ハイラル
ハイラル市の地図を見つけた。記憶にある満州は、
父と姉2人が釜山から寝台車に乗ったこと、
ハイラルで春先朝家を出て、川の畔まで来てみると昨日まで硬く凍って車が上を走っていた川が一度に溶けて、5m四角ぐらいの氷の塊となって轟音とともに流れ出していたこと、水は学校へ行く方向に向かって、左から右へ流れていたこと、
夏一面の草原で小学生が全員でジャガイモ畑を作ったこと
などあるけれど、少なくとも 冬1回、夏1回は過ごしている。ハイラルを去ったのは夏だから、1年以上はハイラルいたはずだ。

先のハイラル市街地図と記憶を重ねると、市の北を東から西へ流れるハイラル河に南から入り込む河は伊敏河(イミンホー)だ。上の地図で、伊敏河は小川のようだが、実際は興安嶺から延々300kmも流れる大河である。
してみると、夏の日泳いだ河はハイラル河で、氷が解けて音を立てて流れていた河もハイラル河だ。住んでいた官舎は1地区で、通っていた小学校は師団司令部近くとすれば辻褄が合う。

【Yoshiのつぶやき】
釧路に住んでいた時、父が元上司の誘いで満州へ行った。土木行程省のハイラル支局(?)先に行っていた父の呼び寄せで、家族が満州へ行くことになり、母子4人が富山まで来たとき、母が病に倒れ富山の親戚に身を寄せた。高岡の福光だ。ここで母が亡くなり、改めて釜山経由でハイラルに入った時、家族は4人だった。
ハイラルの記憶は、冬は寒く-40℃、フェルトの長靴は暖かく、ホロンバイン草原は毎日青く抜ける空で雨の記憶はない。夏は極めて暑く空はここでも真っ青で、白い雲が浮かんでいた。雨も雪も降らない場所だ。
で、
昨日一日、上の地図を眺めていて確信した。

家は北向きで、
南裏の庭に砂場があった。砂場で砂の戦闘機を造り飛んでいた。
家はハイラル河の北側で、学校へは歩いて通った。子供の足で1時間はかからなかったと思う。川沿いに東を進み、橋を渡って南へ進み、線路を超えて市街地へ入る。
ロータリーを東へ進むと小学校だ。小学校の裏山はそのままホロンバインに繋がっている。
ハイラル駅は、市街地の西北。駅の南に市街地が連なっている。

ハイラルは、一、二、三、四と五地区の5つの関東軍要塞に囲まれた町で国境近く厳重に防備された町だった。1945年8月8日のこの時、満州里の部隊は、戦力が減って満州里にこだわると5,000人が全滅すると、ハイラルぬ向かって撤退し、中間地点まで到達していたらしい。

敵機は西北の方向がら攻撃してきた。