
1945年8月9日の朝日新聞である。それは突然やってきた。
朝、父は役所に出掛け、上の姉は女学校へ出掛けた。飛行機の爆音が聞こえたのはその後だった。前日に明日は防空訓練があるという通達が出ていたので、北の空を見ていたら、様子が違う。すぐにソ連軍が攻めてきたとの話が伝わり、そのうち、上の姉も帰ってきた。

これは戦争だから、すぐ防空壕へ避難するということになり、10時頃だったと思うが、兄弟3人で、北の方向へ、隣組で作ってあった防空壕へ逃げ出した。荷物は水筒一つだった。すぐ帰ってくるものだと思っていたが、2度と帰ることはなかった。
この日ソ連極東群は、自走砲を含む戦車5,200台兵力175万人という膨大なもので、第1極東方面軍、第2極東方面軍、ザバイカル方面軍と3方向から攻め込んできた。対する関東軍はざっと20分の1の戦力だったという。
もともと関東軍は国境付近に最新鋭部隊を配置し、侵攻の気配を察し機先を制することになっていたが、実力部隊を南方戦線に抽出され往年の力は持っていなかった。ソ連の攻撃に対応する各部隊とも状況は同じだったらしい。ハイラルに攻め込んだのはハイラル北方100kmのスタルツルハイツから外蒙古のジャミンウドに到る約1,000kmの10地点から開始されたが関東軍が直接抵抗したのは、一番北から来た第36軍とアルシャン付近から侵攻した第39軍のみで、他の軍団は文字通り無人の原野を前進してきた。
北西方面で唯一ハイラルの日本軍との戦闘は、日本側は昨日の市街図に記載あった、独立混成第80旅団(野村登亀江少将指揮)約5,000名だった。前衛部隊として死守を命じられていた旅団は頑強に抵抗したが戦車を爆破するほどの火砲はなかったから、昼間は陣地にひそみ夜になると爆弾を抱いて肉薄攻撃を繰り返し、ソ連軍の前進を阻み一つの陣地を放棄することなく、終戦を迎えている。この戦闘で第80旅団の戦死者は約1,000名であった。大変な激戦であったのだ。
8月9日当日、防空壕へ逃げ出した家族は、夕方からハイラルを撤退することになり、まずはハイラル駅へ終結した。ハイラル駅から汽車で撤退する予定だったのだろうが、無蓋車はあるが機関車が居ないということで、線路伝いに歩いて移動することとなった。

(満州国:川村湊 現代書館 より)
こんな感じだと思うが、我が家の場合落ち物は水筒一つ。姉はお金を持ち出した。
【Yoshiのつぶやき】
この時まで、父はや役所に行ったきり。上の姉は病弱で歩けなく、ハイラル駅で汽車が動くのを待ち、下の姉と9歳の男の子が線路伝いに歩き始めた。上の写真のように他にも多くの人達が歩いていた。やがて真っ暗な中を月の光か星の光か ぞろぞろ朝まで歩いた。夜、気が付いたことは、歩いてきたハイラルは真っ赤に燃えていた。火を付けて燃やした所も多いということだった。住んでいた所が大火事で燃える景色は忘れられない。
上の姉は、汽車を待つ間に、兵隊さんから手榴弾を渡され、ソ連兵が来たら、自殺しなさいと言われたそうだ。悲しい話は、小さな子供たちだ。お母さん達は、これからいつまで歩くか判らない中で、三歳以下の子供は、貨車に載せて機関車が来たら後から追いかける事とし、お母さん達と別れた。その後その子供たちと再会したお母さんの話は聞かない。
ソ蓮は4月(1945年4月)に、日ソ中立条約の破棄を通告したが、条約によれば、破棄通告後1年間は有効という取り決めであり、その限りでは明らかにソ連の条約違反である。
話は変わるが、列車で退却する筈のところ、列車が来ず、待ちぼうけであったとの話をしたが、遡って、かの悪名高い732部隊はこの日早朝、ハルビンの本部内引き込み線に15-40輛編成の列車を仕立てて釜山に向けて逃げ出した(図解満州帝国文殊社)そうである。
今回、満州時代を思い興し確認したことだが、これまで、あの時 関東軍は全員敵前逃亡したものと思ってもいたし、他人にもそのように話していた。けれど事実は違ったようだ。家族が逃げている間、関東軍は命を懸けて敵の攻撃に向かっていた。
証言もある。愛知県の八木文吉さんの、「ハイラル陣地で戦って」という文章を見つけた。その時八木さんの部隊は、満州里で国境を守っていたが少数のためこのままでは全滅するとハイラルへの撤退を決めた。この戦線では終戦まで陣地を放棄することはなかった。
その後、ソ連軍の捕虜となりシベリア抑留、帰国して現在愛知県のお住まいだが、八木さん達のご活躍が無かったら、多くの日本人が死んだことだろうと思う。八木さんの感謝!