。特高の摘発が始まった。

どこへ逃げるのだ?
子供も、大人も、兵隊も(?) 逃げ始めたが一体どこへ逃げるのか? 日本から遠く離れたソ満国境で、日本に逃げるったってピンと来ない。いやピンと来なかったはずだ。取りあえずハイラル駅へ集まり、目指すところは、来た道を逆に辿って釜山だろう。
敵は、ソ連兵と中国人だ。時に中国は、ハチロ軍と蒋介石が闘っていた。
今考えれば、住んでいたと所から逃げ出し、その際かって住んでいた人達から迫害されるような選択は正しくなかったのだろうとの思いだ。

一晩中線路伝いに歩いて夜が明けた。なお皆ぞろぞろ歩いていた感じだ。時々銃撃の音が聞こえ、ハイラルが真っ赤に燃えている状況だから、必死に逃げたに違いない。喉が渇いて水筒の水を何度か飲んだのだろう。水筒は空になり、気が付くと蓋が無くなっていた。たまたま線路の下に小川が流れていたので、下に降り、小川の水を飲み、水筒にも詰めて、蓋が無いので持っていた茹でたトウモロコシの芯を詰めた。妙なことを覚えているものだ。この後、このトウモロコシの芯が水筒の中に落ち込み、抜けなくなった。
明るくなって、ちょっとした駅のような所に到着した。今地図で調べるとハイラルから次の牙克石(カコクセキ)駅までは80km近くあるので、ここは駅ではなかったと思う。あたりを見ると、日本兵が飯盒で飯を炊いていた。子供二人に炊き立てのご飯を分けてくれた。

なお歩いていると、ハイラル方向から、貨物列車がゆっくり走ってきて止まった。予定していたもので、無蓋車だった。線路脇で、歩いている人を拾いつつ進んだ。時々、ソ連の戦闘機が襲撃をかけて来る。音が聞こえたら、無蓋車は止まり、乗っている人は飛び降りて、木の陰などパイロットから見えにくい所に逃げた。
何度目か、無蓋車から飛び降りた赤子連れのお母さんが、戦闘機の機銃掃射に捕まった。
自分の体で赤子を庇い血を流して死んでしまったのを横に見ながら我先に逃げ惑う姿は今もくっきり残っている。

無蓋車の逃避行だが、拾われて乗り込んだ時、10輌ぐらいの無蓋車には、兵器の類だと思ったけれど、2m□で高さが1mぐらいの重そうな荷物がぎっしり積んであり、その上に人々が思い思いに乗っていた。

下の姉が、この貨車のどこかに上の姉が乗っている気がすると大声で名前を呼びながら、荷物の間を駆けて姉を探しに行って姉を見つけたのは奇跡と言えば奇跡のようなものだ。
ばらばらだったのが3人になった。父親の行方はまだ判らない。

貨車は約800km離れたハルビンへ向かっていたようだ。一昼夜ぐらい掛かったのではなかろうか。地図を見ると、線路は大興安嶺が一か所低くなっている所を通ってまっすぐハルビンに向かって走っている。チチハルまでは山塊の北側を通り、チチハルを過ぎると嫩江(のんこう)の流れに沿う形で東南に進みハルビンヘ向かう。


現在のチチハルはのどかな湿原ではある。途中記憶はほとんどなくハルビンに着いた。
1945年8月11日だと思う。

ところで、実は仕事の関係で、1980年代に30回近く中国の東北地方を訪れている。油田の開発に関係しており、油田近代化のための診断を行うため各地の油田を訪れたのである。大慶油田は、有名な大慶油田はハイラルの近くであるとはよく知っており、北京から36時間かけて現地に行く汽車の中で期待していたものだ。北京から北へ行く車窓の景色は単純で、やせ細ったまばらな林はどこまでも、どこまでも続き厳しさだけを思わせるものだった。現地について油田を見た時、大慶市そのものは、大きな町で到る所サッカーロッド油井のある賑やかなところだったが、今回ゆっくり地図を見、昔の地図と比べて驚いた。
大慶油田は、西はチチハル、東はハルビン、南は吉林省と接する大湿原である。
中国と縁が深くなったとき、その昔、中国に住んでおり、言葉も話していたので、あまり抵抗は無かったものの、気付いてみれば、覚えていた言葉は、「マーラカピー、ワアンパトウズ(亀・兎)」など、子供の喧嘩で使うものばかり、これじゃ駄目だと痛感した。子供のころ、夜、無蓋車に乗って逃げたところに行ったのも何かの縁だと思う。